~ 意識的であれ、はたまた無意識的であれ、結果的に私は「不殺生菜食者」となるよう導かれてきました。
私を「不殺生菜食者」としての道へと歩ませたものは、目には見えない力や働き、祈りや願い、そして目に見えて起きる様々な出来事がありました。 ~
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かつての私も、ハンバーグや唐揚げが大好きでした。
食べて当たり前の『肉』は、私にとって品物/商品であり食べものという『物』でした。
自分を害する殺すべき『敵』・虫たちの話と同様、生まれた時からそれが当たり前で過ごしてきたのですから仕方ありません。
そして何より、私が育った家の価値観の中に、食に対する『生命礼拝』や『生命尊重』の意識は全くありませんでした。
家庭で培われる一人一人の価値観・意識が、その時々の社会を創り出します。
一人一人の価値観・意識が、その時々の社会の構成要素であり、その時々の社会を動かす力です。
『今の社会』を構成するものは、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識』であり、『今の社会の有り様』は、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識の反映』なのです。
【「生命(いのち)」を殺して食べる社会】を創り出しているのは、間違いなく【私たち一人一人の価値観・意識】なのです。
人間によって自己の意思に関係なく強制的にいのちを絶たれ、『物』となって食されている動物たちの『生命(いのち)』。
この、自己の意思に関係なく強制的にいのちを絶たれるということ・・、これは動物たちに限ったことではありません。
人間が人間の『生命(いのち)』を強制的に奪ってしまう『事件/事故』という『殺人』は、毎日のように頻繁に起こっています。
それに、人間は一番近しい愛すべき同類である人間の『子供のいのち』を、『堕胎/中絶』という形で、実際には毎日非常な数で強制的に絶っています。
人間の思惑や都合で強制的にいのちを絶っているという現状は、動物に限らず同じ人類の中ででも日常的に行なわれているのです。
そして、ある国では闇で胎児が売買され食されているという事実を聞きました・・。
『ああ、人間はここまで来てしまったのか!』と、私はショックで愕然としました。
闇の世界での人身売買や臓器売買も然りです・・・。
これは、人類意識が人間自身の『生命(いのち)』をも『生命(いのち)』として見ていない、『物』として扱っている姿勢の象徴です。
私たちは『生命(いのち)』そのものであり、『全てが一体の生命(いのち)』なのです。
それを基本としない『世界』に『調和』はありません。
『調和』とは『愛』です。
『愛』があるとき、そこには必ず『調和』が現れます。
逆に、そこに『愛』を現していないとき、必然的に『不調和』が現れるのです。
私自身、自分を物質的な存在であるかのような振る舞いをして来ました。
『全てが一体の生命(いのち)である』ことを忘れ、動物たちの『生命(いのち)』を平気で喰らい、私は自分自身を傷付けて来ました。
【一体である生命(いのち)を喰らうということは、自分自身を喰らっているということ】
【一体である生命(いのち)を『物』として扱うということは、自分自身を『物』として扱っているということ】
自分自身の『生命(いのち)』)に対し、『愛』を現し『調和』していなかった私でした。
だから私は、『本当の人間(/自分)』としての生きる意味を失い、死ぬことを考え、鬱になってしまいました。
鬱になったり病気になったり、生きている意味を見出せず、死ぬことばかりを考えたり・・・、それは『本当の人間(/自分)』を生きていないから。
『調和した世界』を創造せず、『不調和な世界』を創造している現れなのです。
【心に描くこと/想像 = 創り出すこと/創造】
『調和した世界』と『不調和な世界』、どちらも自分の想念/心で創り出すことが出来ます。
どちらを心に描く(想像する)のか、どちらの『世界』を創り上げるのか(創造)は、自分の選択次第なのです。
『全ての生命(いのち)あるものとの調和した世界』・・・それらを想像(創造)する人/世界には、『生命(いのち)』に関わる悲しい出来事は、きっと起きないと私は思うのです。
だから私は、「不殺生菜食者」となることで『調和した世界の創造』を選択したのでした。
関連内容:
「不殺生菜食者」になった理由①『母性』
「不殺生菜食者」になった理由②『地球意識』
「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅰ
「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅱ
私を「不殺生菜食者」としての道へと歩ませたものは、目には見えない力や働き、祈りや願い、そして目に見えて起きる様々な出来事がありました。 ~
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かつての私も、ハンバーグや唐揚げが大好きでした。
食べて当たり前の『肉』は、私にとって品物/商品であり食べものという『物』でした。
自分を害する殺すべき『敵』・虫たちの話と同様、生まれた時からそれが当たり前で過ごしてきたのですから仕方ありません。
そして何より、私が育った家の価値観の中に、食に対する『生命礼拝』や『生命尊重』の意識は全くありませんでした。
家庭で培われる一人一人の価値観・意識が、その時々の社会を創り出します。
一人一人の価値観・意識が、その時々の社会の構成要素であり、その時々の社会を動かす力です。
『今の社会』を構成するものは、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識』であり、『今の社会の有り様』は、『今の私たち自身の一人一人の価値観・意識の反映』なのです。
【「生命(いのち)」を殺して食べる社会】を創り出しているのは、間違いなく【私たち一人一人の価値観・意識】なのです。
人間によって自己の意思に関係なく強制的にいのちを絶たれ、『物』となって食されている動物たちの『生命(いのち)』。
この、自己の意思に関係なく強制的にいのちを絶たれるということ・・、これは動物たちに限ったことではありません。
人間が人間の『生命(いのち)』を強制的に奪ってしまう『事件/事故』という『殺人』は、毎日のように頻繁に起こっています。
それに、人間は一番近しい愛すべき同類である人間の『子供のいのち』を、『堕胎/中絶』という形で、実際には毎日非常な数で強制的に絶っています。
人間の思惑や都合で強制的にいのちを絶っているという現状は、動物に限らず同じ人類の中ででも日常的に行なわれているのです。
そして、ある国では闇で胎児が売買され食されているという事実を聞きました・・。
『ああ、人間はここまで来てしまったのか!』と、私はショックで愕然としました。
闇の世界での人身売買や臓器売買も然りです・・・。
これは、人類意識が人間自身の『生命(いのち)』をも『生命(いのち)』として見ていない、『物』として扱っている姿勢の象徴です。
私たちは『生命(いのち)』そのものであり、『全てが一体の生命(いのち)』なのです。
それを基本としない『世界』に『調和』はありません。
『調和』とは『愛』です。
『愛』があるとき、そこには必ず『調和』が現れます。
逆に、そこに『愛』を現していないとき、必然的に『不調和』が現れるのです。
私自身、自分を物質的な存在であるかのような振る舞いをして来ました。
『全てが一体の生命(いのち)である』ことを忘れ、動物たちの『生命(いのち)』を平気で喰らい、私は自分自身を傷付けて来ました。
【一体である生命(いのち)を喰らうということは、自分自身を喰らっているということ】
【一体である生命(いのち)を『物』として扱うということは、自分自身を『物』として扱っているということ】
自分自身の『生命(いのち)』)に対し、『愛』を現し『調和』していなかった私でした。
だから私は、『本当の人間(/自分)』としての生きる意味を失い、死ぬことを考え、鬱になってしまいました。
鬱になったり病気になったり、生きている意味を見出せず、死ぬことばかりを考えたり・・・、それは『本当の人間(/自分)』を生きていないから。
『調和した世界』を創造せず、『不調和な世界』を創造している現れなのです。
【心に描くこと/想像 = 創り出すこと/創造】
『調和した世界』と『不調和な世界』、どちらも自分の想念/心で創り出すことが出来ます。
どちらを心に描く(想像する)のか、どちらの『世界』を創り上げるのか(創造)は、自分の選択次第なのです。
『全ての生命(いのち)あるものとの調和した世界』・・・それらを想像(創造)する人/世界には、『生命(いのち)』に関わる悲しい出来事は、きっと起きないと私は思うのです。
だから私は、「不殺生菜食者」となることで『調和した世界の創造』を選択したのでした。
関連内容:
「不殺生菜食者」になった理由①『母性』
「不殺生菜食者」になった理由②『地球意識』
「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅰ
「不殺生菜食者」になった理由③『調和した世界の創造』Ⅱ