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帰って来たルイス

1999-10-31 20:37:33 | 南Y・坪洲・長洲






「あちいね、ルイス」

そう声をかけても、ルイスは、じっとして動かなかった。

薄扶林の外れにある犬検疫房から解放され、道端でタクシーを待っている間も、ルイスはずっと、うずくまるようにして体を縮めていた。さっき、迎えに来た私が、ルイスが入れられていた檻の中に入って来たのに気が付いた時は、夢中でしがみついて来たんだけど。

この通りは、元々そうなのか、道路工事のせいなのか、片方向ずつ車両を通行させているようで、中々中環方面に向かうタクシーは通らない。カンカン照りの真昼の太陽の下、ルイスと私は黙って、空のタクシーが通るのを待っていた。

ルイスは、可哀相な犬だ。


* * *



ルイスがうちに来たのは、97年10月のことだ。私が世界の誰よりも何よりも好きだった、黒くてでっかい犬のグレが死んだ5日後だった。

長洲に住むジョン・フォックスの友達が、捨てられて処分されそうになっている犬がいるんだけど、と、ジョン・フォックスに相談してきたのだ。ジョン・フォックスは、絶対に嫌だ嫌だと狂ったように泣き喚く私の声には耳を貸さず、一人で長洲までルイスを迎えに行って、連れて帰って来た。

小さくて弱々しいちび犬ルイスが初めてうちで見たものは、グレが死んでから、ずっと部屋にうずくまり、言葉にならない唸り声をあげる、獣のような女だった。ルイスは弱々しくはあったが、獣のような女にはすぐに敵意を持ったようで、小さな体からは想像もつかないほど大きな声で吠え掛かった。獣のような女は、また火がついたように泣き叫んだ。

うちに来たルイスと私は、最初から少しも打ち解けようとしなかった。何故なら私たちは敵同士だったからだ。ルイスは私を見る度に吠え掛かったし、私もルイスを見る度に「出て行け」と叫んだ。私が人間の言葉を喋るのは、その時だけだった。ジョン・フォックスに、言葉の意味を理解させなくてはいけなかったからだ。でも、犬も、ジョン・フォックスも、誰も、少しも私の言うことを聞いてはくれなかった。

部屋を一歩でも出ると、世界は嫌なことでいっぱいだったので、私はできるだけ部屋から出ないようにして、一日中グレにメールを書いていた。どんなにどんなにメールを書いてもグレは戻って来なかったけれど、書いている時は、少しだけ楽になったような気がした。そうして自分だけ楽になるのが居たたまれなくなると、またグレにごめん、ごめんとメールを書いた。そうやって日々は過ぎていった。

私を見る度に吠え掛かる憎らしい小さな犬の事は、相変わらず少しも好きになれなかったが、一つだけ気になる事があった。それは「ダニ」だ。

ジョン・フォックスは、大型犬のグレを貰って来た時も、例によってさっぱり面倒を見なかったので、私が南Y島に来てグレと暮らし始めた頃にはもう何もかも手遅れで、グレにはいつもいっぱい、ダニがたかっていた。取っても取っても、洗っても洗っても、グレについたダニは決して尽きる事がなく、グレが死んだ後ですら、無数のダニだけは、いつまでも生き残っていた。そして、何も面倒を見ない男と、獣のように唸るだけの女しかいない家に連れて来られたルイスに、そのダニがたかり出したのだ。

ある日の朝、憎らしい小さな犬を見ると、顔の周りにいくつもダニがくっついているのに気が付いた。私は、ダニは大嫌いだったが、犬のダニ取りは、何故だか心が安らぎ無心になれるためとても好きだったので、無意識のうちに、小さなルイスをつかまえるとおもむろにダニを取り始めた。ルイスはまだ小さくて、家に来てからもそれほど経っていなかったので、しばらくすると、一応ダニは取り尽くされたかのように見えた。

ダニ取りをしているうちに少し気分が良くなったのか、私は何も考えないまま、続けてルイスを庭で洗う事に決めた。ルイスは抵抗して逃げようとしたが、私にとって、ダニ取りだとか、犬をシャンプーする事だとかいうのは、体に染み付いた自然な行為だったので、お互い嫌い合っている相手同士であるにしては案外簡単に、ちょっと押さえていただけで手際良くルイスのシャンプーを済ます事が出来た。

洗われたルイスは、嫌いな女に嫌な事をされた事が我慢ならない、と言う風でもなく、それよりは単に、いきなりびしょびしょにされるという生まれて初めての経験に驚いたためか、私が家の中に入れ、安心して手を離した途端一目散に逃げ出し、そのまま勢いでまた外に出てしまった。

慌てて追いかけると、まだ表には慣れていない、白と黒のぶち模様の小さなルイスは、逃げ回っても緑の庭の中でくっきりと浮かび上がり、ちょっと逃げただけで難なく捕まった。また部屋に入れるためにルイスを抱き上げて振り返ると、追いかけて来たジョン・フォックスがすぐ後ろに立っていて、微かに涙ぐみながら、こう言った。

「You're smiling...」

私はその時、グレが死んでから、初めて笑ったのだ。慌てて逃げたため、洗ったばかりの顔がすっかり泥だらけになってしまった、小さな、頼りなげな、可愛らしいルイスを見て。

そうして、ルイスと私はようやく、仲良くなった。





ルイスはそれからずっとずっと、うちで暮らしているし、私たちは二度と憎み合う事はなかった。

ところが今年の6月の初め、ルイスに大変な事が起きた。大嘘付きの、ド腐れゲス女のせいで、何一つしていないにも関わらず、その女を噛んだ事にされてしまい、1週間、薄扶林にある、犬用の独房に閉じ込められてしまったのだ。

ルイスはラマの犬だから、車も知らないし、街も知らない。連れて行くためフェリーに乗せただけでぶるぶる震えていたし、漁農処の車に乗せられた時は、恐怖のあまりちびってしまった。ルイスは、怖がりなのだ。

毎日毎日気温がバカみたいに上がってる時、あんな、みすぼらしい檻に入れられ、一人置き去りにされて、ルイスは一体どう思っただろう。

でも、どうする事も出来なかった。どんなに卑怯な嘘でも、警察がそれをいったん受理してしまったら、犬は否応無く連れていかれるのだ。そして、万が一、人に感染するような病気が発見されたら、二度と生きて帰って来ることはない。

ルイスが閉じ込められている間の1週間、また私は狂ったように泣き叫びながらゲス女に与える制裁を次々と考え、そして聞こえないのがわかっていてもルイスを呼び続けていたが、その時もジョン・フォックスは、私に、諦めるように言うか、黙れと怒鳴る以外には、何一つしなかった。

毎日わめき散らしていい加減疲れ果てた私は、ルイスを迎えに行く前の晩になってジョン・フォックスが「明日の朝は仕事の締切があってどうしても行けないから、代わりに行ってくれ」と言い出した時も、そんなに忙しいのならどうして、今テレビを見ながら酒を飲んでいるんだろう、とも、今のうちに仕事をやれば、明日の朝には終わっているんじゃないだろうか、とも言わず、登録上の飼い主以外の人間が引き取りに行く時に必要なサインをさせるため、黙って書類を差し出しただけだった。


* * *



ようやく通りかかったタクシーを止めると、私はルイスと一緒に乗り込んだ。私は広東語が出来ないので、もし運転手が文句を言ったらどうしよう、と心配になったが、気のよさそうな運転手は、犬がいると知っても特に神経質に振り返って確かめるような事もせず、ちゃんと離島行きフェリー乗り場まで私たちを連れて行ってくれた。ルイスは乗り物が嫌いなので可哀相だったが、気のいい運転手のタクシーの座席を毛だらけにするわけにもいかず、下に降ろして、車の振動で怯えて急に動かないように、なでながら、ぎゅっと押さえていた。

中環の海側に並んだ離島行きフェリー乗り場の前まで来て、外に出て海風にあたると、ようやく少しホッとした。これで家に帰れる。離島住民は、ここまで来ると、家に帰る事を実感するのだ。

フェリーはちょうど出る間際だったので、急いで犬用の切符を買って、ゲートを通る時だけ、また可哀相だったが規則に従いルイスにマズルをはめた。フェリーに乗りこみ、後部のオープンエアの部分に並んでいるベンチの一つに座った。ルイスはまた不安そうに動き回ろうとし、床の上でもちっともじっとしていられなかったので、もう昔のように小さくも軽くもなかったけれど、よっこらしょっと抱え上げ、膝の上でずっと、だっこしていた。

ルイスはまだぐったりとして、時々不安そうにもぞもぞ体を動かすだけだ。ルイスに会ったらすぐにあげようと思って家から持って来たボニオ(犬のビスケット)も、さっきから何度あげても、少し齧っただけで、食べたくないようだった。私は、ルイスをそっと押さえながら、本も読まず、新聞も読まず、一緒に黙ってじっとしていた。

フェリーが出発する中環は、香港島の北側にあり、南Y島行きの船は島の西岸沿いに、南に向かってぐるっと回って行く。左手に島の北西部から西部にかけて密集している居住ビルがしばらく続いた後、やがて建物はまばらになり、緑が多くなってくる。もう少しすれば香港島を抜け、あとは、もうすぐそこに見えている南Y島に向かって進むだけだ。夏の陽射しが反射してキラキラ光る海を突っ切って、船は進んで行く。

そしてようやく、南Y島の北端に近付いた。岸が間近に見える。ここからまたちょっと、島の輪郭に沿って進み、船が着く榕樹灣に向かうのだ。あと5分、そう思った、その時。

それまでぐったりと凭れかかっていたルイスが、急に顔を上げ、もどかしそうに、しきりと私の膝から降りようとした。何だろうと思いながらも、押さえていた手を離すと、自分から床に降りたルイスは、前足を揃えて椅子にかけながら後足で立ち上がり、じっと左側を見ているのだ。私はハッとした。

ルイスは今初めて、自分がラマに帰って来たのがわかったんだ...

ルイスは、ルイスは車も何もないラマの犬だから、私が迎えに来ても、いろんな乗り物に乗せられても、自分がどこに連れて行かれるのかわからなかったんだ。

でも、ラマに近付いて、ラマの匂いがして、ルイスはやっと、おうちに帰って来たのがわかったんだね。

船が、すぐそこに湾沿いの道が見えるほど島の近くを走って行く間、ルイスは、わき目もふらずに、じいっと、じいっと、島を見つめていた。夢中になって、ずっと島を見つめていた。





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