改訂 2021.08.25
二至
冬至~夏至、夏至~冬至
183日 182日 365日
二分
183/2 182/2 91日
春分と秋分はどのようにして観測したものなのか不明だけれど、中期遺跡にはこれを示す遺跡がある。暦認識の歴史的進化として、二至から二至二分までは遺跡として残されていた。
縄文人の土器には三つの突起を持つ土器、四つの突起を持つ土器があることから
1/2も1/3も1/4も理解していたものと考えることが出来る。
二至二分と同様に 91/2 45日 これから四立としたものと考える
同様に 91/3 30日も理解可能となっていたものと思う。
これから朔旦立春により月相 月の満ち欠けの周期 30日は理解したものだろう。
そして縄文人の天才は 45-30 15日が半月となることも理解したものと思う。
こうして 24節気の暦は作られていたものと考える。
縄文人は半年一年暦を持っていたようなので、
立春から立秋までと立秋から立春までとしたものなのか。
歴史的に立春が重要視されていたようだから立春起点の暦を作っていたものだろうと思う。
冬至、夏至観測の後、立春と立秋-訂正 立冬 を同一の山のピークで観測して暦は作られていたものと考える。
月の満ち欠けについては、潮の満ち干とかは、山の中では生活との関連するようなことが特になかったことだろうから、特別注意を払うことはなかったものだろう。月を加える暦の必要は無く、太陰暦は作られなかったものだろう。
縄文時代は都市生活のような人間活動が中心となる忙しい生活では無く、自然との共生という点からは自然に従う時間で、24節気の太陽暦として形成できれば充分だったものと考える。
四立についても24節気に関しても、チャイナで同時代に観測していたという記録なども無さそうだし、始原に関する人の話などの記録も無いので、どちらも縄文人発祥の文化と考える。
縄文後期に金生遺跡に最初に居住した天才が24節気の暦を開発したものと考えたい。