青銅器と鉄はほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に伝わったとされます。
弥生時代にまずは北部九州に入って来た青銅器と鉄。
纏向遺跡が誕生する直前の畿内からは鉄の出土が著しく少なく、その時代の鉄の出土分布は北部九州に偏っていると言われてきました。
最近ではタニワなどにも鉄が多く存在したことが判明していています。
銅鐸文化圏という言葉があったように、近畿では銅鐸を盛んに作っていました。
その青銅は一体どこから手に入れていたのでしょうか。北部九州が絡んでいないとは思えないのですが。
鉄資源をめぐって倭国大乱が起ったとするならば、青銅はなぜ争いの対象とならなかったのでしょうか。
当時の青銅器は神器として使用されており、巫女王の時代には対立国に青銅器による宗教的な権威を与えることは危険なこととなりかねないようにも思われます。
実用品ではなかったから青銅だけは畿内と交易していたのですか?
徳島県阿南市の加茂宮ノ前遺跡は弥生中期末~後期初頭の遺跡です。
20軒ほどの竪穴住居跡のうち10軒から19か所の鍛冶炉や鉄器作りに用いた道具類が出土しています。
淡路島の五斗長垣内遺跡も弥生時代後期の製鉄遺跡です。
徳島や淡路島で鍛冶炉が出土しているのに、畿内に鉄が入っていないなんてことがあるのでしょうか。
畿内が鉄欠乏状態にあったというなら、北部九州だけの嫌がらせ(?)ではないですよね。
北部九州や出雲・タニワなどの日本海側、阿讃吉備などの瀬戸内海側、皆が一斉に鉄を畿内に渡さなかったのだと思われます。
しかも鉄のみを渡さず、青銅などの交易はあるのです。
畿内にも鉄はあって、その鉄は倭国大乱の折に首長が回収して武器にしてしまった、なんてことはないでしょうか?
金属回収令のように。