縄文時代中期には 3波状突起口縁の土器が作られていることから
この時から太陰暦とシンクロさせるため、二十四節気の暦が作られ始めていたものと考えている。
金生遺跡天文台設置の必要性は、立春と立秋の観測を正確に行うことが必要とされたことからと思うので、縄文時代中期のこの時期から始まっていたのだろうと考える。
金生遺跡・大配石のエリアは最初から住居などが作られていたような形跡は無いようだから
縄文時代後期に大配石の先端部に住居が作られる以前から
このエリアは甲斐駒ヶ岳への冬至の日の入りなどの関係から、
特別な土地とされて、祭祀なども行われてきていたのでは無いかと思う。
つまり先端部の住居や大配石が造られる以前から
既に太陽観測が行われており、それは木柱などで標識されて行われていたのでは無いだろうか。
少なくとも縄文時代中期 3波状突起口縁の土器が作られるようになる以前から、恒久的な形では無いとしても、何らかの観測施設が作られてきていたのだろう。
それが立春などの観測を行うようになり、それまでとは異なり遙かに重要性が高くなったのだろう。
その後に観測者が亡くなるなどの変化が起こり、墓が作られたり、観測施設も恒久化するために、
大配石が形成されることになったものでは無いだろうか。
立秋 飯盛山は間違いで 笠無山です 金峰山
手前の林は遺跡
2024.11.15 山名を訂正しました
大配石では生け垣や大木に阻まれて日の出は見えないので引いた位置から見たもの
冬至の日の出
遺跡公園とするため、日の出が見えないように整備されていた