金生遺跡に列島各地から来ていた土器は、東北、北陸地方からの土器が多いと云うようだそのことは、暦の情報の流れを考えても頷ける。
東海・関東地区は暦のための太陽観測は冬の時期でも比較的良好だったと思う。
一方、北陸・東北地域・北海道などは、立冬から冬至にかけてのこの時期には良い天気に恵まれることは多くなく、多分太陽観測は難しかったと思われる。
そうした地域は太陽暦の観測情報を求めてくることがあるのだろう。
どのようなルートで伝えられたのかの詳しいことは想像することも難しいが、幾つかの貴重品類の物流ルートがあることから、容易に伝えられたものと考える。
黒曜石などの物流
図と写真はお借りしました
引用ーーーーーー
以下 『八ヶ岳南麓・金生遺跡(縄文後・晩期)の意義・ 』 新津健 より
また、今回ふれることができませんでしたが、山梨における後期や晩期の文化が実は多方面からの影響というか接触で形成されていたことが、金生遺跡から出土した土器からわかってきたことも、大きな成果であったと思っています。
図21に「さまざまな地域の土器」という図があります。山梨県というのは内陸部にあるのですが、東日本各地の特徴を持った土器が出土しております。
特に1から6は東北地方の影響ある土器、
18から20は北陸地方の特徴がみられる土器、
それから13から17などは東海地方でも特に静岡東部から愛知、三重辺りの色が濃い土器なのです。
一方では7、8、9といった関東の土器もみられますし、
10、11、12というのは山梨の郡内を中心として広がっている土器なのです。
でも意外なことに、関東からの直接の影響が少ないようにも思われます。むしろ東北とか北陸方面のものが長野とか群馬をワンクッションして入ってくる。あるいは静岡を経由して入ってくるような感もあるのです。今でこそ中央線とか中央道で関東との結びつきが強いのですが、当時は少し事情が異なっていた、あるいは縄文ルートの特異性があったのかもしれません。もちろん長い縄文時代のなかでの一つの現象なのかもしれません。
なお、金生遺跡中空土偶の系譜、この土偶は金生遺跡を代表する一つですが、これにもふれておきます。図22の右下の13がこの中空土偶です。全国的にもきわめて類例が少ない土偶でして、その系譜をたどってみたのが図22なのです。晩期の終末に近い時期の土偶ですが、この源流は東北地方の遮光器土偶にたどれるというのが私の見解なのです。例としてあげたのが、図の左上1番のような土偶が各地に広まって、山梨にまで辿り着いたときにはこういうふうな異様な形になっていたのです。ご承知のように遮光器土偶というのは亀ヶ岡文化を代表するものですが、その縁辺部、例えば右の一番上の群馬県板倉遺跡の土偶(9)になると本来の遮光器土偶が大分変形してくるのです。このようなものから、8や10、11などを経て13へと展開する可能性考えたのです。
このような土器や土偶ばかりでなく、金生の地にて晩期集落が形成された背景には、奥深い文化の流れがあったのです。金生遺跡が抱えている問題は、まだまだ多いのですが、今回はその一端について、想像も交えながらお話しさせていただきました。ありがとうございました。(終)
(図19) 宮崎県西都市銀鏡大祭ししば祭りの猪
(図20) まつりの行程(①縄文時代の例 ②銀鏡神社大祭 ③同 猪のまつりの意味
(図21) 金生遺跡から出土したさまざまな地域の特徴を持った土器
(図22) 金生遺跡出土中空土偶の系譜