文明の画期はどのように推移したか、幻視してみる
後期旧石器の細石器、細石刃文化の後の時期に開発された文化は次のように行われた。
☆生業開発の時代
1.土器は編み籠の目が粗いマメ類が漏れてしまう欠点を無くすための工夫から始まった 無文土器
農耕開始は豆粒文土器の時期からで、マメ類の栽培が始められた
2.弓矢の開発による狩猟開始は隆起線文系土器の時期である、
弓矢の猟は列島に広がり、土器造りも広がり造る量も増加した
土器に付けられた隆起線文は弓の弦を開発した画期を示す
石鏃の開発は爪形文土器により示されていた
3.魚釣り漁の開始は魚釣り漁のための撚り糸が作られてからで、撚糸文土器の時期である
この時期に土器が煮炊きに本格的に利用されるようになり、尖底土器が大幅に増加した。
☆ソフトウェア開発の時代
4.初めに太陽暦が作られたのは 鮭の遡上回帰漁の時期を予測することからで
2波状突起口縁の土器が造られたときである
5.太陰暦は 6波状突起口縁の土器が造られたときからで、
朔望周期が分かり、潮汐予測に画期をもたらしたことで、貝塚が残されるようになった。
6.太陽暦 八節の暦は 4波状突起口縁の土器が造られたときで、半年 4文節の暦として始めて、
農耕のために栽培暦が造られ、種蒔きの時期を示すため、
立春からの暦が作られるようになった
このように縄文時代早期末までに、文明の基礎は造られていた、前期以後はこれが引き継がれ発展していった。
その後 半年182日をベースにした暦から、365日一年をベースとした暦に転換した、
12波状突起口縁の土器、8波状突起口縁の土器が造られるようになる。
縄文時代中期には 3波状突起口縁の土器が造られ、二十四節気の暦が造られて、太陰暦とのシンクロにより、太陽暦使用地域と太陰暦使用地域との交流が容易となった、内陸と海辺の人々の交流が盛んとなり縄文社会は大きく盛り上がっていた。
金生遺跡・大配石での太陽暦観測施設はこの暦を正確に運用するために造られた。
太陽暦の二十四節気の暦 立春、立秋の日の出、冬至の日の入りはそれぞれの山のピークに設定していた
更にその後作業暦は、一週間 7日と 5日のカレンダーが造られて、生業のための集団作業は効果的に行われるようになった。
7、5波状突起口縁の土器
縄文時代に文字は作られなかったものの、列島内の社会は太陽暦、太陰暦に従い効果的に運用され、安定した社会が継続していた。
大陸から力による支配集団が渡来して、土地の支配と人々を支配する権力の前に、縄文文化を持つ人々の自然と共存した10,000年間持続して来た社会は消滅した。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
人間が人間らしくなった「大発見」
ダニエル・ブアスティンというアメリカの歴史家が『大発見』という本に、人間はあるものを発見して人間になったと書いています。何だと思いますか? 火。ああ、必ず出てくる答えの一つです。知性。それから言語、道具。なるほど。文字もあるね。文化。人間が生きるためにつくる社会の活動から生まれるすべてのものを文化というんですね。
どれもある程度あたっているかもしれない。でもブアスティンさんが書いたのは、「時間」です。人は時間というものを見つけ出して、人間らしくなった。文化も時間を使えるようになってから生まれました。
古代文明が興ったエジプトではナイル川が一年のある時期に必ず洪水を起こし、その後に肥沃な土地ができることから、その時期を予測することで農耕が発達し、高度な文明が築かれたと言われています。
ナイル川沿岸の人たちは、洪水の時期で時間を意識したのかもしれません。人間が時間を意識した証(あかし)は、暦です。研究者はまず、その文化が暦を持っていたかを調べるそうです。時間を意識することで、過去と現在と未来を視野に入れて考えることができるからです。