「地名は歴史の生き証人」とよく言われます。
難波長柄豊碕宮。前期難波宮の名前を見ると、モヤモヤしてしまいます。
大阪の人ならもう察していただけたでしょうか。
長柄・豊崎という地名が前期難波宮跡とは別の場所にあるのがモヤモヤの源です。
現在も「長柄橋」という橋が淀川に架かっています。新大阪から直線で1キロほど南にいった辺りです。
この長柄橋の西には「豊崎」という地名が残っています。この地にある豊崎神社には「大化の改新後、遷都された難波長柄豊碕宮旧跡地」であるとの伝承があるそうです。
淀川沿いの長柄・豊崎は、法円坂にある難波宮跡公園から5キロ程度離れているでしょうか。
同一地域とみるには遠すぎると思うし、かといってたまたまにしては長柄・豊崎と両方の地名が並んで存在しているのですよね。
長柄橋にまつわる大阪の昔話が「長柄の人柱」で、推古天皇の時代のお話だとされます。
垂水の長者である巌氏が「架橋を成功させるには人柱が必要」だと進言し結果自分が犠牲になることとなった話で「雉も鳴かずば撃たれまい」ということわざの由来だそう。
推古天皇の時代ですから、孝徳天皇の前期難波宮よりも少し古い時代にすでに「長柄橋」は淀川に架けられた様子です。
加えてモヤモヤするのが、この昔話に因んだ「巌氏碑」が立っているのが淀川区東三国の大願寺。
人柱の場所もこの地とされていますが、東三国は現在の長柄橋とは直線距離で2.5キロ程度離れており、淀川沿いではなく神崎川沿い(かつての三国川)なのです。
垂水の長者の「垂水」は吹田市の垂水神社付近だと考えられ、東三国のほうが長柄橋より近い…。
ここが長柄なのでしょうか?垂水から淀川に向かうならば、まず神崎川を渡る立地関係です。
垂水神社は「石走る垂水の上の早蕨の萌え出づる春にはりにけるかも」という志貴皇子の歌に出てくる「垂水」の候補地の一つです。垂水の地名も古くからの由緒ある地名です。
で、この垂水神社には干ばつに苦しむ難波豊碕宮に懸け樋を作って水を送ったという伝承が残っています。
まぁこの伝承については、一番近い東三国の大願寺が「長柄」であっても懸け樋で水を送るには遠いかなとは思うのですが、東三国=長柄も捨てがたい…。
あれほど立派な遺跡が出土しているのですから、法円坂が難波豊碕宮であることに異存などありません。
でも「地名は歴史の生き証人」であるならば長柄豊碕宮という名前って?とモヤモヤしてしまうんです・・・。