撚糸文の施された土器、撚糸文模様を付けたのは、土器そのものの機能性を上げるためのものとは思えない。
土器にそのような模様を付けるためを目的にして、特別にそのような細い糸と糸巻きを作ったものとは考えにくい。
この時期は生業開発の工夫が様々に継続されていたものだろう。
そして釣り針や釣り糸が完成して、魚釣り漁が開始した時期に当たるようだ
撚糸文とは、テグスが開発され釣り糸での漁業開始を示すものでは無いかと思う
釣り糸、テグスは当時のハイテク製品、釣りによる生業はハイテク技術
その生業は先端産業
魚を釣り上げるという技術は、集落の人々を驚かせ、大いに喜ばせたものと考える。
新しい生業が開発された瞬間であり、定住がそれにより更に安定して、
それは供献土器に作り祝い記録して、祈る対象としていたのでは無いか。
図はお借りしました
引用ーーーーーーーーーーーーーー
縄文早期の後半、撚り糸を細い棒に巻き、土器に押し付けた絡条体圧痕文、その棒を転がした撚糸文、三つ編みなどの組紐を押し付けた組紐圧痕文、縄を転がした縄文など、様々な縄で文様を付けた土器群が、北海道の広い範囲に分布することになる。
これらの土器群は、北海道全体に広がりを見せた最初の土器群である。
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撚糸文(読み)よりいともん
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「撚糸文」の解説
撚糸文
よりいともん
縄文土器にみられる文様の一種。撚り紐を丸棒の軸に巻きつけた原体 (絡条体) を回転して施した文様。原体を回転しないで,そのまま土器面に押圧した文様を絡条体圧痕文と呼ぶ。なお関東地方の早期前半には,土器面を撚糸文あるいは縄文のみで飾る様式があり,撚糸文系土器と名づけられている。
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無文土器は青森県外ヶ浜町の大平山元I遺跡で、16,500年前の文様のない土器のかけらが発掘され、現段階で日本最古の土器といわれている。
曽根遺跡の無文土器には器面をきれいに撫でて、なめらかに仕上げられているものが多い。指で撫でた痕を遺している土器片もあった。無文土器は上諏訪駅前のデパート周辺の片羽町遺跡(かたはちょうー)でも見られ、草創期から不可欠な土器であったようだ。
神奈川県大和市深見諏訪山遺跡では、縄文草創期層から出土したのが、無文土器・爪形文土器・撚糸圧痕文土器であった。
無文であれば、日常消耗される土器である事が殆どで、草創期のみならず、縄文後期から晩期にあたる長野県篠ノ井信更町(しんこうまち)の大清水遺跡で大量の無文土器が発見されている。
信更町には聖川が流れ、遺跡は豊富な湧水帯の湿原の中にある。器形と大きさにおいて斉一性があり、大きさは口径が25cm~40cmのものが中心である。内面は丁寧に仕上げられているが、実用重視で短時間に粗製仕上げされたようで、器面には継ぎ目が残り粗略であった。
縄文時代を通して各地方で製作量と形体は異なるが、深鉢の煮沸機能を専らにする無文の土器の方が大量に生産されていた。
多量の木の実を短時間で調理する無文の粗製土器が、生産性と機能を重視した土器として主流となっていた。
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??縄文時代早期(1万年前~7千年前)
縄文文化が定着する時代で伊豆諸島を一つの起点とするかなり広範囲な黒曜石などの海洋交易や漁撈の跡が認められる。早期の出土品を列挙する。
・浦入遺跡(舞鶴市)から桜皮巻き弓。・垣ノ島遺跡(函館市)から幼子の足形や手形をつけて焼いた足形付土版や世界最古級の漆工芸品。雷下遺跡(市川市)から日本最古の丸木舟、・夏島貝塚(横須賀市、最古級の貝塚)から撚糸文系土器や貝殻条痕文系土器が出土、沖合への漁撈活動を示す。
++++そうなのか
・栃原岩陰遺跡(北相木村)から人骨、ニホンオオカミの骨、精巧な骨製の釣針や縫い針。
・横尾貝塚(大分市)から姫島産黒曜石の大型石核や剥片、石材など、流通の拠点。
・上野原遺跡(霧島市、最古級の大規模な定住集落跡)から、貝文土器出土(貝文文化)。
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漁撈(ぎょろう)の道具 気候の温暖化に伴う海水面の上昇で、縄文時代から漁撈(ぎょろう)活動が本格的に始まります。各地の貝塚からは骨角製の銛(もり)や釣り針が多数発見されています。礫石錘(れきせきすい)の一部は漁網の錘として、軽石を整形して穴をあけたものは浮子 (うき)としての使用が考えられます。
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横須賀市夏島にある縄文時代早期の夏島貝塚は、日本列島の中でも最も古い(約9500年前)貝塚で、砂泥の干潟に生息するマガキとハイガイを主とした第1海層からは、魚類ではクロダイが最も多く、次いでマゴチ・スズキ・ハモが多く出土している。漁撈具としては骨類の長さ2.5cmの釣針とその未製品が出土している。すでにこの時期に釣針を使った漁撈技術が出来ていたということである。
夏島貝塚でも第一貝層より少し新しい第二貝層は、砂地の海岸に生息するハマグリやアサリを主としたものになり、海の環境が変化していったことが窺える。
釣針も鹿角製で、釣糸掛用の突起のあるものや大型の釣針が出現するなど、漁撈の多様化が認められる。
横須賀市吉井にある吉井貝塚は、マガキやハイガイを主食とする早期末の貝層と、岩礁海岸に生息するスガイやイシダタミを主とする中期後半の貝層がある。
早期末の貝層は厚さが2mもあり、出土した魚骨の種類・量とも豊富で、なかでもマダイが最も多く魚全体の52%を占め、次いでボラ・クロダイ・ブリ・スズキと続く。マダイの体調は35~50cmのものが75%を占め、他の魚も大き目のものが多い。ところがこれらの魚は、時期が新しくなるにしたがって小型化する。マダイで中期の貝層から出土したものは、30~40cmのものが中心となる。
漁撈具も、数多く出土している。最も多いのが鹿の角や四肢骨などで作ったヤス先と釣針である。釣針は大型と小型のものがあり、大型のものは軸が太く長さが6cmにもなる。体長が60cmを超えるブリやマダイが多く出土していることから当然ともいえる。
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縄文時代早期(約1万年~6,000年前)前半は、有楽町海進によって海域が拡大していく時期にあたり、貝塚の形成が始まる。
この地域最古といわれる夏島貝塚(神奈川県横須賀市)は干潟に生息するマガキとハイガイを主体とし、クロダイ、マゴチ、スズキ、ハモなどの骨が出土した。骨製釣針も出土しており、既にこの時期に高度な漁撈技術があったことが窺える。
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早期前半の、南関東や南九州の遺跡では、
植物質食料調理器具である、石皿、磨石、敲石が出土し、
加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加しました。
堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための、石皿や磨製の石等も使用されていました。
組み合わせ式釣り針。
網用の土錘・石錘。ヤス、銛。
縄文・撚糸文の尖底土器が作られました。
圧煮炊き用の土器の出現が、旧石器時代の生活を変えました。
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九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海 を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州(北松浦半島)型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。
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早期前半の、南関東や南九州の遺跡では、
植物質食料調理器具である、石皿、磨石、敲石が出土し、
加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加しました。
堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための、石皿や磨製の石等も使用されていました。
組み合わせ式釣り針。
網用の土錘・石錘。ヤス、銛。
縄文・撚糸文の尖底土器が作られました。
圧煮炊き用の土器の出現が、旧石器時代の生活を変えました。
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早期
約1万年前-6千年前[注 59]
気候
環境 日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートルほど低かった。その後、海水面の高さが戻る。鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。
生活
住居 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。
狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
石器 網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。
土器 煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
遺跡 貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝の種別はヤマトシジミが主体。狩猟とともに漁労が活発化した。
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縄文人といえば採取狩猟民としてイメージされる事が多いでしょうが、その本流は漁労民、海洋民にあるのではないかと思っています。
というのも他地域と異なる最大の縄文人の特性は非常に広域な黒曜石、ヒスイ等の贈与ネットワークの存在と既に縄文時代に拡大した共通言語=日本語の存在です。
縄文早期には釣針がつかわれ、網の技術も中期には開発されています。
また東日本で見られたサケマス漁は縄文人の複数の共同体を巻き込んだ組織性、共同性、その後の祭りの文化を創出しました。大量の貝塚、縄文中期から始まる製塩技術など海と共に縄文文化は存在してきたのです。
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