隠れ家-かけらの世界-

今日感じたこと、出会った人のこと、好きなこと、忘れたくないこと…。気ままに残していけたらいい。

母と娘の関係って、永遠の謎だ~『ビューティ・クイーン・オブ・リナーン』

2007年12月24日 01時29分30秒 | ライブリポート(演劇など)
■『ビューティ・クイーン・オブ・リナーン』(12月19日(水) パルコ劇場)

  演出  長塚圭史
  出演  大竹しのぶ/白石加代子/田中哲司/長塚圭史(黒田勇樹の代役)


▼昨年の私のベスト2だった『ウィー・トーマス』と同じ作者
 そうなんですよね、『ウィー・トーマス』は本当に文句なくおもしろかった。残忍で狂っていて、怖いんだけど、それを越えて限りなくうまくできた話で、芝居が進んでいくのを感じないほどにあっという間のカーテンコールだったような。
 マーティン・マクドナーというアイルランドの若い作家の原作で、長塚演出のは『ピローマン』も彼の作品とか(見てないんですよね。今いちばん見たい芝居です。再演の噂はないのでしょうか)。
 今回のは母娘の凄まじい葛藤劇だし、『ウィー・トーマス』の設定とは全く異なるけれど、どちらも主要な人物の鬱積した怒りやら欲求不満が著しい。みんな「怒っている」。何かにとてつもない勢いで憤っている。
 バックには、アイルランドの置かれている事情も反映しているようだ。1990年以降は経済状態もかなり安定しているようだが、それ以前はイングランドへの複雑な思い、差別など、アイルランドの人々をめぐる困難な時代が続いていたと思われ、主人公たちの言葉のそこここに「イングランドやイングランドの人々」への正直な怒りが見える。閉塞感とやりきれなさが、それぞれの芝居の底にあり、『ウィー・トーマス』では実際的な闘争へのエネルギーとそして些末な怒り沸騰が破滅へとつながり、『ビューティ・クイーン・オブ・リナーン』では母親へのやり場のない苛立ちと殺意が最終章となる。
 そういえば、印象的な映画「麦の穂をゆらす風」はアイルランドの独立戦争の悲劇を描いていたっけ(ココに、レビューあります)。
 この国の若い才人マーティン・マクドナーは、アイルランドの特殊な国事情をうまく使って、怒りを募らせた人々の果てをブラックユーモアたっぷりに描いていると言っていいのかな。


▼幸運なのか、悲劇なのか
 今回も凄まじい舞台です。
 『ウィー・トーマス』が「視覚的に」凄まじかったのに対して、今回は聴覚的?に凄まじかった、かな? とにかく母と娘の間にやりとりされる言葉の救いようのない辛辣さ。そこには逃げ場なんてない。
 高齢の母親にとっての「老いと死」、娘の経験した精神科への入院。それぞれが自分の力ではどうしようもない事実を相手にぶつけて、本当に醜悪(だと思うよ、現実だとしたら、もう目をそむけるよね)。
 だけど、不思議なんだけど、やりあっているときの二人には絶望的な悲壮感はない。むしろ、憎らしいくらいに元気、元気。こんなエネルギー、私にはないぞ!なんて思わせる。お互いにお互いへの鬱積があって、それをため込むことなく発散できたから、だから生きていられるのかなとさえ思わせる。だから、苦笑いしながら見ていられたんだな、私もみなさんも。
 悲しいことなのか幸せなのかわからないけれど、思いっきり本音を言ってもへこたれない対象がこんな身近にいるなんて。これはもう「幸運」としか言いようがない。
 こんなにストレートには出せないけれど、でも正直言ってこれは自分の本音に通じる、と思った人もいるかもしれない。それが苦笑いを生んだのだろうか。「仲良し母娘」はこんにち市民権を得たけど(たぶん)、一度こじらせると、母と娘の二本道は永遠に交わらない可能性さえ示唆するほどに難問なのです。

▼役者たちと印象的な場面
 ○男優二人、大変だっただろうな…
 娘の相手バドの弟レイを演じるのが長塚圭史。公演寸前に黒田勇樹が体調不良で降板となり、その結果演出家自らの登板となったらしい。
 最初、黒田勇樹のイメージと長塚のそれのあまりの違和感(笑)に、どうなの?と思ったりもしたけど、実際はGOOD! レイの抱える「若さ」「軽さ」「辛辣さ」「短気」、そして「若さゆえの無神経さ」が、誇張された演技の中に不思議とはまったように思う。このあたりは見方によると、どうかな?と感じる人も多いかもしれないな。
 レイも自分の置かれている日常に苛立っているのだ。それが若さゆえの普遍的なものなのか、アイルランドの若者特有なものなのかは、明らかにはされないけれど。
 バドを演じる田中哲司は、最近のテレビドラマ「SP」でもお馴染みの俳優さんだと思う。テレビでしかしらなかったけれど、舞台の経歴の長い俳優さんなんだと初めてしった。
 パドは決してデリカシーのある男ではないし、深みのある人だとも思えないけど、善良で大らかな、気持ちのいい男であることは認める。その大らかで普通の神経をもった男をとても自然に演じていたと思う。

 ○ド迫力のぶつかりあい
 この芝居が『ウィー・トーマス』と同じ原作者であること、演出が長塚圭史であること、それがこの芝居を見たいと思った二大要因だけれど、その次に白石加代子大竹しのぶの共演というのは抗しがたい魅力だ。
 白石加代子の憎らしいほどの毒舌や意地悪ぶりのあいまに見られる摩訶不思議なかわいらしさ。それがこの救いがたい芝居にちょっと逃げ道を作ってくれる。この自分がたどった不自由な閉鎖された世界への恨みや憎しみを、本来なら愛すべきはずの娘に向けて、そのまま年老いてしまった母親の悲劇。白石加代子の演じる母親には哀れさや弱さが感じられないので、ただただ憎たらしく映ってしまうけれど、娘の悲しい過去を男の前で暴くとき、また娘に熱湯をかけられ怯えを見せるとき、そういうときにはむしろ愚かさが切なく伝わってくる。娘をつなぎとめて自分の世話をさせる母親の身勝手さと、若い者に疎まれる哀れさ、その両方を象徴的に見せてくれる。
 かたや大竹しのぶ演じるモーリーン。かつてはリナーン一の美人だった彼女は、母親の前にいるときは女性としての意識も恥じらいもない、ただの疲れた40の女。その彼女が幼なじみのパドに惹かれていくうちに輝きが戻ってくるようすが鮮やかに伝わる。
 最後近くのシーンで、殺してしまった母親のロッキングチェアに腰を下ろしているのだが、だんだんに怖いほど母親に似てくる。そのあたりの体だけで伝える演技力は大したものだ。不気味な空気さえ漂ってくる。忌み嫌っていた母親と同じことを言い、同じ姿勢で、同じ視線で椅子に揺られる。
 急に思い立ったかのように立ち上がり、その椅子は母親が座っていたときのように揺れ続けるのだか、だんだんに揺れが緩慢になり、そして止まる。
 母親の魂は旅立ったけれど、その魂は娘の中に根付いて、母親と同じ道をたどっていくのだろうか、そういうことを悲しく暗示させているのか。
 自分を縛りつけていた母親を捨てて、パドとアメリカで新しく生きるために母親を殺したのに…、運命は皮肉だ。モーリーンに残されたのは一人で生きていく人生。もう、この憤懣や欲求不満をぶちまける相手はいない。悪口雑言をぶつける相手もいない。そういう意味では母親よりも孤独な晩年が待っているということなのか。
 再び輝きを失い、前屈みにけだるそうに部屋を去る大竹しのぶの無言の演技が切なく、悲しく、そして愚かだ。



 ちなみに舞台のセットは素晴らしかった。
 水道から本物の水が出て、実際に火をつかってお湯を沸かしたりする。すごくリアリティのあるセットで、それをみているだけで楽しい(って、ここで楽しがってはダメだけど)。
 テーマはもっと深いところにあるのかもしれないけれど、人物描写は案外単純な感じで、深層心理の複雑さとかより、ストーリーのおもしろさ、スピード感に身をゆだねていればいいのかあなという気もする。母と娘に救いの手は差し伸べられなかったし、「やっぱり血のつながりよね~」と言える抜け道もないのだから。

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