金生遺跡を世界遺産 世界標準時の天文台にしよう会

火焔土器の謎 なぜ突起は 四つ

火焔土器の謎 なぜ突起は 四つ なのか
縄文式土器として世界に知られる土器の中でも火焔土器 火焔式土器 は特に驚異の目を持ってみられている。


十日町の土器

この火焔土器については次のような説明がされていた。
引用ーーーーーーそして、この雪国から縄文時代中期の5000年前に誕生したのが「火焔型土器」である。力強く燃える焔、また見る者によっては水の流れや波などをイメージさせる意匠、造形は圧倒的である。
この造形の中で「突起」を持つということが縄文土器の特徴であり、中でも特に大仰な4つの突起を持つ火焔型土器は縄文土器を代表するものである。

大仰な突起は、煮炊きする具の出し入れにはかえって邪魔になる。つまり現実の用途にかなった器ではなく、縄文人の世界観から紡ぎだされた観念を表現した器なのである。

古今東西の焼物の中で突起を持つものは、火焔型土器に代表される日本の縄文土器だけであり、世界の中で際立った存在である。
縄文文化は、日本文化の源流であり、その意味で火焔型土器は浮世絵や歌舞伎ととともに、日本文化そのものなのである。      ----引用終わり

何故このような四つの突起を持つ土器なのかについては状況の説明だけである。
縄文人の世界観、観念を表現したという、それは何なのか、そして何故四つの突起としたのか、その理由は述べられていない。
土器の縁に付けられた突起は現実の用途からは考えられないものであること、
火焔土器は煮炊きという現実用途のために作られたものでは無いことは発掘状況からも知られている。発掘される土器の内、煮炊きのための実用土器は98%、火焔土器は僅かに2%だったという。


四つの突起、四という数、これはと言うことは縄文人により世界で初めて二至二分から四立が発明され、それに基づく暦 後にチャイナで八節の暦という名称が付けられた が実用されるようになったからで有ると思う。
春夏秋冬の季節が太陽によりもたらされること、それは暦により知ることが出来るようになったこと、それに従うことで生活が安定することが分ったから。縄文時代中期には二至二分を明確に示す遺跡があり、二至二分の暦は既に列島内では知られていた。
それこそは縄文人にとって聖なる数 四 半年四分割の暦 であったからだろうと考える。

突起をよく見ると4×2  8のようにも見える、それを表していたのかも 2022.06.14 補足しています

2023.0822 追加します  火焔土器は最後には次のような形に進化していた。

土器の実態は

残念ながら写真の撮り方が、突起に注目していないので、突起数が明確につかめないが、8、6突起のように見える。最後には4突起の土器から変化、生業が変わることで暦が8分暦と6の月の暦も利用することになり、生業に合わせ暦を変えざるを得なくなったのではないか。サケが捕れなくなってきたということで集団は崩壊した。のだろうか、と言う空想。

 

引用ーーーーーー

「なんだ,コレは!」 信濃川流域の火焔型土器と雪国の文化

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世界有数の雪国に生まれた火焔型土器
新潟県を南から北に流れる信濃川は、総延長367kmにおよぶ日本一の大河である。その広大な流域を選んだ1万3000年以上前の人々は、世界に先駆けて土器づくりを始めた。縄文時代の幕開けである。特に上流域では、この時期の遺跡が全国的に見ても多く密集している。豊かな森と水に恵まれ、多種多様な動植物の宝庫となった信濃川流域には、1万年ものあいだ途切れることなく、自然と共生する縄文人の営みが見られた。

信濃川流域の縄文人たちは、8000年前に大きな環境変化に見舞われた。日本海に対馬暖流が流れ込んだ影響で、雪が多く降るようになったのである。現在に続く世界有数の雪国は縄文時代に誕生した。豪雪は縄文人の生活を阻む半面、四季の瑞々しい美しさを生み、人々の感性や発想を豊かに育んだ。


国宝 笹山遺跡出土火焔型土器

そして、この雪国から縄文時代中期の5000年前に誕生したのが「火焔型土器」である。力強く燃える焔、また見る者によっては水の流れや波などをイメージさせる意匠、造形は圧倒的である。この造形の中で「突起」を持つということが縄文土器の特徴であり、中でも特に大仰な4つの突起を持つ火焔型土器は縄文土器を代表するものである。

大仰な突起は、煮炊きする具の出し入れにはかえって邪魔になる。つまり現実の用途にかなった器ではなく、縄文人の世界観から紡ぎだされた観念を表現した器なのである。

古今東西の焼物の中で突起を持つものは、火焔型土器に代表される日本の縄文土器だけであり、世界の中で際立った存在である。縄文文化は、日本文化の源流であり、その意味で火焔型土器は浮世絵や歌舞伎ととともに、日本文化そのものなのである。
++++そうなのか

この火焔型土器の美を最初に発見したのは、芸術家・岡本太郎であった。「縄文土器の荒々しい、不協和な形態、紋様に心構えなしにふれると、誰でもドギッとする。なかんずく爛熟した中期の土器の凄まじさは言語を絶するのである。」の書き出しで始まる『縄文土器論』を記した太郎は、火焔型土器を見て「なんだ、コレは!」と叫んだという。そして、「火焔土器の激しさ優美さ」の言葉も残している。太郎を驚愕させた火焔型土器はほぼ新潟県域にしかなく、その本場が信濃川流域である。それはまさにこの地が「火焔土器のクニ」であり、山、川、海を通じた周辺地域との交流点であったからである。

火焔型土器のふるさと新潟
火焔型土器を作った人々のムラは、信濃川流域の河岸段丘上にあり、その多くは湧水の近くに作られた。中央の広場を囲むように50軒ほどの竪穴住居が配置された直径100mほどの「環状集落」である。祭祀の場にもなった広場を中心に、馬蹄形に竪穴住居がめぐり、住居と広場の間には穴を掘って死者を葬った墓地が見つかっている。さらに木の実などを保存した貯蔵穴が並び、ムラのはずれには使われなくなった道具などを廃棄したゴミ捨て場、獣を追い込んで捕えた落とし穴もある。そのゾーニングは、整然として極めて計画的である。

縄文時代中期の遺跡が信濃川流域では400箇所以上も発見されており、この地のムラの規模と密集度が、日本有数であったことがわかる。また、これらの遺跡からは、火焔型土器と同時期の土偶やヒスイの大珠など豊富な種類の祭祀の道具が多量に出土しているが、全国的にはあまり多く出土せず、この流域の縄文文化の特徴となっている。現在でも信濃川流域には、清津峡や八木ヶ鼻、弥彦山・角田山、河岸段丘、潟湖など、縄文時代からの景観が手つかずのまま残されている。縄文人が暮らしたムラの跡に佇めば、5000年前と変わらぬ風景を追体験できる。

 

左:馬高遺跡復元竪穴住居/右:笹山じょうもん市で賑わう笹山遺跡

縄文時代から今に続く雪国文化
火焔型土器を生み出した縄文人の暮らしは、雪国の知恵の中に垣間見ることができる。雪国の民具がその一つ。江戸時代に鈴木牧之が『秋山記行』で紹介した「編衣」(アンギン)は、植物の繊維を用いて編んだ衣類として知られる。日本各地の縄文土器の底にアンギンの編み跡が確認されるなどしているものの、生活の中で近年まで使われ続けていたのは、秋山郷をはじめとする信濃川流域だけである。自然と共生し、雪国の自然資源を巧みに利用した知恵と技術が、この地では現在まで続いている。雪国の文化を何世代にもわたり後世に伝えているこの地域の人々は、まさに今も縄文文化の知恵の中で暮らしているのである。

また、信濃川とその支流は、縄文時代から現在にいたるまで、豊かな漁場となっている。ひろがる広葉樹林からの養分が信濃川に入り、魚類を育んでいるためである。信濃川水系で生まれた鮭は外洋を回遊し、ふるさとの川へ産卵に戻る。それは縄文時代から今も変わらない。本格的に雪が降り始める前に信濃川を遡上する鮭は、縄文人にとっても、重要な食料資源のひとつであった。火焔型土器には鮭を煮炊きしたと思われる焦げ跡が残っている。信濃川河口に近い新潟市的場遺跡出土品も、古代に鮭漁が盛んだったことを物語っており、古代以降、鮭は越後の国の税目に挙げられていた。信濃川流域の各地域には川漁に関わる民具が伝えられている。

自然資源を巧みに利用して暮らしてきた縄文人は、矢じりなど狩りの道具をつくる時などに、天然アスファルトを接着剤として用いる知恵も持っていた。天然アスファルトは日本海側に多く産出され、煮坪など信濃川沿いの丘陵で今でも湧出している。

 

左:「編衣」(アンギン)/右:煮坪(新津石油遺産)


火焔型土器のモニュメント(長岡市大手通)

信濃川流域には縄文時代に起源をもつ文化が息づいている。縄文の昔から人々を養ってきた山・川・海の幸、加工や保存の知恵。地方色豊かな郷土料理、酒や味噌・醤油など発酵食品の製造技術。あるいは、豪雪環境が生み出したアンギンや火焔型土器の技を継承するような、モノづくり、習俗など。そして雪国を象徴する火焔型土器は、モニュメントとしても信濃川流域に多数あり、現代の暮らしの中に生きている。
ーーーーーー
ヒナフキン
4.火焔型土器の4つの縁突起模様の解明
① 文献からは「龍神信仰」の開始時期を確定することはできませんが、私は縄文時代中期(5400~4400年前頃)に信濃川中流域を中心にした「火焔型土器」の縁の上の4つの紋様から、「龍神」信仰は東南アジアから伝来し、中国の夏王朝(紀元前4080~3610年前頃)に先立って存在した可能性が高いと考えます。

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② 火焔型土器の4つの突起については、「火焔」説、「鶏頭冠」説、「水面を跳ねる魚」説、「四本脚の動物」説が見られますが、私は「龍神」説を提案します。

③ まずこの「火焔型土器」のデザイン全体ですが、岡本太郎氏が喝破したように、本体はどうみても水流と渦の水紋であり、縁にそった三角形は波でしょう。めらめらと燃え上がる火焔なら炎の先は胴の部分から連続して上に尖りますから「火焔」説は成立しません。また、三角形の鋸歯紋様を「山波」とみる説がありますが、これも胴部分の模様と連続しません。

 縁の三角波からみて、4つの突起を「鶏頭冠」「四本脚の動物」と見る説は成立しません。

④ さらに4本足で縁に立っている姿からみて、「2本足の鶏」説、「水面を跳ねる魚」説は成立しません。

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⑤ 「4本足で水の上を歩く」「頭と背中にギザギザがある」「尻尾をあげている」というデザインからみて、縄文人はカブトトカゲと蛇から空想上の龍をデザインした可能性が高いと考えます。

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 ⑥ 前掲の夏王朝などの「龍」は開けた口と背中と頭の突起をシンボルとしてデザインしているのに対し、縄文土器の突起デザインは開けた口がない代わりに4本足があり、頭や背中に突起があり、ジャンプした時に尻尾をあげるトカゲをヒントにして造形したと考えられます。

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  地下と海・川を行き来し、天に登り、雨を降らせ、死者の霊(ひ)を天に運ぶ蛇神に重ねて「龍神」を考えた可能性が高いと考えます。

⑥ トカゲはヤモリ(家守)など、日本で害虫を食べる益獣とされていますが、東南アジアにおいてもインドネシアのコモドオオトカゲを除き、オオトカゲは人間に害を及ぼすことはなく、ネズミなどを駆除する益獣とされ、西洋のドラゴンとは違い、天と地、川や海を行き来し、雨を降らせる神として崇拝されています。

⑦ 縄文時代中期(5400~4400年前頃)の「龍紋付土器」は、中国・夏王朝(4080~3610年前頃)の「龍紋付玉璋(ぎょくしょう)」より古く、倭音倭語の「たつ」や「わに」「ワニ(鰐)」と「サメ(鮫)」の漢字の混同からみても、インドネシアなどのカブトトカゲとワニの伝承から独自に「龍神」を考え、霊(ひ)を天に運ぶ天神の神使、雨を降らせる水神として信仰し、祖先霊と共食するお粥や煮炊き料理から湯気を天に昇らせる土器鍋のデザインとした可能性が高いと考えます。

 日本列島には中国大陸・朝鮮半島の海人族が絶えず嵐によって漂着するともに、戦に追われた人々が逃げてきていた可能性が高く、毎年5人とすると縄文1万年の間には5万人になります。その案内で日本列島の海人族たちは中国・朝鮮沿岸と古くから交易していた可能性が高く、漢字など中国文明の影響を大きく受けていますが、より直接的には南インド・ミャンマーあたりの「主語-目的語-動詞」部族が龍神信仰を持って渡来し、土器鍋食をはじめとした縄文1万年の独自の文明・文化を育んだ可能性が高いことがこの「龍紋土器」からうかがわれます。

⑧ 現代考古学が明らかとした土器鍋と陸稲・水稲栽培、鉄器稲作の開始時期からみて、バラバラの分類基準による「石器―縄文式土器―弥生式土器―古墳」時代区分(イシ・ドキ・ドキ・バカ区分)やその焼き直しの「石器―縄文土器―稲作―前方後円墳」の時代区分、「弥生人による縄文人征服説」などが非科学的であることは明らかであり、「火焔型土器」についてもその名称を「龍紋土器」に変え、新たな食文化と信仰の誕生として縄文時代(土器時代)を考え、「石器―土器―鉄器」時代区分による内発的発展史観に転換を図るべきと考えます。

⑨ 縄文式土器は単なる水容器・貯蔵容器とみるべきではなく、米や粟などの穀物食への転換や料理方法を革命的に変え、霊(ひ)信仰を天神信仰と結びつけた大きな社会的・文化的・宗教的な転換を示しており、1つの文明の誕生と見るべきと考えます。

 その次の大きな転換はスサノオ・大国主一族による鉄器を利用した沖積平野での水利水田稲作の開始による建国であり、弥生式土器は土器の単なる小改良にすぎません。イモや豆、雑穀栽培と平行して行われた天水による陸稲栽培(赤米など)や水辺水稲栽培の縄文農耕からの、鉄先鋤による沖積平野での大規模な水利水田稲作開始こそ百余国の統一を生み出した大きな時代転換と考えます。

⑩ 世界標準となった「Emoji(絵文字)」発祥の国として、「龍紋文様」の解明に続いて、象形文字の前段階の「縄文絵文字」全体の解明が求められます。

 「縄文絵文字文化・絵物語文化」があったからこそ、わが国では独自の漢字用法「倭語・倭文字」が発達し、「倭」を「人+禾(稲)+女」(女が稲を人に奉げる)、「委奴」を「禾(稲)+女+女+又」(女が稲を女性器(女の又)に奉げる)と解釈し、自ら「倭国」「委奴国」名を国書(上表文)に記したと私は考えており、このような倭流漢字用法による古代史の解明が求められます。


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