■実は『いい先生』だったようなんです」
「○○先生って、案外いい先生だよね」
「うちの息子はいい先生に恵まれなくて…」
「あの小学校には、いい先生が多いらしいね」
日常会話の中で、こんなふうに「いい先生」なる表現をすることがよくある。それはどんな先生なの?と問われても、結構説明に困る。私も現役の学生だった頃もそして今も使うことがあるけど、もちろん深く考えて使っているわけではない。
おもしろい先生/厳しいけどあったかみのある先生/人気のある先生/授業がおもしろい先生…。あげればきりがないし、たぶん人によっても異なるイメージを思い浮かべる表現だろう。
ま、毒にも薬にもならない日常会話の中ではかまわないけど、メディアが事件があるたびに多用する「いい人」「いい先生」なる表現はどうなんだろう。
今度の福岡のいじめによる自殺の事件で、いじめの原因を作ったのでは、と言われている教師のことを「実際は、評判もよく、いい先生だったようなんです」と説明しているのを聞いて、改めて、なんじゃ?と思ったわけです。
■金八先生だって、みんなが好きになれるわけじゃないし
その教師は、みんなを「イチゴ評価」したりして、たぶん学力アップのためにいろいろ工夫はしていたわけでしょ。おもしろかどうかはわからないけど、適当にジョークも交えつつ授業を進行させてたみたいだし。
特にいじめも受けていない子ども、ひょっとして軽くいじめる側にいる子ども、教師の言動にあまり疑問を抱かない普通の子ども…には「いい教師」だったのかもしれない。でも、それは表面的なことで、心に傷を負っている子どもたちにはどうだったんだろう。直接被害のない子どもには、ひょっとして「可もなく不可もなく」といった存在だったかもしれない。見方はいろいろです。表面的な短期間の取材で、「いい先生だったようです」はないんじゃないかなあ。
金八先生だって、ドラマではクラス全員に慕われていたけど、実際に存在したら、ついていけない生徒もいたかもしれない。ま、私は金八先生は好きだし、あんなふうに一人一人に対応する大人な人こそ教師にふさわしい人物だとは思うけど。でもそれでも、みんながついていけるとは思えない。もちろんドラマは、「理想の教師像」をきちんと伝えてくれたんだろうけど。
現実に、「昆虫の大家」と呼ばれる教師を知っています。大らかで明るくて、子どもを型にはめない教師です。昆虫採集などに積極的に子どもを誘い、生命の大切さをいつも説いていました。それでも、なかには昆虫に興味をもてない子どももいるわけで。そういう子どもへの配慮があったか、というと、ちょっと疑問。
たぶん、優れた教師(あれ、これもあいまいな表現だな)というのは、自分についてくる子どもではなく、離れたところでたたずんでいる子ども、自分の方針に従えない子どもにこそ、目を向けることのできる人なんだろう。それってやっぱり想像力? 人気があると、それに満足して、ちゃんと学級経営をしているような錯覚に陥っちゃうことってあるだろうな。
■子どもの目はごまかせないぜ
ある小学一年生の男の子が、こんな話をしてくれたことがある。「○○先生はA子ちゃんの夏休みの自由課題の宿題を見て、お母さんに手伝ってもらったって怒ったんだよ。すごく怒ったんだよ。A子ちゃんは『違う』って言って泣いてたけど、先生は『ウソを言っちゃいけない』ってずっと怒ってた。でもなんでお母さんがやったって先生は知ってるの?」
まあね、先生は長年の経験でか、あるいは勘で?、真実を見破ったわけでしょう。だけど、子どもの目には「理不尽な感情的な怒り方をする教師」と映ってしまったわけで。
またこんな話を小学校6年生の男の子から聞いたこともある。「△△先生が最近Bさんにすっごく厳しいんだよね。で、みんなの前で『前はBさんはいい子だったけど、この頃勝手な女の子になりました』って言ったんだ。日記に『どうして?』って書いたら、『Bさんは前は学級の活動のリーダーとして頑張っていたけれど、中学受験をするために塾に行くようになって悪い子になりました』だってさ。だけどBさんは掃除だってみんなよりずっとマジメにやってるよ。悪い子なんかじゃないよ」
どうしたんでしょうね。やっぱり私立に行くってことで、教師の感情を害しちゃったんでしょうか(笑)。その男の子は結構冷静に観察する子だったのだが、その教師の行為は最後まで納得できずに、日記という手段で果敢に教師に挑戦していたみたいだ。
○○先生も△△先生も、一般的な評判はたぶん「いい先生」だった。指導力はあるし、メリハリはきいているし、イチャモンつけんなよ、という保護者へ凄み(笑)も適度にあったようだし。それでもやっぱり「いい先生」かって言われると、うーむ。
■「いい先生」の多用はやめませんか?
別に今さら、多くのものを教師に求めるつもりはない。教師だって、ただに人だし、それに忙しくて負担が多くて四苦八苦している現状だし。
でも、最低限の課題として、想像力を働かせてくださいよ。自分のカテゴリーにだけ通じる想像力ではなく、自分とはまったく異なる思考や行動を所有している人を推し量ることのできる上質な想像力をね。
そして、メディアの皆さん、もう「いい先生」って括るのはやめませんか。それって、本当に意味のない表現です。言葉を手段にして仕事をしているんだったら、言葉にシビアになってほしいと、思っています。
「○○先生って、案外いい先生だよね」
「うちの息子はいい先生に恵まれなくて…」
「あの小学校には、いい先生が多いらしいね」
日常会話の中で、こんなふうに「いい先生」なる表現をすることがよくある。それはどんな先生なの?と問われても、結構説明に困る。私も現役の学生だった頃もそして今も使うことがあるけど、もちろん深く考えて使っているわけではない。
おもしろい先生/厳しいけどあったかみのある先生/人気のある先生/授業がおもしろい先生…。あげればきりがないし、たぶん人によっても異なるイメージを思い浮かべる表現だろう。
ま、毒にも薬にもならない日常会話の中ではかまわないけど、メディアが事件があるたびに多用する「いい人」「いい先生」なる表現はどうなんだろう。
今度の福岡のいじめによる自殺の事件で、いじめの原因を作ったのでは、と言われている教師のことを「実際は、評判もよく、いい先生だったようなんです」と説明しているのを聞いて、改めて、なんじゃ?と思ったわけです。
■金八先生だって、みんなが好きになれるわけじゃないし
その教師は、みんなを「イチゴ評価」したりして、たぶん学力アップのためにいろいろ工夫はしていたわけでしょ。おもしろかどうかはわからないけど、適当にジョークも交えつつ授業を進行させてたみたいだし。
特にいじめも受けていない子ども、ひょっとして軽くいじめる側にいる子ども、教師の言動にあまり疑問を抱かない普通の子ども…には「いい教師」だったのかもしれない。でも、それは表面的なことで、心に傷を負っている子どもたちにはどうだったんだろう。直接被害のない子どもには、ひょっとして「可もなく不可もなく」といった存在だったかもしれない。見方はいろいろです。表面的な短期間の取材で、「いい先生だったようです」はないんじゃないかなあ。
金八先生だって、ドラマではクラス全員に慕われていたけど、実際に存在したら、ついていけない生徒もいたかもしれない。ま、私は金八先生は好きだし、あんなふうに一人一人に対応する大人な人こそ教師にふさわしい人物だとは思うけど。でもそれでも、みんながついていけるとは思えない。もちろんドラマは、「理想の教師像」をきちんと伝えてくれたんだろうけど。
現実に、「昆虫の大家」と呼ばれる教師を知っています。大らかで明るくて、子どもを型にはめない教師です。昆虫採集などに積極的に子どもを誘い、生命の大切さをいつも説いていました。それでも、なかには昆虫に興味をもてない子どももいるわけで。そういう子どもへの配慮があったか、というと、ちょっと疑問。
たぶん、優れた教師(あれ、これもあいまいな表現だな)というのは、自分についてくる子どもではなく、離れたところでたたずんでいる子ども、自分の方針に従えない子どもにこそ、目を向けることのできる人なんだろう。それってやっぱり想像力? 人気があると、それに満足して、ちゃんと学級経営をしているような錯覚に陥っちゃうことってあるだろうな。
■子どもの目はごまかせないぜ
ある小学一年生の男の子が、こんな話をしてくれたことがある。「○○先生はA子ちゃんの夏休みの自由課題の宿題を見て、お母さんに手伝ってもらったって怒ったんだよ。すごく怒ったんだよ。A子ちゃんは『違う』って言って泣いてたけど、先生は『ウソを言っちゃいけない』ってずっと怒ってた。でもなんでお母さんがやったって先生は知ってるの?」
まあね、先生は長年の経験でか、あるいは勘で?、真実を見破ったわけでしょう。だけど、子どもの目には「理不尽な感情的な怒り方をする教師」と映ってしまったわけで。
またこんな話を小学校6年生の男の子から聞いたこともある。「△△先生が最近Bさんにすっごく厳しいんだよね。で、みんなの前で『前はBさんはいい子だったけど、この頃勝手な女の子になりました』って言ったんだ。日記に『どうして?』って書いたら、『Bさんは前は学級の活動のリーダーとして頑張っていたけれど、中学受験をするために塾に行くようになって悪い子になりました』だってさ。だけどBさんは掃除だってみんなよりずっとマジメにやってるよ。悪い子なんかじゃないよ」
どうしたんでしょうね。やっぱり私立に行くってことで、教師の感情を害しちゃったんでしょうか(笑)。その男の子は結構冷静に観察する子だったのだが、その教師の行為は最後まで納得できずに、日記という手段で果敢に教師に挑戦していたみたいだ。
○○先生も△△先生も、一般的な評判はたぶん「いい先生」だった。指導力はあるし、メリハリはきいているし、イチャモンつけんなよ、という保護者へ凄み(笑)も適度にあったようだし。それでもやっぱり「いい先生」かって言われると、うーむ。
■「いい先生」の多用はやめませんか?
別に今さら、多くのものを教師に求めるつもりはない。教師だって、ただに人だし、それに忙しくて負担が多くて四苦八苦している現状だし。
でも、最低限の課題として、想像力を働かせてくださいよ。自分のカテゴリーにだけ通じる想像力ではなく、自分とはまったく異なる思考や行動を所有している人を推し量ることのできる上質な想像力をね。
そして、メディアの皆さん、もう「いい先生」って括るのはやめませんか。それって、本当に意味のない表現です。言葉を手段にして仕事をしているんだったら、言葉にシビアになってほしいと、思っています。