金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

騎馬民族は来たのか

2022.04.11  追加しました

コロナと元寇
ウクライナとロシアの侵攻

蒙古襲来 文献から借用 纏めてみた
鎌倉時代、侵攻してきた元に対し、北条時宗を中心とする北条政権が元の巨大さに怯むことなく勇敢に戦ったことが今の日本につながっている。
そのことを忘れている。

・1271年:モンゴル帝国のフビライ・ハン(5代)が中国統一し、元の皇帝に
・1274年:文永の役
・1281年:弘安の役
・1297年:永仁の徳政令=困窮化対策に、御家人の所領の売却・質入禁止、
     御家人の元所領の無償返却

・1333年:鎌倉幕府が滅亡

蒙古軍撃退後に残ったのは、自腹で戦にはせ参じた御家人たちの窮乏だった。国内の戦いならば、幕府は敗者の土地を奪い、軍功のあった御家人に恩賞を与えることができるが、これが海外の土地ではどうしようもない。
戦いのための費用をまかなうために、土地を質入れしたり売ったりしていた中小の御家人は、生活が苦しくなります。じつは、鎌倉時代には分割相続によって領地はどんどん細分化され、世代が下るにつれて御家人一人当たりの領地は小さくなっていました。
こうしたことを背景に、幕府は金融業者に対し「御家人から質入れしたり買い上げたりした土地を無償で返しなさい」と命じたのです。同時に御家人にも領地を質入れしたり、売ったりすることを禁じました。

永仁の徳政令を出すことになったのは、元寇が関係しています。
元からの攻撃を防ぐために御家人たちはよく戦いましたが、幕府は与える恩賞がありません。本来、ほうびとしてあげるべき土地がないからです。
この時代の徳政令の内容は、幕府が御家人を救うために出したものでした。最初に徳政令を出したのは、鎌倉幕府9代執権・北条貞時です。
永仁7(1297)年に出されてことから、「永仁の徳政令」とよばれています。
しかし、永仁の徳政令の効果は一時的なものでした。金融業者は徳政令を恐れて御家人にお金を貸さなくなってしまい、御家人の生活は困窮していったのです。この事が、鎌倉幕府滅亡の一因になったとも言われています。

 1274年、81年の2度にわたる元寇は、土台をむしばまれ滅亡に向かっていた鎌倉幕府の背中を押したにすぎないといえる。もちろん、蒙古軍を迎え撃った8代執権北条時宗と御家人の奮闘は真に称賛すべきことではあるが、蒙古軍撃退後に残ったのは、自腹で戦にはせ参じた御家人たちの窮乏だった。国内の戦いならば、幕府は敗者の土地を奪い、軍功のあった御家人に恩賞を与えることができるが、これが海外の土地ではどうしようもない。

 当時、西日本を中心に貨幣経済が浸透し、金融業者が台頭しつつあった。御家人たちの多くは、土地を担保に金融業者から戦費を調達して蒙古軍を迎え撃ち、「神風」の助けもあって撃退に成功する。しかし幕府には恩賞を与える余裕などなく、戦功があったにもかかわらず、金融業者に負債を返すため領地を手放さざるを得なくなった御家人も多かった。御家人の幕府に対する不満は募ってゆく。こうして土地を介した「御恩と奉公」という幕府と御家人の関係が崩れ始める。畿内周辺では体制に反抗する「悪党」の活動が目立つようになり、不穏な空気が社会全体を覆う。そして1293年5月19日に発生した鎌倉大地震が追い打ちをかける。建長寺をはじめ多数の寺社が倒壊し、死者は2万人超えたという。


蒙古襲来に至る経緯から見て見ると
モンゴルからの接触は穏便だった
 13世紀、モンゴル高原のオノン川流域に興ったモンゴル帝国は、ユーラシア大陸で急速に勢力を拡大した。建国者チンギス・ハンの孫のフビライは中華世界の制服を目指し、モンゴル高原からの出口に25年の歳月をかけて新首都の大都(北京)を建設。1271年に国号を元と称し、1279年には南宋を滅ぼす。
 経済を重視する元は、台湾海峡に面する泉州をはじめ、寧波、上海、温州、広東、杭州などに貿易を管理する市舶司を設けた。もともと遊牧民のモンゴルが、海で頼りにしたのはイスラム系商人である。アラビア人ともペルシャ人ともいわれる蒲寿庚(ほじゅこう)は、泉州の貿易を支配しただけでなく、元の海軍でも枢要な地位を占めた。
 モンゴルが日本に接近した動機も、あとで述べるように、商業的な利益の追求だった可能性がある。

 フビライ政権は、朝鮮半島の高麗を仲介役に立てて日本と交渉をもとうとした。いくどか使節団が送られ、使節団が携えてきた国書が九州の大宰府から鎌倉幕府と京都朝廷に転送されたが、日本側は返事を出さなかった。これまで、その書状が無礼きわまる文面のうえ、日本を脅す内容だったから、日本側の対応はやむをえなかったといわれてきた。ところが専門家によれば、じつは文面はたいへん穏やかであり、修好を求めているにすぎなかったという。

 モンゴル史が専門の杉山正明氏(京都大学名誉教授)は、交渉の経緯をみても、フビライ側に初めから交戦する意思があったかどうか、はなはだ疑問という。「鎌倉幕府が大陸情勢をよく理解して冷静に対応さえしていれば、開戦は回避できたのでは」と述べる(『大モンゴルの世界』)。

 モンゴルは日本に近づくことで、何を得ようとしたのだろうか。イタリアの商人マルコ・ポーロは、泉州で元寇の情報を得たと考えられているが、フビライの遠征の目的をジパング(日本)の黄金を手にするためだとしている。

 一方、日本中世史が専門でくまもと文学・歴史館館長の服部英雄氏(九州大学名誉教授)によれば、フビライ遠征の狙いは、火薬の材料となる硫黄の宋への供給阻止とその確保にあったという。中国大陸には火山がほとんどないため硫黄が得にくい一方、火山国の日本では大量の硫黄が調達できた(『蒙古襲来と神風』)。

 幾度かの丁寧な友好交渉をことごとく無視されたフビライ政権は1274年、ついに日本遠征を決行する。高麗に駐在するモンゴル・漢人部隊を主力に、高麗兵をも加えた軍団は合浦を出発し、対馬と壱岐を席巻したのち、10月20日、博多湾から九州に上陸した。文永の役である。

 激戦となり、その夜、モンゴル軍は博多湾上の兵船にいったん退いた。通説によれば、そこへ嵐が襲い、モンゴル軍は一夜で退却したとされる。ところが前出の服部氏によれば、そうした記述は歴史書のどこにも書かれていない。

 たしかに奇妙だ。歳月をかけ、莫大な投資もして、周到な準備もしたうえで、はるばるやって来た。しかも負け戦ではなく、接戦で、いくぶん勝ち戦に近かった。9000人近くが上陸したとみられるモンゴル軍は、海岸から500メートル離れた山に陣取っていた。そこから小さな上陸用艇で母船に引き揚げ、その夜のうちに博多湾から出帆するのは無理がある。

 実際には、モンゴル軍は20日の激戦後も、29日頃まで日本に滞在し、作戦を継続していた。撤退を決めたのは、24日に大宰府まで攻め込んだものの、日本軍の善戦で退けられてからだった。

 

嵐は吹いたが、いつ吹いたのかはわからない。なお、冬に近い季節からみてこの嵐は台風ではなく、寒冷前線の通過に伴うものとみられる。

 一夜で退却したという虚構のもとになったとみられるのは、『八幡愚童訓』という本である。筥崎(はこざき)宮が蹂躙され、怒った八幡神が、夜中に白衣で蒙古に矢を射かけてきた。パニックになった蒙古兵は、街を燃やす火が海に映るのを見て、海が燃えだしたと勘違いし、慌てふためいて逃げ出した。社殿を焼かれて怒った神が追い返すのだから、その夜のうちに追い返さなければ格好がつかない。

 この荒唐無稽な話が、別の日に嵐が吹いたことと合体し、嵐のために一夜で退却した、という虚像ができあがったと服部氏は推測する。

 日本史の通説によれば、文永の役では敵は一日で引き返し、弘安の役では嵐によって、肥前鷹島に集結していた敵船が沈み、全滅したという。ところが、これが事実かどうかはきわめて疑わしい。

 

2022.03.21  馬と古墳のオリジンとして追加しました。

騎馬民族の原住地は先史時代から ウクライナとされているようだ
馬が史上初めて家畜化されたとみられるのもまたウクライナという


この 馬が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には,クルガン(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られる(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳),カタコムブナヤ(地下式墳穴),スルブナヤ(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化,アンドロノヴォ文化,カラスク文化など)という。

 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられるという。
騎馬民族は日本列島に来たのか、それと伴に古墳 高い塚 その原点はウクライナにあるという事なのだろうか。

スキタイ(ウクライナ語:Ск?фи)は、紀元前8世紀~紀元前3世紀にかけて、ウクライナを中心に活動していたイラン系遊牧騎馬民族および遊牧国家。 スキュタイ、スキュティア人、スキティア人ともいい、その地をスキュティア、スキティアと呼ぶという。

 ギリシャに由来するカッリピダイの他、農耕スキタイ、農民スキタイ、遊牧スキタイ、王族スキタイ、別種スキタイ等の民族が暮らしていた。 「スキタイ」は古代ギリシア人によってこの地域の諸部族をまとめて指す際に使われた呼称でもあり、 スキタイが滅んだ後も遊牧騎馬民族の代名詞として「スキタイ」の名は使われ続けたという。

何故、日本しかも畿内に須恵器が広まったのか?実は、4世紀から金官伽耶と畿内は親戚関係にあったからだと言う。
しかし、当時、畿内には殉葬や木槨墓は伝来しておら無いと言うが、殉葬の代替物ともいえる埴輪はある。これは郷においては郷に従えで、扶余族が柔軟に対応した結果だともいえるのではないか。また木槨墓については3世紀に遡るとされるホノケ山古墳には木槨墓が見られるが、畿内では既に独自の展開を遂げており、古墳の形式まで復古させるわけにはいかなかったのではないだろうかという。

 日本の「後期古墳」では、副葬品に大きな変化がある。馬具が出現したのだ。『魏志倭人伝』によると日本列島には馬や牛はいなかったとされるが、これが事実だとすると、列島に4世紀を境に突如、馬が登場したこととなる。そして馬具は北方の騎馬民族のものに似ているという。この馬具やガラス製品を日本列島にもたらしたのも騎馬民族である。つまり伽耶や新羅で発生した北方騎馬民族による征服は、日本列島でも発生したといわれる。

「後期古墳」の文化は半島のものと共通の北方騎馬民族文化であり、列島でこの時代に馬が急激に増大したのも「後期古墳」の地域が軍事的な要地に多い事実と関連する。そして日本で副葬された武器、馬具、服飾品は北アジアの騎馬遊牧民族のものであると同時に、伽耶のものでもあるとされる。

 3世紀までの日本では銅鐸や古墳では銅剣といった青銅器が見つかり、4世紀になると銅鐸が姿を消し、鉄剣、鉄鎧(てつよろい)など鉄製の戦闘用具が副葬品の中心になる。つまり4世紀を境にして列島各地では考古学的に大きな文化の断絶があるが、伽耶の製鉄と軍事力を考慮すれば、それも当然であるともいう。

土師氏は半島由来の騎馬民族で、主に古墳の造営を行うゼネコンのような立場だったようです。”はじ”という呼び方も、土地を与えられない"非定着漂流民”という意味での蔑称から来ていると言われている。

 2世紀半ば頃、多くの高句麗人が日本海を横断して列島に至り、定住した。4世紀になると、北アジアの騎馬民族が高句麗と新羅を征服。騎馬民族の支配者は高句麗人の兵力をともない、新鋭の武器と馬によって、日本海沿岸から列島に侵入した。
 こうして日本海が高句麗と本州を直結させ、新興の騎馬民族と高句麗人は半島や沿海州から日本海を横断して列島に至り、今日の岐阜県・長野県・山梨県などに強固な基盤を築いたのである。このように波状的に到来した高句麗勢力は 668年に高句麗自体が減亡した後も日本に数多く残り、西日本とは異なる東国文化圏を形成したのだという。
 つまり、日本では古代から、東国には西国とは異なる文化があったという、奈良時代の日本は中央集権からは程遠かったため、長野県などは高句麗領土に等しい状況下にあり、その文化も受け継がれていたということだ。一方、九州から入った百済文化は、大和で栄えても、大和でとまったのだという。

 次に、「日本における征服王朝」の内容では、騎馬民族が日本に与えた影響力を再認識させられるとい。騎馬民族によって日本が征服されたかどうかは別として、古墳時代後期に「馬」が日本に伝来して、普及した事は確かな事です。古墳から出土する数多くの馬型埴輪が典型的で、人間が馬に乗るための鞍などの馬具類もこの時期に一気に増えている事実からも分かります。

 そして、古代日本の政治体制が、騎馬民族の考え方と一致している事も納得できるという。天皇家の男系血族の世襲制度を筆頭とする王族の在り方や、中央集権国家体制の構築方法が、騎馬民族のそれと似通っていると言って差し支えないという。 
近畿上陸
 また、仮に騎馬民族が近畿地方にやって来たとすれば、その拠点を摂津や北河内として、奈良盆地の勢力と対峙して、ついに大和王権を樹立した、という点も納得できます。古代における近畿地方の水田適地は、奈良盆地南部と、河内平野や淀川水系ですので、敵対したとすればこの地域が絶好の場所だからですという。

実は、現在のヤマト民族の主流は騎馬民族の末裔であり、彼らが大陸にいた時に喋っていたのが原日本語であった。もちろん、日本列島内にずっと生活していた縄文人たちも原日本語を喋っていたのであった。すなわち、漢民族が中原に侵入するまで、彼らの原日本語は東アジア全域で通用し、他の民族の言語へも影響し、共通語もしくは祖語が原日本語であったと考えられるという。

紀元前六世紀、スキタイ(騎馬部族連合国)はペルシャ(騎馬部族複合国)と何度も戦をおこななう中で、ペルシャの騎士道精神が、スキタイに受け継がれます。そして、シルクロードの交易を通じて、新羅にもその文化がもたらされます。

新羅の王都慶州(キョンジュ)の155号古墳から、天馬(ペガサス)の絵が発見されました。ペガサスは騎馬民族スキタイの象徴です。つまり、新羅国の支配階級は、高句麗や夫余のツングース(東胡=トコ=常=常陸)とは異なり、スキタイ・シベリア系の騎馬民族であったのです。

そして五世紀の新羅では、「花郎」(ファンラン=弥勒の男=ミトラ神=戦の神)と呼ばれる貴族の美少年を奉じて、騎士道精神を教育し、青年武士団を形成していたのです。そして、この文化が、日本の秦氏系武士集団に受け継がれます。
「ラストサムライ」と讃えられた薩摩藩は秦氏系武士集団でした。薩摩藩は、武士育成のための教育手段として、名門の美少年を「稚児様」として奉り、青少年に武士道の教育や戦の訓練をおこなっていました。また西郷も好んだという男色も花郎集団の特徴のひとつです。

そして、新羅系秦氏出身の彼らの信仰は、ミトラ教・ゾロアスター教・景教の影響の強い「摩多羅神」や「弥勒菩薩」あるいは「北斗七星」が特徴です。従って、源氏は秦氏系の「八幡神」を祀っていますし、薩摩藩も「大隅八幡」を祀り、「宇佐八幡」と本家争いをしているくらいです。

 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスによると、スキタイ民族の王家は、天から落下したとされる3点の聖宝(せいほう)を引き継ぐ。その3点とは、盃・戦斧・(軛)頸木(くびき)に犂をつけた農具であり、それぞれ祭司、戦士、食料生産の階級を象徴している。
 聖宝は、天の神が王位の保証として与えたもので、これを敬まわずに、みだりに扱うと命に関わるとされている。この考え方は三種の神器とよく似ていて、しかも「3」という数が同じなのは偶然ではなく、スキタイのそれを受けてのことなのである。
 スキタイの王家は、天の神と水の女神より生まれた人物を遠祖とし、天が与えた王権を万世一系で継承する。
 この考え方、つまり支配者に「天王(てんのう)」と号する権利が与えられ、その王権は、「万世一系」的に敬称されるのが、正統、とするのは、騎馬民族の概念であり、農耕民族には、異質なものである。
 実力主義の騎馬民族を統合した王は、その地位を神格化し、現人神(あらびとがみ)となる。スキタイ民族の始祖伝説では、始祖は天の神(最高神)とドニエプル河の神の娘(水神の娘)の間に生まれたとされ、その後の各騎馬民族でも、川の名など地名は異なるものの、同じような始祖伝説がある。
 この「天孫思想と直属の男系子孫にのみ敬称を認める「万世一系」の思想は、ユーラシアの騎馬民族に受け継がれ、様々な国家を建設・統治していくのである。

 このように、支配階級が西アジア人だった新羅という国は、ローマ文化と共通性を持っていたのである。
 ところで新羅王の王冠は、「樹木冠」と呼ばれ、文字通りの樹木のような形であるが、このデザインのベースにあるのは、聖樹信仰である。
聖樹信仰とは、実はスキタイ系の騎馬民族の信仰形態の一環であり、ゾロアスター教(拝火教)の聖典がこの「聖樹」に言及し、イスラム教、ユダヤ教、キリスト教でも秘儀として受け継がれている。
 また、ギリシャ・ローマ神話でも、森の女神ディアナ(ダイアナ)にまつわる聖なる樹木の枝が伝えられ、その枝は、森の王のみが折り取ることが許されるという。西アジアの樹木冠は、ヨーロッパにおいても王冠のデザインとして変遷の歴史をとどめているのである。

そして、飛鳥ヤマトで石人の多くが地中深くから発掘されるのは、645年突厥帝国が支援する蘇我王朝の壊滅と関係があったようです。そして、この石人は、朝鮮半島からも出土していたのです。
その石人出土の流れから推測されるのは、歴史書を持たない騎馬民族は、カスピ海沿岸から興った騎馬民族スキタイ→ユーラシア大陸を支配した騎馬民族突厥→ギリシャ・ローマ文化の新羅→北九州→飛鳥ヤマトへの騎馬民族文化の移動の流れです。石人文化の移動は、当然その文化を持った騎馬民族の移動を伴うわけです。
この騎馬民族の飛鳥ヤマトへの石人文化を、突厥石人→道祖神→仏教地蔵としていた。そして、今も歴史書では、突厥石人を、飛鳥ヤマトの謎の石造物としている。
…六世紀の飛鳥ヤマトには、騎馬民族突厥(チュルク=トルコ)文化が存在していたのだという。

720年「日本書紀」で、騎馬民族文化を消し去ったつもりでいても、「日本書紀」の中で、蘇我稲目の息子蘇我馬子の娘を、「刀自古郎女」と記述しているのです。「刀自古」とは、「トルコ」のことで、それは、「突厥」のことなのです。つまり、飛鳥ヤマトでは、蘇我馬子の娘は、「突厥の娘」と言われていたのです。因みに、厩戸皇子(後に聖徳太子)の母は、孔部間人王と云うことで、間人(はしひと)とは、飛鳥ヤマト時代では、ペルシャ人のことだったという。

以上はウェブ上に出されていた情報からウクライナ、騎馬民族、日本列島への騎馬民族の侵入というキイワードで纏めてみたものです。

図はお借りしました。

引用ーーーーーー

  2000年紀(前2000~前1001)末にかけて,遊動する牧畜(遊牧)の文化は,黒海北岸の現・ウクライナから現・カザフスタンの乾燥草原地帯(カザフ=ステップ)をつらぬいて,東方に広がっていく
遊牧文化の東方拡大

 前3000年紀から,アム川やシル川の周辺などの内陸のオアシス地帯では,灌漑設備を利用して農耕・牧畜を行う定住集落が見られました。
 しかし,前2000年紀になると,草原地帯から青銅器や馬を利用する遊牧民(インド=ヨーロッパ語族)が新たに進出して来たため,衰退していきます。

 馬が史上初めて家畜化されたとみられるウクライナから,ドン川とヴォルガ川流域に広がる地域には,クルガン(高い塚(墳丘)という意味)の建設を特徴とする複数の文化が合わさった文化圏があったと見られます(中央ユーラシア西方のヤムナヤ(竪穴墳),カタコムブナヤ(地下式墳穴),スルブナヤ(木槨墳)文化。中央ユーラシア中部方面のアファナシェヴォ文化,アンドロノヴォ文化,カラスク文化など)。
 この地域をユーラシア大陸各地に広がったインド=ヨーロッパ語族の原住地であるとみる研究者もいます。
 前2000年頃になると,中央ユーラシアの農耕牧畜文化のものとよく似た特徴をもつ青銅器が,東アジアの草原地帯(内モンゴルの東部)でも見つかっていることから,この時期に草原地帯を伝わって,モンゴル経由で馬,戦車,青銅器が中国に伝わったとも考えられます。

 

 

奈良にある巨大古墳の中軸の方位は全て南北 正方位である
奈良市佐紀盾列古墳群


南北方位は奈良地方に多いようだ
奈良の超大型内行花文鏡が出土した桜井茶臼山古墳、下池山古墳も栁本大塚古墳も南北軸の方位
これはチャイナ 騎馬民族の文化


これに対して纏向の古墳では縄文時代以来の東西方位であった

                           箸墓古墳


河内も殆どが東西方位である


一つだけ南北方位の古墳がある、それは河内大塚山古墳で、
東海地方の愛知でも東西方位になっていた
東海、越前の古墳


越前では古墳の中軸の方位は、東西方位から500年頃に南北方位に変っていた。

こうした歴史経過から、騎馬民族は越前地方から入り、奈良に侵入して、畿内から神戸方面に支配を拡げたのだろう。
という風に想像するのだがどうなのだろうか、古墳の歴史に詳しくないので、誰か詳しい人に経過を見て欲しい。
とにかく500年頃に、列島の縄文時代以来の太陽崇拝、東西方位を主とするものから、チャイナ 騎馬民族の南北方位 正方位に変化していたことは間違いないようだ。

図はお借りしました

引用ーーーーーー

加古川市総合文化センター博物館(8)
2021-12-17 07:48:39 | 博物館・兵庫県
行者塚古墳出土遺物紹介の3回目で、今回は騎馬民族の持ち物と思われる出土遺物を紹介する。

(復元副葬品箱)
(大量の鉄製武器が出土した。その復元遺物)
帯金具、バックルとベルトは騎馬民族の持ち物以外の何でもない。中国でも出土している。
中国で騎馬により匈奴に対抗したのは、前漢・武帝の時代からと思われるが、武帝は胡服騎射の制を採用した。そうすれば帯金具は不可欠となる。日本に渡来したのは中國からではなく、半島経由で騎馬民族に繋がる人々が持ち込んだのであろう。このように古墳時代中期に至ると出土品は、武器・武具の類に変化する。
東播磨の加古川周辺には、古墳時代中期以降、渡来騎馬民族のグループが存在したと想定できる。


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