現代の暦は太陽暦ではないので、二十四節気の暦が太陽運動に従う正しい暦と思う
縄文時代の暦に戻すべきではないでしょうか
年初の決め方は太陽と関係ないもののようです
縄文時代から4500年とすれば、たったの4500回の公転
縄文時代が農耕開始の基を支えて、文明の発展する温暖な環境を作り出したようなので
今の温暖化は行き過ぎでしょうが
それを考えるためにも、太陽運動に正確に従う暦は必要ではないでしょうか
現代は太陽暦の基本を忘れすぎています
太陽運行と関係なく勝手に作りだした太陽暦のようです
現在太陽暦とされているカレンダーは、地球と太陽の関係から造られた暦でなく、太陽と星座の関係から造られているため、年ごとに日付が異なっている。立春の日付がなぜ変わるのか、立秋の日付がなぜ変わるのか、こうしたことは占星術の世界から決めているため起きていることで、太陽観測をすればそのような変動はないことが金生遺跡の太陽観測から分っています。その基は直接太陽観測が出来なかったことに起因していて、それが現在もあとをひいているということなのでしょうか。
金生遺跡での太陽暦観測から、縄文時代の暦が想定できます
これは後にチャイナで出来たとされる二十四節気の暦そのままです
この暦を縄文人が金生遺跡で作ったという観測施設が配石内の石棒観測点です、この関係は4500年以上経った今でも変化しておらず、問題なく観測できるようです。
縄文時代の一年間の暦は次のようになるのでしょうか。立冬以後冬至までの日数を45日+5日として閏がもしあればここで吸収する。360日+5日と言うことになるのでしょう。
そしてその後45+5日の端数処理 72候の暦になります。ここまで縄文時代に出来ていました。それは土器に記録されています。
72候の暦は残念ながら適切な図が見付かりませんでした。15/3 5日刻みの暦です。これで一年の暦は完成します。 これが縄文時代に完成した太陽暦でした。4500年間これは変わっていません。常に一定の日付で変わりないです。面白くないと言えばそれもそうですね。閏処理はどうするか、直接太陽観測、立春観測していますから、ここが起点なので、何にも問題ないでしょう。
立春から立春までの一年間の日数をカウントすれば、簡単に作れるものです、難しくも何ともありません。数が数えられなくても作れてしまいます。縄文時代の初め、早期にはこの暦は、石ころで造ったのでは無いでしょうか。
2024.2月からの暦を 2月4日を一月一日と読み替えることにしてカレンダーを作ってみました。
月の月齢を曜日で示すことが出来るカレンダーとなります。日付は4500年間変化しないものになります。曜日は月齢に合わせることが出来ます。一ヶ月は月の満ち欠けに合わせて30日と一定します。
引用します----ーーーーーーーーーーーー
暦Wiki
古代エジプトのこよみ †
古代エジプトの暦は1年12か月、各月は30日、10日ごとの週で構成されます。
さらに、どの月にも属さない余分な5日 (Epagomene) を加えて365日となる太陽暦です。
3つの季節 (各季節に4つの月)
季節 月
??t (Akhet) 土地が水に沈む洪水の時期 Thoth, Paophi, Athyr, Cohiac
Prt (Peret) 土地が現れ、田植えと成長の時期 Tybi, Mesir, Phanemoth, Pharmouti
?mw (Shemu) 水が低く、収穫の時期 Pachons, Payni, Epiphi, Mesori
「エジプトはナイルの賜物」(ヘロドトス)
ナイル川は毎年定期的に氾濫し、肥沃な土壌を運んできました。これがエジプトに豊かな実りをもたらしたといわれています。
古代エジプトの人々は、日の出直前にシリウスが昇る=prt spdt (シリウスのheliacal risingヒライアカル・ライジング) を観測することで、洪水の時期を察知していました。
日の出直前にシリウスが昇るとは、太陽に近すぎて見えない時期を過ぎ、シリウスがふたたび見え出す日のことです。
シリウスに限らず、デカンと呼ばれる星々が昇ってくるのを数えて夜間の時刻を把握していました。
この観測からシリウスのヒライアカル・ライジングの時期が次第に365日のこよみとずれていくことがわかり、1太陽年の長さ=365.25日に気づいたわけです。
紀元前1800年代といわれるパピルス (Papyrus Berlin 10012) には、Peretの第4月の16日にヒライアカル・ライジングが起こるという予測と17日にはそのお祝いを行なったという記述があります。
ヒライアカル・ライジングの時期は古代エジプト~紀元前3000年ごろでは夏至のころ*1だったようです。
なお、現在ではアスワンダム、アスワンハイダムの完成により洪水は起きません。
この知識は後にユリウス暦によるうるう年挿入という概念につながります。
ただし、古代エジプトではうるう年は挿入していなかったので、こよみと季節はどんどんずれていきました。
この関係は1461暦年かけてまた元に戻ります。祭事は暦年、農業は太陽年と分けて暮らしていました。
1866年に発見されたCanopus stone (Internet Archives [外部サイト]) には、紀元前238年にうるう年を導入しようとした形跡がありますが、定着しなかったようです。
ローマ皇帝アウグストゥスにより、ようやく古代エジプトでもうるう年を挿入するようになりました。
うるう年には余分な日を6日とします。したがって、通常はThothの1日はユリウス暦の8月29日にあたりますが、うるう年ではこれが8月30日になります。
この1日ずれた関係は翌年ユリウス暦でうるうが挿入されるまで続きます。
これの流れをくむこよみにコプト暦 (Coptic Orthodox Diocese of the Southern United States [外部サイト]) やエチオピア暦 (Ethiopian Orthodox Church [外部サイト]) があり、現在でも4年に1回の割合でうるう年を入れています。
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節分は大晦日だった
もともと節分は立春の前日限定の日というわけではありませんでした。
春夏秋冬の季節が変わる日(立春、立夏、立秋、立冬)がありますが、それぞれの前日が節分だったのです。
でも、立春以外の節分は現在にいたるまでに、なぜすたれてしまったのでしょうか。
立春は旧暦で新年初めの日、つまり元日でした。
このため、立春の前の節分は大晦日となります。他の節分よりも重要視され、つかわれる暦が太陽暦に変わっても年中行事として現在まで残ることになったのです。
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出典 セイコーミュージアム 銀座 https://museum.seiko.co.jp/knowledge/relation_02/
シリウス暦
暦は、原始的な狩猟文明から農耕文明に移る過程で、季節による気候の変動に対して、食物を計画的に生産し収穫・貯蔵するという知恵、すなわち、人類が生活する上での必要性の中から生まれてきました。
エジプトでは紀元前3000年頃、毎年初夏の雨季の頃にナイル川が氾濫して大洪水をもたらす事を、その時期の前に決まって東の空に明るいシリウスが輝き始めることから察して、1年の周期をシリウスが見え出す夏至の日を始まりとして、そこからまた見え出す前日までを1年365日とする、太陽暦の起源となる「シリウス暦(エジプト暦)」を作ったようです。
この1年は、月の周期を基にした30日による12か月と、年の終わりの5日間の安息日で成り立っていました。この暦をもとに、1年を大きく4か月ごとに分けて、洪水・種まき・収穫時期と分けて農作業を管理していたのです。
暦の改定
ユリウス・カエサル
古代ローマでは、ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が紀元前46年に、エジプト暦をベースに、その暦のずれを補正するために4年に一度1日増やす閏年を設け、エジプトに始まった太陽暦がヨーロッパに広まる基となる「ユリウス暦」を作りました。
その後約1600年の間ユリウス暦が使われていましたが、ユリウス暦も128年間に1日くるうことが解ったため、西暦1582年ローマ法王グレゴリウス13世は、正確な暦でキリスト教の権威を取り戻すべく、その間に出来た13日間の誤差を修正し、現代でも世界中で広く使用されている「グレゴリオ暦」を作ります。
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中国の暦法
ヤンシャオ(仰韶文化) 前4000年代 漢民族黄河流域で農耕生活。彩陶。
龍山文化 前3000年代 農耕文化。黒陶
黄帝、??、夏、殷、周、魯の六暦が漢初に伝えられていた。
これらはいずれも四分暦(1年=365+1/4日)
夏王朝
殷王朝 前17C頃
文字の使用、青銅器の出現、戦車、大きな墓。
殷王室世系には甲骨文字で十干(甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)が記されている。
(王名に用いた。十個の太陽と日の十干を対応させた。)
殷王朝前14Cに盤庚が江南省安陽に遷都。
甲骨文の解明とともに当時の暦法が明らかになった。
1年 一、二、三等の順序数であらわした。
1年=12ヶ月、閏月を入れる場合は年末に置いて十三月と呼んだ。
月・・・正月、二月、三月・・・・
大の月=30日、小の月は29日であった。
日にちは六十干支で示された。(十干と十二支が完成していた)
日食や月食を記した記事もあった。
周王朝 前11Cの半ば 武王が殷を倒して新王朝周をたてる。西安(西周)後に洛陽(東周)
一月を正月という。冬至を含む月に年初正月を置く・・・・周正という
これから1ヶ月おくれの年初正月を置く・…殷正
春秋・戦国時代……立春正月………夏正という。
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旧暦と立春
立春は旧暦1月1日だという勘違いがあるが、ほとんどの場合は正しくない。旧暦1日は必ず朔(新月)だが、立春は朔に関係なく定められるため、多くの年は1日にならない。
立春は太陽暦の八節の暦に基づくもので、旧暦は太陰太陽暦であり朔 新月を旧 暦一日としている。このため季節の基準である太陽暦とはずれが生じて、農耕に 悪影響してしまう。
ただし約30年に1度、立春が朔と重なり、旧暦1月1日になる年がある(朔旦立春)。近年は1954年・1992年がそうで、次は2038年と予測される。
旧暦(中国・日本の太陰太陽暦)では元日が立春前後に置かれる。それは立春のころを年初にし、春の始まりと年の始まりを一致させるためである。これを夏正(かせい)という。古代中国夏王朝の正月という意である。平気法ではそのために、立春の次の雨水を含む月を正月(1月)とする。定気法での月名の定義はやや複雑だが、結果はやはり、雨水を含む月が正月となる。
節切りにあっては立春が年初となる。四柱推命や風水などの占いでは、節分までは前年に属し、立春をもって年が改まるとしているものが多い。節分の豆撒きは立春を年初として、新しい年の幸運を願っての昔からの習慣である。
二十四節気の「立春」は、『暦便覧』では「春の気立つを以って也」とされるが、時候的な解説では、「大寒から立春までは一年のうちで最も寒い季節であり、立春を過ぎると少しずつ寒さが緩み始め、春の気配が忍び入ってくる」とされるのが一般的である。ただ注意が必要なのは、このような気象的事象のゆえに「立春」が定められたのではなく、冬至から春分への中間点として、暦法上の要請から定められたものだということである。
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農作物の不作・豊作を左右する暦の存在が占星術の普及を後押ししていた
占星術の発達は、暦の成立と切り離して考えることができません。
当時の暦は「農事暦」で、大河流域に住みついて農耕文明を興した古代人にとって、種蒔きや収穫の季節を知ることが何よりも重要だったからです。
古代エジプトは太陽暦を使い、バビロニアでは太陰暦が使われていた
古代エジプトでは、初め1年を、12ヶ月、1ヶ月を30日とし、それに5日間の祭日を加えた365日の「太陽暦」を使っていました。
しかし、正確な恒星年の1年は365日と4分の1日であるため、長い間にはどうしても暦と季節にずれが生じてしまいます。
そこで、これを補うために「ソティス暦」を併用しました。すなわち、ナイル河の増水を告げるシリウス星が太陽とともに東天に出現するのを見て夏至を知り、1年の長さを決めたのです。
これに対して、バビロニアでは朔望月(さくぼうげつ)をもとにした「太陰暦」が使われていました。
朔望月とは、月の満ち欠けの1周期のことで、朔(新月)から次の朔、あるいは望(満月)から次の望までの期間を言います。
朔とは太陽と月の合(太陽と月の角度が0度)、望は太陽と月の衝(太陽と月の角度が180度)の時である。
1ヶ月の始まりを細い新月が日没の空にかかる時として、そこから日を数えて1か月の長さを決めていたのです。
ところが、太陰暦の1か月は29日または30日で、1年では354日となり、本当の1年の365日とは11日も差があります。
どうしても1年を正確に計る必要が出てきたのです。
そこで、ある特殊な星が日の出時に出現するのを見て年初とし、1年の長さを決めることにしました。
この星は、現代の研究によると、馭者座(ぎょしゃざ)の1等星カペラ、後には牡羊座のアルファ星ハマルで、春分の頃の東空に太陽に先立って姿を現し、バビロニアの年始「春分正月」を定めたといわれます。
春分点は、黄道360度のスタート地点・牡羊座に太陽が入る1年始まりの日
現代の占星術が、夏至でも冬至でもなく、ましてカレンダーの1月1日でもなく、太陽が春分点に到達する時、すなわち太陽が白羊宮(はくようきゅう・牡羊座)に入る時を1年の始まりと考えているのは、遠くバビロニアの暦法の流れを汲んでいるためです。
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バビロニアの太陰暦
●遡望月
月は約28日で地球を一周しますが、その間に地球は太陽の周りを巡っているので、 新月から次の新月までの間は平均で約29.5日となります。
●バビロニアの太陰暦
バビロニアでは、新月から新月の期間を「月(Mounth)」として定めておりました。 遡望月が平均で約29.5日なので、1ヶ月の長さが29日や30日になりました。
この太陰暦は純粋な太陰暦で、通常「太陰暦」と呼ばれていますものは 正確には「太陰太陽暦」のことをいいます。
バビロニアでは当初1年は6ヶ月であったらしいのですが、後に12ヶ月となり、 四季を決める太陽暦との食い違いが生じてきました。
●太陰太陽暦
太陰暦は約29.5日*12ヶ月=約354日
太陽暦は約365.25日
上記のように一年ごとに約11日の不足が生じてしまいます。 この不足の日数を他の月に加えたりしていたのですが次第に煩雑になってしまい、 もっと正確に暦を測り、閏年を規則的に置く必要が出て来たのですね。
ニサンの月
●カペラとニサンの月
日の出直前の東の空と、日没後の西の空にカペラが現れるのを観測して1年の長さを測ったといいます。 これには2つ説があり、春分の頃のカペラの日の出直前昇天を年初とした説と、 日没後に新月と並ぶのを年初とした説があります。
カペラはバビロニアの前代アッカディアでは、「ディルカンイク(光の使い)」と呼ばれ、 バビロニアでは「ディルカン・バビリ(バビロンの護星)」と、 ついでアッシリアでは「年の案内者」と呼ばれました。 また年初を教える星として「マルドゥクの星」と呼ばれました。
●アッカディア
アッカディアの時代はバビロニアよりも2000年あまり溯りますので、 年初の星は歳差運動により、カペラではなくカストルとボルックスでした。 アッカディアの粘土版には
ニサンの月の第1日に、星の中なる星(ディルカン)と月が並べば、その年は平年なり、 ニサンの月の第3日に星の中なる星と月が並べばその年は閏年なり
とあります。
●ニサンの月の第3日
第一年 新月とカペラが合
第二年 2日月とカペラが合
第三年 3日月とカペラが合
第四年目の合は翌月第1日の夕暮れに新月とカペラが合になることでもあり、 真の年初が再び回ってくることを示します。
月の第三日に新月がカペラと合になるときは、それより1年1ヶ月(13月)後にには、 月の第1日に合となるので、この年を閏年として「13月」を置きました。
黄道十二星座へ
●歳差運動
地軸の振り子現象により、春分点が毎年約54秒西に移動するため、 70年に約1日の割合で季節に狂いが生じます。 恒星年をカストルやボルックス又はカペラに頼れなくなってしまいました。 そこで昼と夜の長さを正確に測り春分点を決め、回帰年を使うようになりました。
黄道の星々により観測することを止め、黄道を木星周期の12年から12等分して、 白羊宮の原点を春分の太陽の位置と決めましたのが、紀元前7~8世紀のことであるようです。
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ガジョン祭祀 (Gajan)
インド、ベンガル地方では、春のヒンドゥー祭祀「ガジョン」が、 ベンガル暦の大晦日 (西暦 4 月13 日 ないし 14 日 )にかけて
数日間行われる。ガジョンは、東部インドの農耕祭祀や民俗祭祀がルーツであり、 後世に「ヒンドゥー 化」されたと考えられている。
このヒンドゥー 化以前からある農耕祭祀が、ベンガル暦正月、そして大陸部東南アジアの正月のルーツとなった。
これらの地方は、稲作地帯であり、雨季と共に、農作業が始まり、乾季に入って収穫となる。
雨季に入る直前の一年でもっとも高温になるこの時期に、今年一年の農作業の安全と成功を祈って正月が設定されたと考えられる。
太陽が春分( 太陽黄径 0度) 3月20-21日で白羊宮に入り、 穀雨( 太陽黄径 30度)4月20-21日で金牛宮に入る。この穀雨に移る前の時期、
太陽黄径 22.5度(4月13-15日)がベンガル正月となった。春分から約3週間遅れとなる。
世界最初の暦は、紀元前3500年前後のメソポタミア文明で、シュメール人によって作成された。
この暦では、冬至から太陽は次第に高くなり、日が長くなっていくことから、冬至が 1 年の初めとされた。
北方の古代中国でも、冬至が正月とされていたが、漢の時代に立春正月へと移り、太陰太陽暦のため、立春と合致することなく 正月の日付が移動することになった。
緯度の高いヨーロッパでも、冬至正月(ケルトの冬至祭)であったが、太陰太陽暦のため、移動し冬至祭がクリスマスの原型となった。
春分祭はイースターの原型となった。
メソポタミア文明の、ウル第三王朝(紀元前21世紀)が定めたウンマ暦を起源とする太陰太陽暦、バビロニア暦は春分の頃の新月の直後を元日として、春分を予測するため恒星 カペラの動きを観察していた。
古代ローマにおいては、農耕の神を祀り、闇を追い払う冬至祭りが行われた。紀元前153年に「ヌマ暦の改革」が行われて、 12ヶ月の順序が現在のものになった。しかし 1 月年初が定着したのは、シーザーのユリウス暦からであった。
シーザーは、平年を1年365日とし、4年に1回、1年366日の閏年を設けた。また、奇数月を31日とし、偶数月を30日とした。
2月は29日と定めた。これが現在の暦の原型となった。