金生遺跡の大配石は、太陽暦の二至二分と四立 八節の暦作成のための施設で、太陽観測のための日の出の暦の定点を示すという設計デザインで作られたものと考えて解析してみました。
配石を先端 東から西に見ている
設計思想は次のようなものと思います。
1.立春の日の出ラインを聖山 茅が岳のピーク、金が岳に措いて設定する。
2.冬至の日没ラインを甲斐駒ヶ岳ピークとなる位置に設定して、1.との交点を天文台の原点とする。
ここが始まりの住居の位置とされて、後には配石の先端とされる。ノーモンを立てる位置とする。
3.茅が岳からの冬至の日の出ラインを 2.の原点に重ね、延長線を設定する。
これを配石の北側の上限のラインとする
4.春分の日の出ラインと 1.の立春ラインとの交点を適切な位置に決める。
これを立春の目安位置とする 立春石棒の位置
5.立夏の日の出ラインと 4.の春分のラインとの交点を 1.の立春のラインから外した適切な位置に決める。
この交点を立夏の目安位置とする 男根型石棒の位置
また 3.の冬至の日の出ラインとの交点を立夏のもう一つの基準点 ノーモンの立ち位置とする。
これにより、立春目安と立夏目安の石棒が、春分の日の出ラインを示すことなる
6.夏至の日の出ラインと配石の関係は今はまだ不明
これからの観察が必要
立夏男根型石棒 立春目安石棒
7.立夏の日の出目安となる飯盛山は、その存在する位置が適切すぎることと、形が整いすぎて良すぎることから見て、縄文時代に人工的に作られたものという疑念が起きてくる。
その他の茅が岳、冬至の日の出位置、冬至の日の入りの甲斐駒ヶ岳にもその形状から、人工的な加工の手が少し入っているのでは無いかという疑念が消せない。
現代に天文台を作るとすれば、施設は人工的に作るから、縄文時代には巨石文化があるような様子もあるので、人工的なものと云うことは考えられるように思う。
飯盛山 手前の林は金生遺跡
8.配石にはランドスケープも取り入れられている様子で、立春標石の石棒には南側に茅が岳と富士山と見なしうる石がある。また立夏を示す男根型石棒には北に 配石先端から見るときは後ろになる 飯盛山と見なせる石がある。
配石全体で絵地図また、枯山水の庭と見なしても良いと思う景観を作り出しているようだ。
立春石棒 茅が岳と富士山石組み
茅が岳 林は遺跡 富士山
今の所はここまでの推測になります。
縄文時代にはこのような驚きの観測施設を作り上げていたと考えています。設計は次のような配石配置になると考えています。
図面は測量していないので尺度など不定
ここまでの解釈は予想であり、これから検証する必要があると考えています。
金生遺跡の大配石の目に付く石で、設計計画が検証できれば太陽暦の存在は証拠立てられるのでは無いでしょうか。