「偉大な発明・発見は一回きりだ」という説があります
ここで、古代の人々が「数」をどのように捉えていたかを考えてみましょう。
ストーン・サークルにはピタゴラスの定理※が隠されている、という説があります。
これは、ファン・デル・ヴェルデンという有名な数学者が唱えた説です。彼は大学で広く用いられた数学の教科書を書いていますが、『古代文明の数学』という本も書きました。その中で彼は「偉大な発明・発見は一回きりだ」と述べています。
このこと自体は納得できるのですが、これを根拠に「ピタゴラスの定理はヨーロッパのストーン・サークルが源泉で、そこから中国やバビロニアに伝わり、さらにギリシアに伝わった」と主張します。しかし、この説は成り立つとは思えません。
一番大きな障害は、 新石器時代には文字がなかった ことです。文字(記号)がないと、100以上の数の概念が生まれません。ピタゴラスの定理には掛け算か、あるいは面積といった概念が必要となりますが、はたして新石器時代の人はこういった概念を必要としたのでしょうか。必要のないところに発明や発見は生まれないと思われます。 ーーーーーここまでは引用しています。
さてこれからです、
最初の文明と云われている、メソポタミアの文明が生まれるまでの歴史は、新石器時代が始まってから、
どのような歴史が紡がれてきたのか、これまでに分ってきたことから纏めてみたいと思います。
先ず新石器時代とはどのような時代なのか
この時期の歴史で分っているのは縄文時代が主となる。
1.磨製石器
図 磨製石斧と砥石
舟造りのため開発されて、舟を利用して外海になる神津島の黒曜石を取りに行って、列島内で利用されていた。
この舟によりオーストラリア、インドネシア、シベリア、アメリカ大陸などにも広がったものと考える。
図 図はお借りしています「500万年のオデッセイ」から
ケルプ街道ではアメリカ大陸に、カリフォルニアの島にも広がっていた。
刃部磨製石斧のレベルではまだ分業まではされていなかったものと思う。
図 神子柴遺跡の石斧
大型化して規格化されたものが出ているので、石斧作りもこの段階では分業していた可能性があるかもしれない。
図
2.両面加工尖頭器
サケ漁のためのポイントとして、信濃川流域などで開発されたと考える。これが北海道に伝わり、また世界へと広がっていた。
加工に時間が掛かる高度な技術と石材ロスが大きいため、石材産地での製作が必要となり、専業生産されたものと考える。
槍先の機能性の点からは、有効な漁はサケ漁周辺と利用範囲は狭く、広がりには欠けていたのではないか。
以下のように環太平洋地域に広く広がったものの、その場所で周辺に広く広がるほど評価されるようには、機能性は高くなかったのでは無いか。
図 チュマシュの石器
チュマシュ族とチャンネル諸島の古代の石器、日本列島のものと類似している
アメリカ合衆国カリフォルニア州南部の太平洋岸、およびチャンネル諸島の島々に住んでいたチュマシュ族
図 オーストラリアへの広がり
サケ漁のためには有効であったが、狩猟においては機能が大幅に向上するものでは無いことと、製作には、時間と石材を大量に消費するため、その両方の影響で広く広がることにはならかったのではないか。
メソポタミアにも行っていたかも知れないが、狩猟において特段の効果も見えず、石材資源に乏しいこの地では、広がらなかったのも当然かもしれない
図 ティンカユの位置
周辺で同様な石器を持つ遺跡は見られないので、なぜここにこんなものがあるのか謎とされている
図 有茎尖頭器と石鏃
手投げ槍として利用されたと想定されている、有茎尖頭器の段階ではまだ広がりは大きくないが、
弓矢が開発されて石鏃が作られるようになると列島内に爆発的に広がった。
3.原種マメ類の栽培
土器による情報記録を始めた、豆粒文土器に記録を残した
4.土器開発
原種マメ類の採集のために作られた土器、目漏れ防止、無文土器の開発
図 手編みの籠から目のない土器へ
土器造りは、粘土から焼成するまで、多段階の技術が必要とされ、尖底土器が開発されて、煮炊きに本格的利用が始まると、土器の生産量は爆発的に増加した。この時期からは専業生産されたものでは無いか。
それ以前でも、隆起線文土器を見ると、その状態からは、専門家が作ったもののように思う。
5.弓矢の開発
有茎尖頭器はそれほど広がりをみせないが、石鏃が開発されると爆発的に広がった
弓は弦が要の一つで、弦は細く強力で耐久性があるものが必要とされるから、弦の開発には専門家が必要だったのでは無いか。その開発の上で魚釣りが可能となる糸も開発されたものと考える。
さらに魚網も開発されたと考えるが、網は大量の糸を必要とするので、その生産には時間が掛かり、農耕の前段階となったものと考える。
6.数認識の高度化
壹太陽年の観測と太陽暦の開発から数学は生まれたのではなかったか。
図
日常身の回りの数からでは、数学の認識には限界がある、原始人と未開人のレベル。
メソポタミアには、春分をカペラで判定するということで、その観測遺跡は今の所出ていない、
こよみの情報が行っているのでは無いか
図
ピタゴラスの定理は土器にその記録がある
太陽暦開発の経過は、突起土器に数を記録して、その数列は1、2、6、4、12、8、3、7、5
と記録されている。
バルディビアとは、エクアドルの都市ですが、そこで発掘されたのがバルディビア遺跡です。
”エクアドル中部海岸にある初期採集漁労民文化の遺跡 (前 3000~2400頃) 。ここから発見された粗製の土器はアンデス文明最古の一つに数えられ,また日本の縄文土器との類似性が指摘されているが,直接の関係については疑問視する見解が強い。”
縄文土器に似た土器があるとすれば、この時期に太陽暦が伝わった可能性がある。それはアメリカ大陸での農耕開始に年代的に整合するのではないか。
7.両面加工技法はその後どのように発展したか
サケ取りの尖頭器、アトラトルなどを利用した投げ槍の有茎尖頭器、石鏃、石匙と道具の多様化に繋がった。
こうした技術開発は日本列島で縄文時代前期までに行われていたことから、
世界四大文明はこれが基礎となり発展していたとの考えもありうる。
特に太陽暦は栽培種の成立には効果が大きく、農耕開始の基本であると考える。
図 文明史年表
図はお借りして補足しています