金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

金生遺跡の遺物 壁立式と鬲

壁立ち建物
金生遺跡の壁立式建物は、龍山文化後期に繋がるものと考えている。

龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。
龍山文化の前期は紀元前3000年から紀元前2600年ごろで、
紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろが後期とされている[1] 。

三つ足袋足 鬲
仰韶文化時期に繋がるものと考える 比較的に低温焼成、厚手

          写真 「金生遺跡」からお借りしました

鬲(三足土器)出土の竜山文化C14年代測定例では4600前頃から4000年前頃という。
                     紀元前2600   2000

仰韶から竜山文化の時期に交流があったものと考える。

                 画像 お借りしました

引用ーーーーーー

金生遺跡 遺跡の奧に見えている現代アフリカの住居のような、或いはモンゴルのゲルのような住居が、問題の「壁建住居」である。八ケ岳南麓の斜面には縄文時代の遺跡・遺構が多く、祭祀遺構と考えられる石組み遺構も沢山発見されているが、このような「壁」を持った住居はここだけである。
北海道八雲町の「栄浜1遺跡」からは屋根を持ち、壁を持った家型の石製品が見つかっているが、これは住居跡が見つかったわけでは無いので、物証としては弱い。

 ここの建物は、全国唯一の縄文時代「壁立ち構造」での住居復元である。発掘の際に、通常竪穴式住居にある「掘り込み」や「周堤」が見られなかったこと、又、主柱穴のほかに壁柱穴と思われる穴が見つかったことから「壁立ち構造」と判断したと旧大泉村教育委員会の資料にはあるが、どうもしっくりこない。

 中を覗いてみると、屋根を支える主柱とは別に、いくつもの壁柱を組んでその間に茅をびっしり編み込んである。外側を粘土質の土で固めて壁を作っている。解説書によると、石灰を混ぜた漆喰だそうだ。土壁だと冬季にひび割れてボロボロになったので、耐久性を持たせるため石灰を混ぜて上塗りをしたとある。それで白い壁になっているのだ。
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 日本では竪穴式住居は、後期旧石器時代ごろから造られたと考えられており、北海道から九州にかけて10数カ所の遺跡で確認されている。北海道標津(しべつ)町に一辺長さが4m~10mもある汁鉢状の大きな窪みが数え切れないくらい密集している。この窪みが大昔の「穴居」(けっきょ)の跡である。深さが2.5mもあり、掘った土に周りに盛り上げてある。また縄文時代の、北海道南茅部町の「大船C遺跡」では、穴の深さが4~7mに及ぶものがあり、これは西日本各地で見られる竪穴式住居とは大きく異なっている。普通の竪穴住居の深さはせいぜい70~80cmなので如何に深いかが理解できるが、範疇としては「竪穴式住居」に含まれる。

 日本の竪穴住居は伏屋式と壁立式とに区分され、後期旧石器時代頃から造られ始めたと考えられており、縄文時代には盛んに造られ、弥生時代に伝わり、伏屋式が主流で「壁立式」は拠点集落の大形住居に限られ、首長居館として権威を示す形式として弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられている。そして日本の農家や民家のもととなっていった。
「後期旧石器時代頃から造られ始めた」という論拠の一つがこの「金生遺跡」の存在なのである。
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尖石遺跡にあったものと少し構造が違うのでよく見ると、円錐(えんすい)型の屋根の下に円筒形の部分があり、しかもそこが粘土か何かで白く塗られています。調べてみると通常の竪穴式住居は伏屋式(ふせやしき)で、金生遺跡に再現されているのは壁立式(かべだちしき)と呼ばれるそうです。

壁立式は拠点集落の大形住居や首長居館などに採用された権威を示す形式で伏屋式とともに弥生・古墳の両時代に築造されたと考えられるそうです。アフリカなどの住居と似ていて何かエキゾチックな感じさえします。
2010_05060437 
住居跡38軒、配石遺構5基、集石遺構3基、石組み遺構16基など豊富な遺物が発見されましたが、発掘時に住居跡に「掘り込み」や「周堤」が見られなかったことから壁立式で再現されたそうです。
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右手奥の小屋に祭祀(さいし)遺構がありました。縄文晩期終末(2300年ほど前)のもので、発掘調査された時の姿でレプリカによる復元展示がしてあります。ちなみに気になった金生の名称は大泉町谷戸の字名でした。
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【6月9日 Xinhua News】中国四川省(Sichuan)の成都文物考古研究院は7日、成都市(Chengdu)新津(しんしん)区にある宝?(ほうとん)古城遺跡で、4500年前の竹製家屋部材を初めて発見したと発表した。
成都平原でこれまでに見つかった最古の「竹の家」であり、このような竹の骨組みと土壁を持つ建物は、三星堆(Sanxingdui)文化の時代まで受け継がれたとされる。

 同遺跡は長江上流地域でこれまで発見された中で、最も時代が古く、最大の面積を持つ先史時代の都市遺跡であり、成都平原で人類が初めて大規模な定住生活を営んだ場所とされる。
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龍山文化の特徴は、高温で焼いた灰陶・黒陶を中心にした陶器の技術の高さにあり、器の薄さが均一であることからろくろが使われていたと見られる。特に卵殻陶と呼ばれるものは、器を卵の殻のようになるまで(0.5 - 1mm)薄くした黒陶の陶器で、さらに磨きをかけて黒光りさせるか精細な文様を彫り込んだものである。これは黄河流域のみならず長江流域や中国の南部海岸付近でも発見されており、龍山文化の広がりを示している。
一方で長江中流域の屈家嶺文化も灰陶・黒陶を特徴とする文化で河南省付近にまで影響を広げており、龍山文化が長江付近の文化の影響を受けた可能性もある。

陶器の生産の効率の上昇は、出土する陶器の数や種類が前の文化に比べ増大したことにもみられ、鼎や鬲、?、高柄杯など、調理器や食器として使われた多様な黒陶・灰陶の陶器が出土している。

陶器のほか、石包丁など石器や骨器などの武器や道具、ヒスイなどの玉なども出土している。龍山文化の後期には青銅器も出現しており、殷代・周代(あるいは殷の前にあったとされる夏代)の青銅器時代に入る過渡期であったと考えられる。

龍山文化の社会に現れた大きな変化は、都市の出現である。初期の住居は竪穴式住居であったが、やがて柱や壁を建てた家屋が出現した。
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また土を突き固めた城壁や堀が出土しており、特に山西省襄汾県の陶寺郷の南で発見された陝西龍山文化の遺跡・陶寺遺跡(紀元前2500年 - 紀元前1900年)は龍山文化の都市遺跡の中でも最大級のものであった。

農業や手工業の発達も特徴である。陝西省の渭河周辺では農業と牧畜業が仰韶文化の時期に比べ大きく発展している。コメの栽培も始まっており、カイコを育てる養蚕業の存在と小規模な絹織物の生産の開始も確認されている。

動物の肩胛骨を使った占いや巫術も始まっており、宗教も出現していたとみられる。農業などの発達により、社会の生産に余剰が生まれ、私有財産が出現し社会の階層化が進み、父権制社会や階級社会が誕生した。

中国の新石器時代の人口は、龍山文化で一つのピークに達したが龍山文化の末期には人口は激減した。同時に墳墓の副葬品から高品質の卵殻陶・黒陶なども見られなくなった。

龍山文化の区分
龍山文化の前期は紀元前3000年から紀元前2600年ごろで、
紀元前2600年ごろから紀元前2000年ごろが後期とされている[1] 。
また龍山文化は黄河流域の地形に合わせて、中原の河南龍山文化、渭河沿いの陝西龍山文化、黄河最下流の山東龍山文化など地域ごとにさまざまに分化しており、特に後期になると分化が明確になる。渭河沿いは後にシルクロードと呼ばれる西域への交易路の起点であり、中国の歴史の中心の一つとなった。
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鬲 れき
袋状の三足をもつ煮沸用具。鬲の上に甑(そう)(こしき)を重ねて用いる。鬲に水を入れ、甑に穀物を入れ、下から加熱して穀物を蒸す。肉類を煮沸した鼎(てい)と並んで、中国の三足器の代表的器形である。鬲の出現は竜山文化の時代で、殷(いん)代から西周にかけて盛行する。

礼器としての青銅鬲も存在するが、実用具の多くは陶製の鬲である。
殷代の陶製の鬲は、器全体に縄文や籃文(らんもん)が施され、口縁がくびれ、腹部が張り出し、袋状の足の先端は錐(きり)状にとがっている。
西周時代から春秋戦国時代の鬲は、足がしだいに退化し、?(ふ)とよばれる釜(かま)形の器形に変化していく。鬲と甑が一体になった?(げん)とよばれる器形も、殷代から戦国時代にかけて用いられている。
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2 三足土器出土の事例
  青森県今津遺跡、虚空蔵遺跡出土三足土器  WEBサイト「日本人の起源」から引用
これらの縄文時代三足土器は中国竜山文化の影響を受け、縄文人が見様見真似でデザインだけを当てはめて土器をつくったのではないかと言われています。

中国竜山文化では次のような鬲(れき)と甑(こしき)が出土しています。
鬲(れき)(下)と甑(こしき)(上)
『平凡社 改訂新版 世界大百科事典』 日立ソリューションズから引用
鬲(三足土器)のデザインがふっくらしていることが特徴です。
鬲(三足土器)出土の竜山文化C14年代測定例では4600前頃から4000年前頃という値があり、加曽利E式土器の時期と重なることは確実です。
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 黄河文明は黄河中流域に展開した「仰韶文化」と下流域に展開した「竜山文化」の2時期分かれる。

仰韶文化と竜山文化のチェック・ポイント
(1)仰韶文化
①展開した地域は?
=黄河中流域の山麓地帯
②代表的遺跡は?
=仰韶(ヤンシャオ)遺跡(河南省)
=半坡遺跡(西安市東部)
③発見者は?
=スェーデン人アンダーソンが発見
④使用されていた主な土器は?
=彩陶土器(西アジアから伝播した。低温で焼上げた厚手の彩色土器)

⑤使用されていた主な石器は?
=磨製石器

(2)竜山文化
①展開した地域は?
=黄河下流域が中心。北は遼東半島から南は揚子江流域
②代表的な遺跡は?
=竜山(ロンシャン)遺跡(山東省)
③使用されていた主な陶器は?
=三足土器(鬲・鼎)という灰陶
=黒陶(黒色の磨研土器で高温で薄手。形状は三足土器)

④鬲(レキ)の使用方法は?
=三足付きの土器で蒸し器
⑤鼎(テイ)の使用方法は?
=三足付きの土器で煮物用
⑥その他の特徴は?
=仰韶文化では犬や豚を飼育していた。
=竜山文化では牛馬を家畜化していた。


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