タイトル数を減らすため以前の記事を纏めました。
2021.06.11 初投稿
チャイナの暦の歴史
引用する---
戦国時代の各国で独自の四分暦が造られ、これらを戦国四分暦という。この頃、年始について三正(夏正・殷正・周正)という考え方が生まれた。夏暦・殷暦・周暦というものがあったとされ夏暦では年始が冬至の2月後、殷暦では冬至の1月後(つまり夏暦の12月)、周暦では冬至の月(夏暦の11月)とし正月が王朝交替ごとに変更され、夏正→殷正→周正→夏正→…と循環されてきたとした。
これを受けて周に次ぐ王朝をめざす戦国各国はほとんどが夏正を採用していたが、秦の??暦のように10月を年始とする暦もあった(ただし、正月・2月・3月といった月の配列は夏暦に従っていた)。秦の中国統一により??暦の10月歳首が採用されたが、漢の太初暦改暦以降、夏正が採用され、現在の旧正月もこれを踏襲している。
前漢では秦の??暦を踏襲して使っていたが武帝の時に改暦を行い、太初暦が作られた。その後、太初暦は成帝の時に劉?によって天体暦としての性格の強い三統暦として補修された。三統暦は、その後の中国暦の枠組みをつくった。
魏晋南北朝時代、とくに月の不規則な運行についての研究がすすみ暦法に反映された。最初にこれを導入したのは劉洪の乾象暦であり、祖沖之の大明暦に至っては歳差まで考慮してより精密な暦が作られた。このようにして朔日の計算において定朔法が生まれ、隋の劉?はこれに基づく皇極暦という優れた暦法を作成したが官暦に採用されず、定朔が正式に官暦に採用されるのは唐代の戊寅元暦からである。
以上から見て、いずれにしても四分暦として太陽観測は毎年するので無く計算でカレンダーが作られていた。金生遺跡では冬至から45日の立春が観測されていて、太陽観測に基づく暦を毎年作り続けていたことは特筆出来る。カレンダーは甲斐駒ヶ岳から鋸岳で観測されていただろう。
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西周の年代は何時なのか
一年の日数は春分から秋分までと秋分から春分までをカウントして観測した。
春年が183日、秋年が182日、春秋で一年となる。
春年と秋年があって二倍年暦という話がある。
司馬遷は183日を二倍して一年366日として更に閏を説明していたようだ。
司馬遷の頃には春年と秋年という意味が既に忘れ去られていたのだろうか。
周の年代から500年近く経っているから周まで二倍年暦だったかも知れない。
そうすると夏殷周の年代は実年1/2となる。紀元前1000年前後となってしまうかも知れない。周(前1046年から前256年)とされているが前780年頃から前256年となるのだろうか。
こうなるとこの年代 西周は金生遺跡よりずっと新しい年代となってしまう。
日本列島の場合でも春年秋年の名残なのか春秋の例大祭が神社などでは行われている。
他方またお寺さんでは春の彼岸と秋の彼岸が行われている。
これはチャイナから来た二倍年暦の習慣の名残なのか。
一方で立春起点の暦も生きている。八十八夜、二百十日、二百二十日など、いずれも立春を起点としている。金生遺跡では立春の暦を想起させる天文台が現存していた。
これらはこの天文台の歴史を伝統として残してきたものなのだろうか。