陽だまりの彼女、再上映#2

2015-02-22 17:01:58 | 陽だまりの彼女
イヤー映画って、
本当にいいですね!

う~んと。こんなフレーズで毎回締め括っていた映画評論家のかたがいらっしゃいましたね、(*^▽^*)(知ってる人は知っている)

実際、

映画館で見る映画って、
やっぱりいいですね!\(^o^)/

ですわ( 〃▽〃)

そうなんですよ、
大画面のスクリーン、
集中できる音響、
それに、今日は、特に、
観客が集中していたようでした(*^▽^*)

だって、久しぶりの「陽だまりの彼女」上映ですもの、

浩介と真緒の台詞、息づかいまで
ひとことも聞き漏らすまい、

というほどの皆さまの静かなエネルギーを感じましたわ!

今回、再上映をご覧になれなかった方にも、またチャンスがきますように!
東京以外でも上映されますように!


ところで。

今日改めて見ていて、なんでだっけ?と思ったのが

ストーリーの最後ですね、
浩介の記憶の扱いが、原作と映画では、真逆なんですよね。

つらつら考えてみたいのです。


原作では、真緒が消えたことを浩介だけがわかっていて、
彼女の追憶で毎日、泣き崩れる浩介。
その為に、仕事にも集中できず、
日常生活から浮いて行くんだけど、
ある日、仔猫が彼の前に現れ、
真緒と呼んで一緒に帰路につく。

もしかしたら、彼は猫の真緒と暮らすことで生き甲斐を取り戻すのか、
現実逃避なのか、そこからの未来はわからないけれど、
ほんの少し、浩介に安堵と希望がもたらされる。そんなイメージだったか。

映画では、
ご存じのように
真緒に関わった人々からその存在は消えるんだけど、
ナゼか、育ての親の下には仔猫が現れ、両親は仔猫に生き甲斐を感じる。

浩介は、原作と違って、真緒の記憶が無くなっているものの、
少し前向きな社会人に成長している。
でも、人生の伴侶を見つけてはいない。
そこで、あの曲である!
真緒が大好きで口ずさんでいた
''Woudn't it be nice''が聴こえてきた途端、浩介自身も自覚しない寂寥の思いが込み上げたのか、それとも寂しさともわからぬ涙だったのか、
自然に伝い落ちるなみだ。

でも、浩介の手の甲には、
まぎれもなく仔猫に引っ掛かれた傷痕があった。


映画オリジナルの終わり方には、製作者のどんな意図があったのか。

例えば。

浩介があの曲を聴いて、微笑みながら涙を流すシーン。
あそこで終わってもいい、とも思う。

原作の浩介がひたすら未練を抱えて生きねばならないのに対し、

映画の浩介は、
未練はない。真緒の記憶が消滅しているから。
でも、傷痕と同じで、
身体の細胞にもしかして真緒と暮らした何かが残っていたのか。

言い換えれば、ふと感じる、
とてつもない寂しさに彼はずっと
耐えて生きて行くのか。

だとすれば、映画の浩介の方が、残酷な運命だったような気がする。

自覚している記憶は、やがて現実生活のなかで磨耗されていくけど、

自覚出来ない、細胞の記憶はどうやって取り除けるのだろう。

こんな風にかんがえていると、
映画の終わりがあのバーの浩介の涙で終わっていたら、
私は、もっと寂しく胸を締め付けられる想いをもって、この映画を思い出すだろう。


が、

が!

んが!

ミキカントク、やってくれました。

観る側に解釈を委ねる、と、
結末の意図を語ってはくれませんが、

桜咲く、希望の伊吹を感じさせるシーン、

真緒にそっくりな女性を登場させて、
二人の関係を発展させるようなイメージ映像で終わる。

仔猫が真緒なのか、女性が真緒なのか、

正解はない!としても、

浩介が生きていくこの世界で、
彼に幸せになって欲しい、という愛を感じるのであります。

もっと言えば、浩介と真緒に幸せにソイトゲテ欲しい、という愛を。

私の意見というか、希望は、

あの女性は、真緒の生まれ変わりで、
記憶を失った浩介を見つけところと考えたい。
たとえ、幼き頃の二人や、結婚した記憶を失った浩介であっても、
真緒は、浩介であればいいのだ。

浩介は、女性がかつて愛した人とは、わからなくとも、身体の奥底にあった大きな穴が、やがて埋められて行くだろう。
なぜなら、真緒にしか埋められない穴だから。


と、長々書いて参りましたが、

結局のところ、

私は、浩介と真緒に、
只、嬉しそうに、共に生きて欲しいのであります、

願わくば。



えー、ホントに長々と
とりとめない文章でした。