金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

水田稲作と太陰太陽暦

列島の人々が纏向に集まったとき
初期には立春観測の石塚古墳を作り、春耕秋収の半年一年暦の立春観測を始めたものと思う。
それは列島内何処でも、九州からの土器は纏向では殆ど出ていないが、九州でも同じだったのだろう。
チャイナの一年暦、太陰太陽暦とは異なっていたため、歳事を知らずと書かれた。
しかし、その後、纏向で箸墓が作られ、列島の暦は太陰太陽暦が決められた。
水田稲作文化はこの暦に従って行われることとなり、纏向に集まった勢力の地域での水田稲作は大きく発展した。

                箸墓と夏至の日の出

しかしここに集まっていない太陽暦を持つ東国地域にはこの纏向成立の文化は広がりにくく、また水田稲作そのものも比較的寒冷な東国以北には、纏向成立の暦に従って行う水田稲作は、適応が難しく、その後も水田稲作は発展できなかったのでは無いだろうか。

集まっていたのは水田稲作可能性の高い気候の似通った温暖な地域のように見える。
         図はお借りしました

引用ーーーーーー

①「史記封禅書」と「漢書郊祀志」
 古代中国における祭祀の様子を知る有力な手掛かりは、『史記封禅(ほうぜん)書』と『漢書郊祀(こうし)志』である。
史記は、黄帝から前漢の武帝までの歴史で、前漢の司馬遷(しばせん)が著した史書だが、その中に「封禅書」と題する部分があり、ここに祭祀の様子を記している。

 また、史記と並んで名高い漢書は、後漢の班固(はんこ)の著で、これは前漢の歴史である。その中の「郊祀志」と名付けられた部分に祭祀の様子が記されている。故に、これらの書を調べれば古代中国の祭祀のありかたが分かることになる。

 司馬遷(前一四五頃から前九三年)は、前漢の武帝と同時代の人。武帝は朝鮮半島に楽浪郡などを置いた。当時の日本列島は弥生前期の終わりから中期の初めにかけての頃で、楽浪郡などから色々な影響を受けていた。
また、班固(三二から九二年)は弥生中期後半の人で、奴(な)国王が光武帝から金印を貰った頃の人だと言ってもよい。したがって、「封禅書」、「郊祀志」の記事は古代日本における祭祀のあり方を知る上で大切な手掛かりになると言えよう。
++++そうなのか

②冬至の祀りと祭天の方法
 「封禅書」や「郊祀志」には、「天子が冬至に天を祀り、夏至に地を祀り」などの記事が多く見える。 こうした祀りは天子が行う極めて重要なものであった。
 その他、「天は円丘で祀り、地は方沢で祀る」などとも記されている。そして、天を祀るには「柴を燃やした」のであり、地を祀るには「犠牲を土中に埋めた」のであり、川を祀るには「犠牲を水に沈めた」のである。
++++そうなのか

 少々 長くなるが、論を進める上で大切なので、「封禅書」や「郊祀志」に見える祭天に関する主な記事を列挙してみれば、以下の如くである。

1・「周官(しゅうかん)に日く。冬の日至に天を南郊に祀り、長日に至るを迎う。夏の日至に地祇を祭る。皆、舞楽を用う。」

 これは「封禅書」の記事。「周官」は「周礼」。周王朝の時に、冬至には天を祀り、夏至には地を祭っていたことが分かる。天の祀りは都の「南郊」で行ったこと、その目的の一つが「長日に至るを迎う」であったこと、天地の祭祀に「舞楽」が伴っていたことなども分かる。

2・「天は陰を好む。これを祀るに必ず高山の下小山の上に於いてす。命(なづ)けて畤(じ)という。地は陽を貴ぶ。これを祭るには必ず沢中の円丘に於いてすという。」

 これも「封禅書」の記事。この祭祀は斉(せい)国のもの。この国は春秋戦国時代を通して山東半島にあり、この国の祭祀が秦の始皇帝や前漢の武帝などの祭祀に大きな影響を与えたとされている。
天は陽であるため「陰を好む」。
「畤」は天を祭るのに山の麓に築いた祭壇。
地は陰であるので「陽を貴ぶ」。
「沢中の円丘」は池とか沼の中、或いはそれらのほとりの円丘。
 地は後には沢中の方丘で祀ったが、ここでは円丘。

3・「雍(よう)に郊(こう)し、一角の獣を獲たり。麟(りん)の如く然り。畤ごとに「牛を加え、以て燎(や)く。」

 これも「封禅書」の記事。文の主語は前漢の武帝。「郊し」は天を祀ったのだが、その時、めでたい「一角の獣」を獲た。「畤」は五ツあるので、「畤ごと」に犠牲の「牛」を一頭ずつ増やした。 「畤」は2に見える。「燎(や)く」は天を祀る方法で柴を燃やすこと。即ち、その煙や香りを空(天)へ上げる。

4・「今年、宝鼎を得たり。その冬辛巳朔旦(さくたん)は冬至なり。黄帝の時と等し。(中略)黄帝、宝鼎・神策を得たり。この歳己酉朔旦は冬至なり。天の紀を得たり。終わりて復た始まる。」

 これも「封禅書」の記事。(中略)より前の部分は公孫卿という人の言葉。それより後の部分は鬼臾區という人の言葉。
 両者とも天を祀ることを説いている。「朔旦」は朔(ついたち)。即ち、この日は十一月一日。十一月一日が冬至と重なる場合は特にめでたいとされた。「黄帝の時」にも同じことがあり、しかも「宝鼎」を得たのも黄帝の時と同じであると言っている。

5・「十一月辛巳朔旦冬至の昧爽(まいそう)、天子始めて郊して太一(たいいつ)を拝す。」

 これは前項に続く記事。「昧爽」は夜の明け方。「太一」は天神。この神は後に道教の最高神となった。冬至に天を祀るのは、夜明けであることも要注意。

6・「柴を泰壇(たいだん)に燔(や)くは天を祭るなり。泰折(たいせつ)に?埋(えいまい)するは、地を祭るなり。」

 これは「郊祀志」に引かれている「礼記」の記事。「泰壇」は天を祀る時の円い祭壇。その上で柴を燃やす。3にも柴を燃やす記事があった。「泰折」は大折とも書き、地を祭るための方形の祭壇。

 「?埋」は埋める意。即ち、犠牲の牛などを「泰折」の土中に埋める。 「燔」は「肉を燎(や)く」ことで、「あぶる」の意もある。

 天を祀る時は犠牲をあぶり焼いたことが考えられる。というのは、地を祭る時は犠牲を土中に埋めたのであり、川を祭る時は犠牲を川中に沈めたり川岸に埋めるなどの方法がとられていたからである。注意すべき点は、地の場合も川の場合も、犠牲はそれぞれの方法で処理されていることである。換言すれば、儀式の終わった時、そこに犠牲の姿は存在しないのである。したがって、天に捧げられた犠牲も、祭壇の上であぶって焼いてしまい、その煙や香りを天へ昇らせたのであり、それが犠牲を天に供える方法なのである。「柴を泰壇に燔く」は、単に柴を燃やしたものではあるまい。古代人のやり方は即物的であったと言えよう。

7・「冬の日至に地上の円丘においてこれを奏す。もし楽(がく)六変すれば、則ち天神皆な降る。夏の日至に沢中の方丘においてこれを奏す。もし楽八変すれば則ち地示(ちぎ)皆な出づ。」

 これも「郊祀志」の 記事。内容は、後に新王朝を建てた王莽(おうもう)が「周礼」にある記録をひいて漢の皇帝に対して話しているのである。天の神は上から下りてくる。地の神は土中から出てくると考えられていたことが分かる。

 以上は古代中国の記録だが、現在も北京には天壇と地壇がある。今は公園になっているが、この両者は、明王朝の永楽帝以来、清王朝の終りまでの約五百年間にわたって歴代の皇帝が冬至には天を、夏至には地を祀った場所である。

 天壇は石造の三層の円丘。地壇は沢の中に二層の方丘が設けられている。円丘の天壇と地壇の方丘をヒントにして前方後円墳の謎を解こうとする人もいる。また、わが国でも、修験道で護摩を焚く。室内でも焚くが室外でも焚く。修験道の祖とされる役小角(えんのおづぬ)は柴を燃やして天を祀ったものと考えられる。修験道で護摩を焚くのは山中で獣害から逃れるために始まったとする人もいるが、見当外れではなかろうか。わが国では、雨乞にも山頂で火を燃やす。こうした山は龍王山と呼ばれていることが多いが、煙を空に上げて天神に雨を願う意であろう。天の祀り、天への祈りは煙を空に上げるしかないようである。


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