初稿 2021.06.27
金生遺跡には全国からの土器が何故集まっていたのか
それも時代が下ると共に広がりを見せていったようだ。
土偶 静岡、関東、北陸、東北さらに西日本からのものが見られるという
石器なども同様な様子が見えるようだ。
金生遺跡が標準時天文台であれば、列島各地からその情報を求めて、各地の部族からの代表者が、特産品を持って集まって来ていたかも知れない、との想像もしたくなる。
チャイナの鬲かも知れない土器なども、出てもおかしくはないだろう 八節の暦はここが発信元であれば。
金生遺跡はこの地域では石堂、長坂上条などの遺跡などよりも更に長期に存続していたようだという。その理由も八節の暦の発信元であればそうなるかも知れない。
東北地方でストーンサークルが、晩期に作られ広がっていったのも、金生遺跡の八節の暦情報がそれを支えていたものだろうか。
遺跡からの出土品の再検討が必要になるのでは。
2023.11.10 縄文時代の太陽暦 追加しました。
配石と石棒そして、違和感あるのは竪穴住居でない壁立ち建物、このような建物があるのは特殊だったようです。様々に検討されたようですが、これで間違いないようです。立春日を確認して、暦の開始を知らせていた人物が居たのではないかと想像しています。