金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

金生遺跡・大配石は縄文時代の標準時天文台

2023.08.05 山名を訂正して補足しました。飯盛山を笠無山

北杜市全域は縄文時代には太陽観測の天文台であった。

  甲斐駒ヶ岳・南アルプス      笠無山は地図に記載ありません 飯盛山は間違い 

                            茅が岳・金が岳

     飯盛山の記載は山名も位置も間違いで、笠無山は地図にはありません

地図では示せませんのでランドスケープのみ下に示します

 

その中心には金生遺跡・大配石があり、これは太陽暦観測用の施設であり、大配石は立春、立秋観測の装置であった。

 


これにより縄文時代には太陽暦があったことが明確になった
各地で見えている列柱、環状列石、ストーンサークルからは、これまで様々に検証が行われて来ていたようだが、二至二分を知っていたかも知れないという程度の太陽暦との関係を示すだろう程度の検証結果が云われてきたに過ぎない。

 

   冬至や夏至は20日程度同じ位置からの日の出になるので、観測では何時がその当日なのか分らないので、暦の起点にはなりません。暦を作ってから冬至や夏至の日にちを決めている。


金生遺跡以外に、このような観測施設を持つ遺跡は今までの所見付かっていないと判断する。
太陽暦天文台は縄文時代に列島に1カ所あれば良いので、その情報は列島内の隅々に何らかの方法で伝えられていたものと思う。その情報を受けた各地の部族は、暦の進法により日を数えれば良かったのだろう。そうであるから各地のストーンサークルに、特別に太陽暦を取り上げて示す必要は無く、特別な山容を示す山に向けて列石を設けて、決められた暦日に従って各地から集合して、祭祀を行うことができたのだろう。

 

 


そうだとすれば金生遺跡以外にこのような遺跡は存在しないことになる。
金生遺跡で立春を観測する態勢が取られていたとすれば、太陽暦を算出する程度の計算能力や技術は、少なくとも一部の人は持っていた、と考えて良いことになる。


このことから縄文時代の文化についてどのようなことが考えられるのだろうか。

 

引用ーーーーーーーーーーーーーー

環状列石という総称は考古学者の駒井和愛によるものです。かれは終戦直後から環状列石をもとめて北海道各地の遺跡を発掘するだけでなく、ひろくユーラシア大陸にも足をのばしました。めざしたのは墳墓としての位置づけです。しかし、大型のストーン・サークルには墓の痕跡がないものも多く、十分に説得力のある学説とは言えないようです。近年ではむしろ、小林達雄氏に代表される考古学者たちのように、環状列石を日の出・日の入りを観測する装置とみなす説が有力になっています。その学説を最初に示唆したのは医師として北海道沙流郡二風谷(にぶたに)に暮らし、アイヌ研究にも従事したN. G. マンローです。

マンローは1908年、小樽市の忍路(おしょろ)で発掘された環状列石をヨーロッパの事例と比較し、天体観測を目的としたものではないかと指摘しました。その後、1931年に発見された秋田県十和田の大湯環状列石は万座環状列石と野中堂環状列石というふたつの環状列石をもつ遺跡ですが、その中心を結ぶ直線の延長線上に夏至の日没方向が位置していることが判明しました。しかも程よい距離に山の稜線が見渡せ、とくに三角錐の黒又山(クロマンタ)が二至二分の目印となっているようです。また、野中堂環状列石のほうは日時計の形状を見事に配した遺構として有名です。ただし、日時計であるかどうかはさだかではありません。

いずれにしろ、環状列石は津軽海峡を挟んで東北と北海道に顕著にみられる縄文遺跡です。駒井はそれを「ストーン・サークル文化圏」と命名し、小林は北東北と南北海道に限定した「津軽海峡文化圏」を構想し、その世界遺産登録を推進すべきと主張しています。その是非はともかく、ホライズン・カレンダーの視点からしてもう一つ見逃せないのは巨大列柱です。

青森市郊外の三内(さんない)丸山遺跡は1992年に広範囲の発掘調査がおこなわれ、長期にわたる大規模なムラの存在が確認されました。なかでも注目を浴びたのは直径約1mもある6本の大型掘立柱の遺構です。これについては物見櫓(やぐら)説、神殿説などがありますが、暦研究からすると天測説が興味をひきます。小林達雄氏によると、3本ずつ向き合う柱は南側が冬至の日没方向、北側が夏至の日昇方向を指し示しているといいます。また太陽がもっとも高くのぼる南中(真昼)のとき、木柱の影は真北に落ちますが、それが北側の柱間の真ん中にくるよう設定されていたと推測しています。とりわけ夏至の南中のときには、影の先端が柱間の中間にくるよう、木柱の高さを14.7mに復元しました。

カレンダー
三内丸山のような大型列柱の遺跡は日本海岸沿いに分布し、たとえば新潟県青海町の寺地遺跡には4本の木柱が建ち、配石の遺構がみつかっています。また環状木柱列(ウッド・サークル)とよばれる遺跡も全国で数十例あるそうです。ヨーロッパの事例としてはゴゼック・サークルをすでにとりあげています(第10回参照)。

縄文人は環状列石や大型列柱、環状木柱列などを設置し、二至二分を知り、クリやクルミの収穫期、あるいはタラやサケの豊漁期を心待ちにしていたにちがいありません。

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 縄文人に数の観念があったのではないかというのは、ネットで検索すると「るいネット」というサイトには、次のように記されている。
「縄文人の観念力を推し量る上での興味深い事例。秋田県の大湯環状列石で発見された土版には1、2、3、4、5、6を表す列点が彫り込まれている。しかも、6は3+3で構成されており、“足し算”の観念もあったらしい。(アイヌ人にとって6は神聖な数字で、3だけでは足りない力を二つ寄せると倍増するという観念とのこと。)

 また、藤田富士夫さんと言う人も「算術する縄文人」という論文を発表していた。


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