騒げば騒ぐほど遠のく五輪メダル リオで日本が結果を残せた理由①
リオ五輪が聖火台の火を消し、閉会した。日本は史上最多のメダル41 個を獲得したことで喜びに沸いているが、選手強化という観点
から言えば、金メダルの数こそが当然重要になる。リオ五輪で日本は12個の金メダルを獲得し た。1964年の東京、2004年のアテ
ネの16個には及ばなかったが、1972年ミュンヘンの13個に続く数字である。そもそも国別メダルランキングな るものは五輪憲章が
否定している。だが、その国のスポーツ力を測る指針としてメダル数を考えるならば、金メダルの数が参照されるべきである。一番と二
番の 差は大きく、トップの座を射止める力こそスポーツ力の証明となるからだ。
リオ五輪の閉会式で、入場する日本選手団。日本は史上最多41個のメダルを獲得、2020年東京五輪に夢をつないだ(共同)
前回大会のロンドン五輪の7個から12個への飛躍は、確かに成長としてとらえてもいいだろう。その要因はどこにあったのか。
ナショナルトレーニングセン ターの設立と活用、2020年東京五輪へのモチベーションと強化プランなど様々な外的要因が挙げられる
だろう。もちろん一つの要因が全てを説明できるわけ ではない。そこで、私は選手団本部の経験者としての視点から考えたい。選手が
その力を発揮しなければならない現場にある選手団本部が、どのように選手に関 わるか。その関わり方が地味でありながらも、メダル
の結果に少なからず繋がっているように思えるからである。
一体、選手団本部とは何か。日本オリンピック委員会(JOC)は五輪やアジア大会への参加のために日本代表選手団を形成する
が、その構成の中心に本部と呼ばれる統括的機能を設けている。本部は選手村内に設置され、選手と役員を24時間体制でケアす
る。
1982年、インドはニューデリーで開催された第9回アジア競技大会の日本代表選手団本部が私にとって初めての選手団体験であ
る。選手団本部は団長、副団 長、強化担当役員、総務担当役員、渉外担当役員などが設けられ、その下に本部員が配属されて選手
団運営に関わる。私は渉外担当として、組織委員会や各国選 手団との折衝が主な仕事であったので、アジア大会が重視する文化交
流に重きを置いた活動が中心であった。
しかし選手団役員にとって、最も大事なことはメダルの数、特に金メダルの数であった。それに気づくには一日とかからなかった。
それまでアジアトップの座を 譲らなかった日本が、この大会で中国に越される可能性があったからだ。それで団長以下、競技の結果に
一喜一憂する姿を日々見ることになった。本部室の壁に は金メダル、銀メダル、銅メダルの大きな一覧表が作られる。金を取ればそ
こに選手名が書かれる。まるで国政選挙の政党開票センターにいるかのようだ。
時の団長は水連会長の藤田明。中国勢にメダル競争で圧倒されそうにな る中、長崎宏子が三つの金メダルを取るという快挙をなしと
げ、団長のメンツは保たれた、しかし、こうした日本選手団のあり方に、現地組織委員会のコンパニ オンを務めるニューデリー大学の
精鋭たちは「日本は文化交流のためにインドに来たのではないのか? 文化行事には一切出席しないし、まるで金メダルを取り にき
た狩人みたいだ」と言った。この言葉は選手団本部新人の私にも、メダル至上主義ぶりが選手団本部のあり方として本当に正しいのだ
ろうかという疑問を抱 かせた。その疑問は、2年後のロサンゼルス五輪でさらに深いものになるのである。
長崎宏子(1983年撮影)
1984年のロサンゼルス五輪は「片肺五輪」と呼ばれた。前大会のモスクワ五輪がソ連のアフガニスタン侵攻に抗議する西側諸国
の政治的圧力でボイコットを 受けたお返しに、今度は共産圏の諸国が参加しなかったからだ。小学生でモスクワ五輪代表に選ばれて
から、日本新記録を更新し続け、前年のプレオリンピック で1位となった水泳界の彗星、長崎宏子には長年低迷を続けた日本水泳界
の期待がかかっていた。水泳界はもちろんのことだが、日本のメディアもプレ五輪で地 元の新聞に「かわいい日本人形が1位となっ
た!」と形容された長崎をずっと追いかけた。
当時の日本体育協会(体協)競技力向上委員長を務めた水泳出身の福山信義は真剣に日本の選手強化に取り組んでおり、水泳に
初めて高地トレーニングを採用し た。それまで絶好調だった長崎は、開催年に入ってから平泳ぎ特有の膝痛に悩まされ始めていた。
しかし、ナショナルチームの新しいトレーニングに取り組む姿 勢を崩すわけにはいかず、休むことなく練習し続けた。16歳の少女にか
かる重圧は相当なものであったにもかかわらず、膝痛を緩和する手段に体制は頓着しな かったのである。
選手団全体がメダルの数を追い求める中で、私自身はこのままだと長崎はベストパフォーマンスに至らず終わってしまうかもしれな
いと不安だった。「ライバル だった東ドイツの選手は出ない。普通に泳げばメダルは確実なはずだ」。そう見込んでいた多くの関係者の
期待にクエスチョンマークを付けたのは私だけだった かもしれない。結果は平泳ぎ200メートル4位、100メートル6位、ともに入賞
だったが、「敗北」と表現された。この時の選手団本部の体制では選手にプ レッシャーをかけるだけの機能しか果たせずに終わったの
である。ただ金メダル総数が体操などの活躍で10という二ケタになったことで、かろうじて成功と言 い訳ができたに過ぎなかった。
この頃、選手強化を司る競技力向上委員会は、ナショナルトレーニング センターを設立して国を挙げての選手育成計画を策定する
べく「21世紀プラン」を策定した。これには西ドイツのゴールデンプランなど各スポーツ先進国の視 察や情報収集などを含めた長年の
努力が蓄積されていた。だが、素晴らしいプランはできあがったものの、その実践にはなかなか踏み出せなかった。
予算の目途 が立たなかったのである。実はこの「21世紀プラン」が、1993年に発足するJリーグの百年構想の土台であったことはあ
まり知られていない。
ソウル五輪の開会式で旗手をつとめるシンクロナイズドスイミングの小谷実可子=1988年9月17日
1988年のソウル五輪は2大会ぶりの西も東も参加する「完全」五輪となった。その大会で日本はわずか4つの金メダルに終わる。
このいわゆる「惨敗」が契 機となり、JOC独立論が浮上する。それまで体協の一委員会として、日本を代表する国内オリンピック委員
会だったJOCが体協から独立して独自に選手強化 を進めなければ、日本のスポーツ力は発展が見込めないという危機感からであっ
た。多大な労力を費やして策定した「21世紀プラン」も机上の空論とされ、予 算がつかぬままの状態であった。
一刻も早くこの状況を改革しなければならないという切羽詰まった危機感がJOC独立を促進した。そして体協の若手役員が結成す
る会が中心となってJOC独 立を密かに進めた。その中心に西武鉄道のオーナー、堤義明もいた。堤はJOCが自ら選手強化資金を捻
出できる組織になり、それによって選手強化の理想的な プランを実現するようにならなければと考えていた。
そして1989年8月、JOCは独立した。それからすべてが一変していく。これまで取り入れられなかった若手職員の意見が抽出される
環境に変わった。
ソウル五輪までの選手団本部の実情はこうだった。相変わらずメダル獲得者一覧の大きなボードが本部を占める。そこに競技担
当、輸送担当、総務担当などのオ フィスがある。それぞれの競技を応援に行く役員たちの世話に追われる。選手をサポートするため
の労力はそちらにそがれる。さらに試合が終わり、夜のとばり が下りれば、別室に設けられた役員サロンがオープンする。
そこでは体協部長クラスの本部役員が、その他の本部役員と競技力会談を毎夜開く。しかし中身はと言えば「今日は良かった。
○○でメダルが取れたから」程度 の話である。そしてウィスキーのボトルがどんどん空いていく。本部役員におべっかを使う競技団体の
監督も加わり、そのサロンは毎夜大盛況となる。真摯な戦 略会議は選手とコーチに任せ、自分たちは大会を楽しむ。あわよくばメダル
をたくさん持って帰れれば、体協での地位も安泰。メダルが取れなければ、それはそ れで選手と選手強化策の至らなさと言えばすむ。
②につづく