諸磯式土器の時期に土器の口縁にイノシシとヘビの像が付けられていた
これまでは狩猟で食料となるイノシシだったが
農耕開始で害獣となるイノシシ
ヘビは恐れの対象だったが
畑や収穫した穀物保存の害獣となるねずみを取る益虫となるヘビ
しかしイノシシとヘビの把手は次に伝わらなかったという
勝坂式土器の時代には、土器の模様そのものが、これまでの縄目の模様から大変革を起こし、縄目を排して、浮彫のような造形の土器となる。
中期以降のヘビの造形は、外来の思想と技術が渡来して変化したのだろうか
土偶のヘビの思想
髪型なのでは無いのか
年表
図はお借りしました
引用しますーーーーーーーーーーーーーー
そして、びっくりしたのは長野県諏訪郡富士見町藤内遺跡から出土した縄文中期の「蛇を戴く土偶」でした。
「藤森栄一は『縄文の八ヶ岳』という本の中で、縄文中期一番シンボル的なものはヘビではないかと言っています。」(菅田正昭『縄文時代の信仰について・1』平成16年1月 講演録 より)
そこで、縄文土器の変遷を見ると、縄文時代早期(1万1500年前 - 7000年前)から前期(7000年前 - 5500年前)までのものは表面の装飾があまり見られない実用的な深鉢や円筒土器が多いようですが、中期(5500年前 - 4400年前)ころの土器は表面に棒状の粘土を張り付けた縄目文様が付けられ、実用性もあるのかも知れませんが、有名な火焔型のような装飾性・芸術性に富む土器が見られるようになります。
このように縄文土器は前期から中期にかけて大きな変化が起こっていますが、土器の表面の模様にヘビを象ったものが見られるようになります。
蛇信仰の人々が列島にやって来て、その人々の文化が拡がったのではないかと考えられます。
「日本列島に集まった人々とは?」で説明しましたが、第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)で列島に固有の縄文人(D1a2=旧D1b=D-M55)が生活していました。しかし縄文時代よりも少し前にすでに列島に到着して最初の新石器文化を担ったと考えられる原始縄文人(C1a1=C-M8)の存在を考えていますので、縄文中期になってこれらの人々の中で自然発生的に蛇信仰が起こったのでしょうか?もしもそうだとすると、その原因はよくわかりません。
縄文時代前期中頃(約5900年前)から中期末葉(4200年前)の大規模集落跡である青森市の三内丸山遺跡は、この遼河人(ハプログループNは現代日本人男性の0.8%)が作ったという説がありますので、もしもそうであるなら、すでに縄文中期前葉(5500年前)の三内丸山遺跡に遼河人が来ていて、先住の縄文人と一緒に生活して先進の紅山文化を伝えたと考えられます。そうなると斉藤成也教授が『日本人の源流――核DNA解析でたどる』(河出書房新社)で主張する第二段階の時期を縄文後期から縄文中期に変更する必要がありますので、もっと検証が必要ですね(´ω`*)
ということで、縄文中期の蛇信仰の発祥は今のところは自然発生説か遼河人による渡来説ということです。どなたか詳しいことをご存知であればお教えください(/・ω・)/
縄文人が蛇信仰を持つようになった理由は以下の二点だと吉野裕子氏が「蛇」(講談社学術文庫1999, p.55)の中で述べておられます。
(1)まず、ヘビの形態が何よりも男根を連想させること
(2)毒蛇・蝮(まむし)などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃の下に仆(たおす)強さ
「縄文土器の蛇がつねに荒々しく躍動し、生命力そのものと見えるのは、蛇によって象徴されるものが、縄文人の性に対する情念そのものだからであろう。
この情念はさらに進んで、「縄文土偶の女性神の頭部にマムシそのものを戴かせ、又、有頭(亀頭)石棒に代表される石製蛇体神として表現される(宮坂光昭『蛇体と石棒の信仰』)に至るのである。」とあります。
また、蛇には他の生物に見られない特徴があります。「蛇の目にはマブタがないために、その目は常時、開き放しで、まばたくということがない。・・・蛇の目に出合うと、人間はじっと蛇から睨みつけられているように思う。その結果、蛇の目は特に「光るもの」として受け取られ、古代日本人の感覚に対して、蛇の目は非常に訴えるものがあったのである。」(吉野上掲書 p.120)。とありますから、太陽と結びつくようです。太陽の光を鏡(かがみ)が受けると蛇の目と同じ効果、あるいはそれ以上の効果があります。中国伝来の青銅鏡(せいどうきょう)を「カガミ」と訓まれた理由は、蛇の目(カカメ)から転じたもので、蛇信仰からきたと説明されています(吉野上掲書 p.124)。
そして人々が目を見張るその形状・毒の強さ・生命力旺盛さの相乗効果から蛇を祖先神と考えるようになったようです。日本人の新しい命は、他界である「荒神(蛇)の森」から産まれ、子供から成人に成長して、最後は死ぬと元の「荒神の森」に戻るという考え方だと吉野裕子氏が祖神祭を説明しています(「日本人の生死観」河出文庫 2015, p.124)。祖先神を祀る行為は、漢字「祀」が示すように高坏(示)の上に蛇(巳)を置く、つまり三宝の上に鏡餅をお供えするのはとぐろを巻いた蛇のことだったのです。
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縄文時代にイノシシの造形が始まるのは縄文前期後半の諸磯b式土器の時期なのです。図17の1がその例のひとつです。これは山梨県天神遺跡から出土した深鉢形土器の口縁部に付けられたイノシシ装飾です。よく獣面把手とか獣面装飾とかいわれますが、イノシシの顔が表現されたものです。特に群馬辺りの遺跡にいきますとイノシシがもっとリアルについたのがいっぱい出てきます。縄文時代人がイノシシ装飾を最初に土器に付けたのが縄文前期なのです。その前期の諸磯式という時期はどういう時期かというと、この時期になって集落が非常に大きくなってきます。と同時にその周りに点々と小さなムラがみられる。例えば天神遺跡の場合は大規模な環状集落で四〇件くらいの住居があるのですが、その周りには一〇軒くらいの中規模なムラがあったり、一軒しかない小さなムラがあったり、また土器だけしか出ないような遺跡もある。つまり拠点的な集落を中心に、いくつかのムラがその周辺に点在するような土地利用が行なわれているのが、この前期後半という時期なのです。このことは山麓の広い範囲に人の行動が及んで行ったことを意味するのではないか。そうするとイノシシとも出会う。出会いがあるということはイノシシにとっても被害があるし、人間にとっても被害がある。お互いにいろんな軋轢がある。そういうところでイノシシというものが縄文人の意識の中に植え付けられて、悪者になったり神様になったりするようになる。その意識の一つが土器の装飾となって造形されたのではないかと思っています。後で述べますが、私はイノシシの多産や力強さといった特徴が縄文人の祈りの対象となっていったものと考えているのです。例えば図17の3や5~7、これらは縄文時代の中期のイノシシ造形です。先ほどの天神遺跡のような前期後半のイノシシは短い間しか作られず、その後すたれてしまいます。そして中期初頭になってまた出現するようになって、中頃になりますとまた盛んになる。特に3は大変リアルで立体的なイノシシの顔が土器に付けられている。山梨県の塩山市安道寺遺跡(註10)の出土品です。5は上の平遺跡の土器ですが、口縁の上に蛇とイノシシが向かい合っている造形です。土器の奥に渦巻きながら立ち上がっているのがヘビ、手前にあるカエルが潰れたようなもの、実はこれがイノシシなのです。本当は側面からみるとよく分かるのですが、深鉢形土器の縁につく二つの装飾の片方がヘビ、片方がイノシシであり、それが相対峙して睨み合っているという造形なのです。このようなモチーフも縄文中期の特徴です。
(図17)イノシシ造形
ヘビとイノシシとはともに縄文人が大切にした造形であり、そこには縄文神話というか物語と言うか、大変重要な問題が隠されているようなのです。機会があればこの辺の話をしてみたいなあと思いますが、この辺は田中基さんがご専門ですね。なお、蛇とイノシシの関係については民俗例からも紹介されている事例があります。例えば伊那谷でのことが松山義雄さんによって法政大学出版局から出版されています。伊那谷の猟師さんの話ですが、イノシシが増えてくるとマムシが減るそうですね。イノシシは雑食性ですが、特にヘビ、それもマムシが大好物だそうです。マムシと出会うとイノシシが鼻でブーッと息をかける。するとマムシはビックリして止まってしまう。そこをバーンと踏みつけて喰っちゃう。そのよう自然界のことが書かれているのです。また、猟師さんがイノシシの牙を腰に付けて行くとマムシに襲われないというような伝承もあるくらい、イノシシはマムシの天敵だとのことです。
上の平遺跡の土器に対峙しているのは、別に天敵同士ということよりも、縄文人が抱いたヘビとイノシシというイメージの表現かと考えております。例えば山梨県立考古博物館の館長に今年から就任しました渡辺誠さん(註11)は、イノシシというのは女性の原理に基づく多産を表しヘビは男性を表すと指摘しています。ヘビとイノシシつまり男性と女性が向き合う、つまり両者の和合によってその土器の中の生命が育っていくのだという考え方でもあります。同じ考古博物館の小野正文学芸課長(註12)は、イノシシとヘビというのは食べ物の起源及び種の起源に関する神様でして、それらの2つの神様が土器に宿ることによって豊富な食べ物が得られるというようにとらえています。
次に図17の6と7です。これは中期独特の釣手土器という縄文人のランプですが、これらにもイノシシやヘビが付きます。6は甲州市塩山にある北原遺跡の釣手土器ですが、アーチの上にイノシシが三匹おります。左側の図が正面からみたものでブタ鼻が三つ揃っています。右側が側面からみた図でして、可愛らしい感じのイノシシがしっぽをぴょこんと立てた造形です。7の西桂町宮の前遺跡例では、イノシシは相当に象徴化されてしまっていて、正面から見ると大きな円で表現されています。でもアーチの中央高所に大きな親イノシシ、その両側に二匹ずつ計四匹に子イノシシが並んでいる様子かと思われます。
図の4は晩期のイノシシ土製品、つまり土で作ったイノシシの「人形」ということになります。このようなイノシシをかたどった土製品が、後期以降晩期までつくられるようになります。地域的には北海道南部から中国地方までみられますが、やはり東北や関東に多いようです。もっとも中期前半という早い時期にも中部から関東ではつくられています。イノシシへの祈りが、このような製品を生み出したのでしょう。
ということで、縄文時代の前期以降晩期までイノシシの造形は縄文人の得意とする、あるいは必要とするものであったのかなという感じがします。では弥生時代にはイノシシはどのようなとらえかたがされていたのでしょうか。この時代、銅鐸には犬に追われたイノシシとか、シカとともに描かれることはありますが、土器にイノシシが付くとか土製品が多く見られるというようなことはあまりないようです。しかしイノシシ類とされる動物の下顎の骨が特徴的な出土状態を示す事例が知られています。佐賀県唐津の菜畑遺跡、これはイノシシというか、西本豊弘先生などは形質的にはブタとみられていることからイノシシ類と表現されているものですが、その下顎のちょうど頤のところに三㎝から四㎝の穴を開けてありましてそれに棒が通っているものです。棒によって何かに懸け下げられていたものとみられています。岡山県南方済生会遺跡の下顎配列もイノシシ類の下顎骨が一二個並べられ、そして真ん中辺りにシカの頭が置いてあります。下顎骨にはやはり穴が開けられている。ただこれは棒が通ってないことから、置いた際に棒をそうっと抜いたんじゃないかなどとも言われております。このような弥生の例は春成秀爾先生とか西本先生は、中国大陸から伝わってきた祭祀の一つであって、東アジア全体に共通する文化の流れだとおっしゃっています。特に春成先生は、中国や台湾あるいは東南アジアに行きますと家にかけていると。要するにお守りです。厄除け、悪魔よけという意味からだとおっしゃっているのですが、西本先生は中国から伝わってきた農耕文化の祭りに伴うものだと言われております。縄文時代とは異なった意味があるようでして、その辺については今後の課題だと思いますが、弥生時代にもこういうふうなイノシシあるいはブタを使った祭りの痕跡が出てくるわけです。
それで実は私も、縄文や弥生のイノシシの祭りということに大変興味を持っていたところ、宮崎県西都市の銀鏡(しろみ)地区というところでイノシシに関わった神楽があるということでおととしのことですが、いろいろと見学させていただきました。国指定の民俗文化財にもなっている、大変魅力ある祭りです。機会があったらどうぞ行ってみてください。宮崎空港から二時間半くらいバスに乗るのですけども、西都市に入ってさらに一時間ちょっとバスに揺られていくことになります。神楽は一二月一四日の夕方七時くらいから翌一五日のお昼くらいまで、特に明け方までぶっ通しで三三番が演じられるのです。ずーっとえんえんと。そのお神楽を見守るところに天照大神が祀られているのですが、その前にイノシシのオニエ、つまりご供物があるのです。その年のお祭りまでに獲れたイノシシをここに供えるのですが、図18のようにこの年は七頭ほどがありました。胴体から切り離された頭なのですが、切られた角度によって高くそびえていたり、低かったりするのです。このようなイノシシの頭が並べられたその前でお神楽が奉納されるのです。
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かし、第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)の時期より少し前に遼河文明のひとつである紅山文化(こうさんぶんか、約6700年前-4900年頃)が見られます。紅山文化の人々は、ブタやヒツジを飼い農耕を行っていました。また、野生動物を狩ったり野草を採ったりする狩猟・採集の生活も行っていました。狩猟、採集、漁撈などありとあらゆる生業に依存して生活する狩猟採集民である縄文人とも、水田稲作や畑作を「選択」して「主な生業」とする、いわゆる弥生時代の水田稲作民である農耕民とも異なる園耕民と言われる人々だったようです。つまり、農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている紅山文化の人々が園耕民に当たるようです。
従来は過去100万年にわたって砂漠であったと考えられていた同地帯は12,000年前頃から4000年前頃までは豊かな水資源に恵まれており、深い湖沼群や森林が存在したが、約4,200年前頃から始まった気候変動により砂漠化した[3]。このために約4,000年前頃から紅山文化の人々が南方へ移住し、後の中国文化へと発達した可能性が指摘されている[4]。(wiki「遼河文明」より)とあります。
紅山文化の墳墓からは、ヒスイなどの石を彫って動物などの形にした装飾品が多く出土している。ブタ、トラ、鳥のほか、龍を刻んだものも見つかっている。工芸の水準は高く、紅山文化の大きな特徴となっている。「猪竜/ 玉猪竜(zh?long)」(燭陰(Zhulong)とは別)と呼ばれる紅山文化の玉竜(竜を彫った玉)の造形は単純であり、竜が円形になっているものが多いが、後期になると盤竜・紋竜などの区別がはっきりとしてくる。考古学者の中には、後に中原で始まった竜への崇拝は、紅山文化にその源を発するという見方もある。(wiki「紅山文化」より)とあり、「牛河梁遺跡など、紅山文化の祭祀遺跡にみられる円形や方形は、天円地方の宇宙観がすでに存在していたことを示唆している[7]。」とありますので、かなり進んだ精神文化を持っていたようです。
縄文後期に列島では上述の第二段階の漁労・園耕民が見られるようになりますので、紅山文化の人々(遼河人)の一部が列島にやって来て、原始縄文人や縄文人と交わって蛇信仰を拡げたのでしょうか?しかし列島中部では縄文中期に爆発的に起こっていますので、それはないと思います。
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