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主夫の徒然なるままに

私の見た塾の興亡史(3)

 2000年代半ば、北九州に13教室を展開する阿座上塾に吸収された我が「高須進学スクール」は、若手一人を残し、各教室を転々とすることになる。私自身は、塾の成績管理、教務管理を独自のプログラムで作成した経験を買われて、週一で本部事務所でパソコン関係を担当することになった。ほかの会社に出向いた場合、その風土の違いに皆驚くのは当然だが、この会社のアナログ状態には、仰天した。もともとオーナーがパソコン嫌いで、「パソコンを買ったら生徒が増えるのか?」の一喝で旧態依然の環境で過ごしていた。

 各教室に配布される名簿は紙ベースで、各教室では、事あるごとに手打ちで名簿を作っていた。教室の座席表、あるいは、〇〇行事の参加者などすべて名簿を見てエクセルに手打ちで作成、パソコンが苦手な講師は、自筆で作成だった。塾終了後、残って名簿を打ち続けてる講師の姿は、空しく映った。

 フクトテストからの成績表は、業者から紙で返送され、それを係の者が手打ちで自社のデータベースに打ち込んでいた。多い時は1000人を超える点数を打ち込み、確認する。どれほどの時間と労力がかかったことであろう。塾の担当として交渉、次年度からは、データでの送信をテスト会社に依頼、成績入力は、ほんの数十分で完了するようになった。
 この塾が製作する実力テストのテスト処理は、90年代前半のデータベース言語で作成されたものだった。製作者は退社、10年以上前の言語と機器で構成されているため、プリンターを変えようにもUSB端子が使えないなど誰も近づけない状況であった。旧式のドットプリンターに毎月1.5万円のリース料を払っているのにも唖然とした。さらに当時の成績担当者が退職、成績処理が闇となってしまった。やむをえず、個人的にいままでに作成したVBのプログラムとデータベースアクセスを新規に勉強し、成績処理プログラムを完成させた。
 同じ頃、塾のホームページは、存在していたが、すべてが外注であった。一度出来上がったホームページの運営保守は、そう難しくないのに関わらずこれもすべて外注、変更をお願いするだけで相当の手数料が引き落とされていた。無知に乗じての高額費用が垂れ流しの状態であった。そこで、ホームページも何とか学習してHP管理者となる。

 当時の塾講師の中には、パソコンのできる講師もいたと思うが、だれも成績処理やホームページには、近寄ろうとしなかった。何故だろうと思っていたが、根拠は意外と早く判明した。講師として教えながら、個人的に遅れているIT分野に尽力しているつもりであったが、ある日社長に呼び出され、教室での貢献が3年たっても見えない場合は辞めてもらうことになると勧告される。「教室での貢献」とは、教室の人数を増やすことであった。ならば、だれも、生徒獲得以外には手を出そうとはしない、当然である。
 
 さて、一世を風靡したこの塾も厳しい生徒獲得競争に常勝とは言えず、不採算4教室を閉鎖予定に入った。しかし、強い保護者からの反対に押され、先延ばしとなった。責任を取らされた教室長が辞めていく中で、その4教室のひとつ、「高見教室」を任される、いや、押し付けれれることになった。
 その教室は、壁がうす汚れていて、トイレも旧式、壁中に古い宣伝用の壁紙が貼られ、事務室には大量のフィギュアがあった。とにかく、毎日、掃除と片づけで新教室長を始めることになった。


<主夫の作る夕食>
茄子とピーマン、豚肉のコチジャン炒め、ちょっとピリ辛で美味しく頂きました。



<想い出の一枚>



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