皆無斎残日録

徒然なるままに、日々のよしなし事を・・・・・

言葉がおかしい

2010年10月06日 19時11分34秒 | 随想

料理人や歌手など、芸術という言葉を使いたがる、横文字を使いたがる。
今は、料理、ダンス、歌、なんでもかんでも、「芸術的な」とか、「芸術作品だ」とか、なんでもかんでも芸術という看板を掲げたがる。ただの料理、ダンス、歌でいいではないか。何故、ただの作品でいけないのだ。「芸術的だ」の「芸術作品だ」などと付けたがるのだ。自分を権威づけて、大衆を恐れ入らせて偉ぶりたいのである。身の程知らずの傲慢不遜である。スケベ根性である


人権々と叫ぶ者やマスコミなど、言葉を変えたがる。
援助交際、アーティスト、認知症などと、既にある言葉を同じ意味を表すのに別の言葉に替えたがる。「差別だ」「人権だ」というのである。ただの少女買春、歌手・俳優・踊り手、痴呆症でいいではないか。何故すでにある生活の中で練られてきて息づいている簡潔で明瞭な言葉を変えたがるのだ。


現実を曖昧にし誤魔化して、善い人でありたいのである。独善にみちた欺瞞である。偽善である。


テレビでは、不適正と判断する言葉が出演者から発せられるとピーピーとうるさい。毒舌家が力のある組織や人間を非難する言を発すれば干される。マスコミこそ「正しい情報を大衆に知らせる」「社会正義を目指す」などと言う正義の看板を掲げて、強者には抵抗する振りをしつつ媚び諂い、自らの存在を利権として新たな権力となろうとする存在はないのだ。又、弱者には、その味方の振りをしつつ愚弄嘲笑し自分たちの都合のいいように操ろうとしている存在はないのだ。そんな彼らが言葉を破壊し日本をダメにしゆくのだ。


善悪理非は、人間の心に深く刻み込む鋭利な言葉で峻厳に区別することによってのみ明瞭となるのだ。人を罵る言葉も労わる言葉と同様に必要なのだ。そして又差別し区別する用語も必要なのだ。「この言葉を使うことは許される」「この言葉は使うことは許されない」などと言うのは独善的抑圧の第一歩である。差別用語といわれるものを使うことと現実に差別することとは全く異質のことなのだ。言葉はいかなる言葉であれ、すべて自由に使われねばならぬし、人は使う権利がある。制限を設けてはならぬ。


更には日常使う漢字の数を制限する。子供でも自分の氏名なら幾ら画数の多い漢字でも記憶する。どんな難解な漢字であれ、人は必要とあれば使うし、使えるのだ。表現の多彩多様を制限する愚策である。


政治家は周旋屋、官僚は役人、銀行は金貸し、サラ金は高利貸又は町金、ローンは分割払い、人材派遣業は口入屋、建築家は図面屋、フリーターは失業中、介護制度は姥捨て、と謂う。まだまだあるぞ。


字面でその本質が垣間見える言葉が好き。



パグ犬きなこの写真日記

日記No.2……2010年3月~

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