金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

縄文時代草創期の土器は何のために作られたのか

 土器の必要性は何か
 土器の作られた理由
 編み籠の形に似たものが始まりのようだ

引用ーーーー 近東では土器新石器時代にいたる前から、技術的には土器製作が可能な状態にあった。しかし実際には、土器新石器時代になるまで土器はほとんどつくられず、少なくとも遺物の中で大きな部分を占めることはない。おそらく、人々は土器を特に必要としなかったから製作しなかったのであろう。逆にいえば、土器新石器時代には土器を必要とする要因が現われたに違いない。ーーーー引用終わり


近東では乾燥地帯で日干しレンガが使用できるような気候の地域であることから、湿気を防ぐなどの用途で特に土器を使う必要は無かったのでは無いか。
 それに対して日本列島では湿度が高く、籠では湿り気で駄目になることがあり、湿気を防ぐためには土器の容器を必要としたのでは無いのか。草創期の土器は、煮炊きに使った様子は無いので、取り入れた穀物やドングリなどを保存するために使用していたのでは無いか。形状からしても弥生土器に近いような形で、容器として使用するのに適した形をしているように見える。
籠に粘土を付けて焼いたようなものも有るようだから、容器として使う工夫から籠の進化として、土器が作られるようになったのかも知れない。


 そうするとかなり大切なものを保存していたと言うことを考えることになるのでは無いか、それは翌年の農耕のための種などの保存となる。籠ではネズミや虫などの害を防げないから、また湿気を防ぐ上からも土器の保存容器が必要となる。
まだ栽培暦までは作れないとしても、農耕の前段階の各種雑穀などの栽培試験は行っていたのでは無いか。
鮭の回帰の時期を予測して狙うことが出来るレベルにあるなら、春の種蒔きもそれと同様に時期を予測できていたものと思う。主な生業とするのは難しいとしても、農耕はそれなりの定住と集落の安定に少しは寄与していたと見ても良いのでは無いだろうか

図はお借りしました

引用ーーーーーーーーーーーーーー

 縄文文化の黎明期、次第に、気候の温暖化が進み、北海道を除く日本列島のほぼ全域で土器の使用が始まり、一部の地域では初源的な竪穴住居も作られるなど、少しずつ縄文文化的な定住社会を形成し始めた。 その証拠は、遺物の組合せの急激な変化によって、はっきりと跡づけることができる。縄文時代草創期以降、大型哺乳動物が絶滅に瀕し、石槍よりも小形の動物を狩るのに適する弓矢が登場し、石鏃が盛んに作られた。大型哺乳動物の狩具の投槍器と投げ槍から、鹿・猪など中小形の動物用の弓矢の石鏃へと変化し、その次の段階になると、採集された堅果類や根茎類などを、すり潰す用具としての磨石・石皿を中心とした植物性食料の加工具が飛躍的に増加した。それに伴い根茎類や穀物栽培用の掘削具打製石斧が重用される。こうした重量のある石器類に頼らざるを得ない生業の変化は頻繁な移動を困難にさせた。 縄文草創期の1万年以上前の鹿児島県志布志町内之倉の東黒土田遺跡(ひがしくろつち だ)で、シラス層に掘り込まれたドングリが入った貯蔵穴が発掘された。縄文人は冬季の食料不足に備えて、堅果類を貯蔵穴にたくわえた。貯蔵穴は弥生時代まで存在するが、縄文時代を特徴づける遺構といえる。

宮城県里浜貝塚の発掘調査と分析では、秋に採集された堅果類は春までに食べられていた。四季が顕著で、特に冬季には食材が不足する日本では、それに備えてドングリ類やトチの実などの食糧を獲得し保存する事が最重要な課題であった。

縄文早期には九州の開地のみならず低湿地にも貯蔵穴がつくられ、中期には近畿地方にまで広がった。低地に設けられた水漬けにする湿式と開地にある乾式のものがあり、しばしば共に群在する。東日本では早期から集落内の乾燥地に大型の貯蔵穴を設ける事が多く、主にクリが貯蔵された。栗の栄養素は可食部の食材100g当たり、156カロリーで、食物繊維が4.2g・カルシウムが30mg・鉄が0.8m・ビタミンB1が0.21mg・ビタミンB2が0.07mg.・ビタミンB6が0.27mg.・ ビタミンCが33mgである。栗の一粒が10g程度で、だいたい16kcal/粒である。

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 しかし、土器の出現よりはるかに遡る時代から、可塑性をもつ原材料としての粘土の利用は世界各地で観察されている。近東も例外ではなく、約13,000年前のナトゥーフ期には定住性の高まりとともに粘土利用が活発化し、先土器新石器時代には焼成披術や混和材の利用といった、土器製作に必要な技術的基盤はすでに整えられていた[Schmandt-Besserat1974.1977a,1977b]。
例えば、イランのザグロス山脈に位置するガンジ・ダレ遺跡のD層(先土器新石器時代B中期)では、スサを混和した日乾レンガ造りの建築、作りつけの土製貯蔵施設、あるいは未焼成と考えられる土製容器など、多彩な粘土の利用がみられる[Smith1990]。また、土偶をはじめとする焼成土製品は多くの遺跡で知られており[e.g.Voigt1985;Kozlowski ed.ユ990]、南レヴァントのアイン・ガザル遺跡などにいたっては、「先土器」新石器時代に年代づけられるにもかかわらず、意図的に焼成されたと考えられる土器も出土している[Rollefsonθ‘α1.1992]。

 したがって、近東では土器新石器時代にいたる前から、技術的には土器製作が可能な状態にあった。しかし実際には、土器新石器時代になるまで土器はほとんどつくられず、少なくとも遺物の中で大きな部分を占めることはない。おそらく、人々は土器を特に必要としなかったから製作しなかったのであろう。逆にいえば、土器新石器時代には土器を必要とする要因が現われたに違いない。


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