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昔は人間の子供も生贄として捧げていた?訪大社の神事

2015-01-08 22:53:03 | 日記・エッセイ・コラム

串刺しのカエルは蛇の餌に由来
自分の考えをまとめる訓練ということで諏訪大社のカエル生贄神事について書いてみたいと思います。
神の御心とは人間智では推しはかれない深遠なものとはいわれていて、神の中には荒神といって天変地異や災害(天災)を起こす神様もいるといわれてます。
(もっとも人間が勝手に思っているだけですが)
しかし大災害でなくカエルを串刺しにして備えさせる神様とはいったい何なのでしょうか。
生きたカエルを串刺しにして虐殺するという行為は、子供の悪戯ではわりとよく聞きますが、
これを大人がやれば変質者か猟奇犯罪の犯罪者予備軍といったところでしょう。
調べてみたらこのこの神事の神様の正体は蛇神だそうです。

未開人の宗教であった頃の名残り
NGO Life Investigation Agencyさんのブログ(下記URL)によれば
>室町時代から440年以上続けられ、数年前までは鹿もウサギも殺して奉納していました。
>昔は人間の子どもも生贄にされていたという記述もあります。
(記述の出典は未掲載)
だそうで、数年前といえば最近の話ですがどんな理由、経緯で鹿やウサギの生贄はやめたのだろうか、
というより何故人間の子供はやめたのだろうかw
昔はこのようななことはよくあったそうだし、今でも原始に近い生活をしている人たちの間ではよくあるようですけど。
一般的傾向としては国内外問わず文明の発達と共になくなっていくようです。
日本神道では今でも生きた魚を奉納することはよくあるようです。(その後食べるのかどうかはわかりません)
ただ人、動物を問わず生贄を捧げるという行為の元には、自分たちさえよければ他の犠牲は構わないという自己中心的な思想があります。
生きたカエルを串刺しにする諏訪大社の神事。  ※動画あり
http://blog.livedoor.jp/liablog/archives/1790677.html


動物的本能の痕跡
殺生も生態系、食物連鎖の中で行うのであればかまわないが、その外にある無意味な殺生はよろしくないというのが私の考えです。
(これはあくまでも私の考えに過ぎません)
諏訪大社は狩の神様の神社だそうですが食物連鎖の中の狩なら別に構いません。
しかし、この神事のような殺生は食物連鎖の中にあるかというとそうではないでしょう。
その後、カエルを自分たちや氏子が食べたり動物の餌や肥料にするのではなく、お焚き上げ、すなわち焼却処分ですからね。
闘牛でも基本的に肉を食べてるそうです。
人間以外の動物の場合は無意味な殺生はあるのかどうか、
例えば主(ぬし)のいない蜘蛛の巣に虫がかかって死んでることはあります。
サイは近眼で目の前にいる動くものは敵とみなし攻撃を仕掛ける習性はあります。
猫は狩の本能があって、食べるため以外にも鳥やネズミ、トカゲ、虫などをいたぶり殺してしまいます。
ただ自然環境の中ではそれを食べる動物や菌などの生物はいるわけです。
猫が小動物をいたぶり殺すのを残虐と思うのは単なる人間的感情に過ぎないのかもしれませんが、
多くの動物に本能として備わっているもので、イジメや先の子供のカエル殺しみたいなものもあるなかと思われます。

オウム真理教「ポア」の教義との共通性
「生き物として敬意を払った上でカエルを奉納していることを知ってもらいたい」
敬意を払うことと虐殺することとは矛盾しているようにも思えるが
猫はどうか知らないが人の場合、イジメや殺生特に虐殺には、特に最初は何らかの良心の呵責が伴うことが多い。
それに対して各自なりに都合のいい言い訳を考え、続けているうちに感覚が麻痺してしまうこともある。
宗教的な言い訳もその一つなのではないのではないだろうか。
「ポア」とは、「死に際して、その魂を高い世界に移し変える(転生する)こと]を意味していた。
オウム真理教では魂を高い世界に転生させるためには、積極的にその魂の持ち主の生命を(実際に)奪っても構わないという
「殺人正当化の教義」を意味することになったそうだ。
諏訪大社が現代の文明国でこのような前近代的な虐殺を行っているのも、人とカエルの違いはあるにしても
本質的には違いがないような気がしてならないのであります。
コメント
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