竪穴式住居というと縄文時代のイメージですが、実は都に近い畿内でも平安時代頃までの庶民の家は、竪穴式住居だったのだそうです。
竪穴の深さは凍結深度によってきまるそうで、寒い地方ほど竪穴が深くなるといいます。
多くの遺跡で竪穴式住居が復元されていますが、縄文の遺跡で茅葺きの竪穴式住居というのはおかしいようです。
というのもカヤをどうやって切っていたか、研究者にもわからないそう。
カヤは黒曜石などの石器ではとても切れない、鉄でないと切れないのです。
縄文時代には鉄は普及していなかったのですから、カヤを切ることもできなかったはず。
鉄のない段階では今の復元のようなキレイなカヤ葺きはあり得ないようです。
カヤ葺き屋根でなかったのなら、縄文の大型竪穴式住居「ロングハウス」の屋根がどうなっていたのか気になるところです。
土葺き? それとも樹皮葺き?
もし縄文時代に褐鉄鉱による製鉄があれば、カヤ葺き屋根もあったのかもしれませんが。
カヤ葺きの竪穴式住居の見た目が好きですから、鉄があってくれたらいいのに…と思います。
縄文時代から木材の加工技術は発達していたといいますから、案外、居住性の良さから竪穴式住居をあえて選んで住んでいたような気もします。
冬場は住み心地がよさそうです。
鉄が不足していたと考えられている畿内なんぞは、弥生時代になっても庶民のカヤ葺き住居など、なかったのでしょうか。
また、平安時代頃までも竪穴式住居は続いていたのに、纏向遺跡からはほとんど竪穴式住居が出ないのですから驚きです。
田もなく、下々の住居もない計画都市の財力はどこからもたらされたものなのでしょうか?
箸墓古墳などの古墳群を造った労働者たちはどこに住まいし、どんな暮らしをしていたのでしょうね。