追加しました 2022.04.04
奈良の超大型内行花文鏡 超大型内行花紋鏡 が出土した桜井茶臼山古墳、下池山古墳も栁本大塚古墳も南北軸の方位を取っていて、 前方部を南に向けている
これは佐紀盾並古墳群と同じで、南北方位で前方部を南に向けているという、同じ指向の人々である。
一方、越前の古墳も河内大塚古墳も、南北軸方位に変ったものの、前方部を目標の北に向けていたのともまた異なるものである
奈良の超大型内行花文鏡が出土した古墳は、纏向、越前、河内とは全く違う指向を持つようだ。
纏向石塚古墳の東西軸の方位とはもちろん全く異なる指向を持つ古墳人のようだ
これら奈良の古墳では何れの古墳も南北軸の思想 チャイナの思想が入っていた
列島の縄文以来の東西軸、太陽祭祀の指向では無い。
纏向、越前、河内の指向とは異なる人々であるようだ。
追加しました 2022.04.04
その後の調査から
この同じ時期に平塚川添遺跡は
弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存続した。
古墳時代初めには環濠の大半は埋没し、建物、竪穴住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。また出土した鏡はすべて内行花紋鏡。古墳時代初めには埋没とされる、というかなりの特殊性を持つ遺跡のようだ。この遺跡が滅亡した時期に、平原王墓が作られた
それは纏向のヤマト勢力により征服されたものと考える
その後征服勢力により奈良の超大型内行花紋鏡の出土する古墳が作られたものだろう
方位も
平原王墓周囲では道路方位が南北方位に変わり
超大型内行花紋鏡が出た古墳の方位と同じとされる
太陽観測も太陽暦の立春方位から太陰暦の二至の方位に変わった
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーー
平塚川添遺跡
福岡県甘木市大字平塚字川添及び公役(くやく)。
甘木市北部から段丘として南伸する福田台地の西側、小石原川の伏流水が湧水となって南流する低湿地、基盤は小石原川の氾濫原で堆積と侵食が繰り返されている。
<時期>
弥生時代中期前半に形成され、中期中頃に一時中断、後期になって再び形成され、多重環濠を伴って拡大発展し、古墳時代初めまで存続した。
古墳時代初めには環濠の大半は埋没し、建物、竪穴住居が造られている。それ以降の遺物は全く出土しない。
<主な出土青銅器類>
銅鏃:長さ=3.6、3.15、3.1、1.8㎝、
重さ=2.7、1.3、2.1、0.45g
壱岐の原ノ辻遺跡出土のものなどと共通する。
広形銅戈耳部:基部に磨耗痕がある。
銅鏡:長宜子孫銘内向花文鏡、小型ボウ製鏡×2(内一つは、佐賀県北茂安町白壁白石遺跡出土品と同范。)
貨泉×1
<珪藻化石による古環境>
環濠から採取された珪藻化石の完形殻の出現率が40%と低く、異地性珪藻化石を多くと考えられる。また、環濠堆積物上層は、沼沢湿地付着生種群が優勢し、陸生珪藻を比較的多く伴うこと、止水性の珪藻化石も産出する。これらのことから、弥生時代終末の環濠は、定常的に水没していたとは考えにくく、しばしば干上がり乾燥することもあるような状態であり、周囲の土壌が混入して埋積した可能性が有る。
この遺跡が低地性の環濠を多重に有し、内部には多数の竪穴住居以外にも特殊な大型建物群を整然と配し、環濠内からは「弥生の鍬」をはじめ多くの木製品が出土するなど、弥生時代の重要な大規模遺跡であることが明らかになり、
菅玉、石製勾玉、銅ぞく、銅貨、銅矛部分、鋳型片、銅鏡等。出土した鏡はすべて内行花紋鏡。
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奈良県 下池山古墳
大形内行花文鏡・木棺・石釧・鉄刀・鉄剣・ヤス・玉類・土師器
37cmの内行花文鏡が出土した古墳
前方後方墳である 大和古墳群に5つしかない
中心線は南北軸 前方部を南に向けていた
古墳時代前期前半の古墳と思われます
古墳の造営年代は3世紀末頃と推定される
奈良県 柳本大塚古墳 大形内行花文鏡
前方後円墳 中心線は南北軸 前方部を南に向ける
国内最古級の幻の木棺が発見された柳本大塚古墳
前方部を南に向ける
内行花文鏡が出土。後漢の鏡をモデルにした国産品で径が約40㎝もあり
古墳出土の内行花文鏡としてはわが国で最大のものである。
★所在地:天理市柳本町大塚
★墳丘:前方後円墳(復元全長94m、後円部復元径54m、高さ現存6m、
前方部復元幅29m、現存高さ約3.4m)前方部を南に向ける。
30m前後の周濠の痕跡あり。
★埋葬施設:竪穴式石室(長さ3.6mの割石積みの石室に木棺が残存していた)他に小石室あり。
2009年1月に桜井市三輪の宗教法人「大神教」の本院拝殿に掲げられて額として残存している事が、橿考研の調査(蛍光エックス線分析)で判明した。古墳の木棺としては最古級のもので貴重な資料である。(現在も当地で掲げられている)
★出土遺物:小石室より内行花文鏡、鉄鏃、鉄器片。長大な竪穴式石室に接した小石室から内行花文鏡が出土。後漢の鏡をモデルにした国産品で径が約40㎝もあり古墳出土の内行花文鏡としてはわが国で最大のものである。
萩原2号墓では内行花文鏡が出土している。
伊都国平原王墓(200年頃)で巨大な内行花文鏡5面が出土しているが、
この時期の筑紫で権威ある鏡は内行花文鏡でしょう。
超大型内行花文鏡が出土したのは初期の大ヤマト政権の古墳の
桜井茶臼山古墳、
下池山古墳(我が国の代表的な前方後方墳で全長120m、築造年代は4世紀初?中頃と推定されている)、
柳本大塚古墳(前方後円墳で復元全長94m、築造年代は4世紀前半と推定されている)
の三基で、しかも今まで、超大型内行花文鏡の出土状況は、下池山古墳と柳本大塚古墳からは主埋葬石室ではなく、別に小石室を設けて超大型内行花文鏡だけを埋葬してあった。
弥生時代終末期の北九州の最後の王墓と言われる伊都国の国邑にあったと言われている平原一号墳から超大型内行花文鏡が出土した。
弥生時代晩期において、鏡は貴重品で、墓に鏡が全国的にも珍しい。
多数(四十面)おさめてあることは墓の主がその時代の重要な人物であったことを示している。しかも、この墓から出土したのは、内行花文鏡と言われている中でも、とびぬけて大きい超大型鏡が5面出土した。
この墓は、西暦二世紀の末の築造と考えられており、長方形の周溝墓で盛り土はないが甕棺ではなく木棺が使われている。
この時期は弥生時代終末期で、邪馬台国の卑弥呼が現れる時代である。
見どころは、平原遺跡の内行花文鏡(46・5センチ)と、
約100年後の古墳前期の奈良県・下池山古墳の内行花文鏡(同37・4センチ)は
比較できるように並べて展示したこと。
下池山古墳 内行花文鏡
新沢500号 内行花文鏡
桜井茶臼山古墳 玉杖 内行花文鏡
(新沢500号墳)
池ノ内古墳 三角縁神獣鏡
内行花文鏡(下池山古墳)