隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

母親と娘の別々の人生~母親による「代理出産」の報道を見て~

2006年10月18日 16時56分33秒 | プチエッセイ
■「私も娘に頼まれたら産んであげるかも」
 2、3日前に、「母親が娘夫婦の精子と卵子で子ども(孫)を出産」という報道がありましたよね。生まれた子どもは元気に育って、法律上は出産した母親が「母」であり、その子を娘夫婦が養子縁組をして法律上は娘夫婦の子どもになった、と。代理出産の極地みたいなことだなあと思いました。そのご夫婦にも母親にもそれぞれの思いや事情があったでしょうし、それについて第三者の私がとやかく言うつもりはありません。子どもが元気に育って、きっとご一家は安定した幸せな日々を過ごされているんだと思うし。
 違和感をもったのは、それについての街のインタビュー。五十代とも思える女性何人かが「私も娘に頼まれたら産んであげるかも」と答えていたことです。たぶん深く考えての発言ではなかっただろうし、実際に直面したらどうするかは疑問だけれど、「娘はかわいいし」「母親として娘を愛するなら」と言っていたんだな。あれって特別な人たち? それともそう考える母親は多いのでしょうか。その番組では、「意外な反応でしたねえ」「やはり母親の愛は偉大だということでしょうか」という軽い結論だったけど。


■私が娘だったら
 ここからはあくまで私の個人的な意見。人にはいろいろな事情があるだろうし、とくに子どもの問題は、向井亜紀さんの件でもわかったのだが、簡単には片づけられないものがあるしね。
 私が娘なら、どんなに子どもが欲しくても、親に頼むことはありえない。いくら今の五十代が肉体的にも精神的にも若いとしても、その年齢での出産に危険が伴わないことはありえないと思うのです。その危険を、たとえ自分の母親だとしても「他人」である人に課すことは考えられない。それは自分の母親を愛するがゆえ、というより、そういうことまでして自分の希望を貫くことへの違和感です。たとえ無事に子どもが産まれて「よかった、よかった」という結果になったとしても、そういう重さを背負って生きていくのはキツイ。きっと私は傲慢だから、誰かの命がけの行為でこれからの自分の人生があるのだ、と思うことがイヤなんでしょうね。かわいげないけど。
 あきらめることの難しさはわかります。本当に望むことが叶うなら、人はそれにとびついてしまうかもしれない。だから、どれだけ子どもがほしいか、その思うの深さ、重さによるんだよ、と言われるかもしれないけれど、それとは少し違う。私はたぶん、たとえ難しくても、あきらめなくちゃいけないときに、それを受け入れる人でいたいと思っているんです。私が歩ける道はいつも1本しかないけど、でもその道が塞がれたら違う道を行けばいいじゃん…、そう思って生きていたいんですよね。それは別に、なんでもあきらめが肝心、というわけではない。どうしようもないときに、ということなんだけど。
 でも、子どもの場合は、「いる」か「いない」の2つの選択肢しかないから、どうしてもほしいと思う人にとっては、耐えがたい選択になるんだろうけど。
 例えば、小さい頃から新聞記者になりたいと思っていたとします。でも大新聞社に記者として入社できるのはごくごくわずかな選ばれた人です。だけど、ダメでもあきらめきれないとしたら、もっと小さな新聞社を志すこともできる、専門の業界紙を発行する新聞社で修業することもできる。それも不可能だったら、ほかの仕事につきながらミニコミ誌にチャレンジすることもできる、形は違うけれど自分のホームページを立ち上げてニュースを伝えることもできる。ふつうはこんなふうに選択肢があるんですものね。
 そうは思っても、です。やはり違う道を選びます。そして、「子どもは欲しかったけど、みんな苦労してるし、いなくてよかったわー」というかっこ悪い強がりではなく、「子どもはもてなくて残念だったけど、でも今の人生もなかなかだわ」とさりげなく生きていけたらいい。青すぎますか?(笑)


■私が母親だったら
 愛する娘が子どもをすごくほしがって、そして「お母さん、お願いがあるの」と言ってきた場合です。せつないでしょうね。その気持ちは想像できる。きっと子どもが望むものは与えてあげたい、叶えてあげたいと思いながら、ここまで育ててきたのだから。
 でも、さんざん迷ったあげくに断る母でいたいです。娘の命に関わることなら、きっと別かもしれない。でもそういう場合とは事情がちがう。
 幼い子どもではないのです。もう結婚して十分大人になっている娘です。「お母さんはあなたを守りたいと思って育ててきたけど、もうそういう時間は過ぎてしまった」ということをちゃんと伝えられたら、と思います。命をかけてあなたにつくすことではなく、あなたが強く自力で生きることを祈るのが、今の私のあなたへの愛だ、と伝えたいです。そして、子どもがいなくても前向きに生きていくにはどうしたらいいのか、夫と話しなさい、そういうことを話せる二人でいなさい、と言います。
 あなたのことが大好きだけど、それでも私は私のこれからをまだまだ大事に生きていきたい、ということを、理解してはもらえないだろうけど伝えます。あなたの子どもは私のかわいい孫だけれど、私にできることは限られている。そうも言うかもしれないな。
 冷たい母親だと思われて、疎遠になってしまうかもしれない。でも、そういう母の思いや人の生き方を想像できるように育てられなかったのは私の力不足だと思って、それこそあきらめます。
 やっぱり青すぎますか?(笑)


ときどき思うのですが、医学が発達して今まで当たり前に不可能だったことが実現できるようになると、ある意味キツイこともありますね。どこであきらめたらいいのか、わからなくなる。そして、ひょっとして、このような医療補助行為が進んでいって、女性は子どもを産むもの、という、かつてあったしがらみが再び浮上して、女性を苦しめるようなことにならなければいいんだけどな。そんなふうに思ったりもします。

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