何故なのか
この場合の土偶に託していた思いは
乳飲み子の求める母乳の出を望んでいたのでは無いか
母乳は乳房の表現から間違えることは無い
そのことは貝塚などから出ている飢餓を示す遺物など、
当時の厳しい生活を示すものが有るから分る
母乳の出を良くしてくれるものは何なのか、その背後にあるものは何なのか分らない何か
最初に土偶が作られたとき、それをどのように造形したら良いのか分らなかった
対象物の背後に居るものを示すためなので、顔も手足も付けられなかった
目的とするものを示して、それ以上にどう造形したら良いのか分らない
その後の精霊の表現法が無かったのでは、その場合はトルソにするしか無かった。
トルソ
これ以後土偶を作り願いを託すものは、人の形には似ているように見えるものの、
人間をそのまま表現するものでは無い
精霊、背後に有るものなので、それは具象的表現には出来ない
想像上の何かそのようなもの
それが土偶の取る姿なのだろう、そのものを表しているのでは無いもの造形
母乳土偶
その後土偶に思いを託するようになり、仏像に近いような表現となっていったのでは
縄文三女神などのような、具象に近付く
しかし何処か異世界から来ているような姿のまま
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
<土偶の分布に見る地域性>
縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。
すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。
その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。
こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。
夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
ーーーーーーーーーーーーーー
三浦半島の縄文時代早期の貝塚の厚い貝層や出土した動物遺体を見ると豊かな海の幸に恵まれていたように思える。しかし、横須賀市若松町の平坂貝塚から出土した人骨に残された、11本の飢餓線や変形関節症の痕などから、不安定な厳しい生活であったことが窺える。
夏島貝塚や・平坂貝塚は「水産日本」原点とも言うべき遺跡である。
ーーーーーーーーーーーーーー