縄文人が開発した太陽暦と太陰暦 縄文時代早期には二至二分の暦を開発
神秘数 4、6 の波状突起口縁の土器を作り記録していた
縄文時代前期
神秘数 8 波状突起口縁の土器を作り 8節の暦を持った
中期には 神秘数 3 の波状突起口縁の土器を作り太陽と月のシンクロすることを認識
縄文人の開発した太陽暦は、各地の文明に伝えていた 二至二分の暦
縄文時代早期末から前期初め頃に起こった鬼海カルデラ噴火により避難した縄文人が各地に移動していた事によるものと推察
世界各地の文明は伝えられた暦の知識を利用して穀物生産を増産して富を蓄積した
その後王が発生し、その冨を独占するため、支配力を強めるため
暦を太陽暦から、支配するのに都合の良い、太陰太陽暦に変える時代となった
2000年間に亘り人類はそうした支配層の与える暦の支配下にあった
縄文人の暦は日本列島でも2000年前頃までは伝えられていたが
その後その太陽暦は弥生時代から古墳時代へと冨の蓄積が進み、
広域的支配者の登場により廃止されてしまった
纏向石塚古墳、ホケノ山古墳は、縄文以来の伝統である太陽暦を作るため、三輪山からの立春の日の出を観測していたものと考える。
しかし現代になり世界の恣意的太陽暦の時代は終わりつつあり
やっと4500年前に確立した縄文人の太陽暦の時代に戻った
今、太陰暦は縄文時代と同じように並行して使われるようになっている
神秘数 3 4 6 8 の波状突起口縁の土器の記録
3、6 波状突起口縁 3 波状突起口縁
3,4 波状突起口縁
6,8 波状突起口縁
太陽暦と太陰暦のシンクロ実現 朔旦立春により太陰暦を校正する
2022.02.04 がその記念となる朔旦立春、の4539年振と成るもの、と推測する観測期日に当たる。
縄文時代の日本列島 天文台、金生遺跡でその観測が出来るだろう、快晴を臨むのみ。
写真はお借りしました