前方後方墳は前方後円墳から派生したのだと以前は考えられていました。
前方後円墳は王家や勢力圏の首長の墓で、それに準じた者に前方後方墳の造営が認められたと。
しかし植田文雄氏は、前方後方墳は纏向遺跡誕生とほぼ同じ時代に近江に出現していたのだと主張されています。
前方後方墳が先に全国に伝播し、そのあとを追うように前方後円墳が広まっていったのだといいます。
ヤマトのシンボルであり全国へ伝播した前方後円墳は、纏向で誕生していることで間違いなさそうです。
ヤマトの建国は前方後円墳という新しい埋葬文化を共有することによって成されたのだと考えられています。
纏向遺跡から出土する外来土器のうちの半数近くを伊勢・東海地方の土器が占めているといいます。
伊勢・東海地方は纏向遺跡、つまりヤマトの建国に中枢として関わっており、単なる労働力だったなどとは思えません。
とすれば、前方後円墳の出現には伊勢・東海地方も関わっていたはずです。
もし前方後方墳が「纏向時代」に誕生していたなら、伊勢・東海地方にたくさん造られる前方後方墳の存在をどう考えればよいのでしょうか。
伊勢・東海は前方後円墳を創り出した勢力の一部でありながら、地元には前方後方墳を造った?
纏向遺跡の外来土器は伊勢・東海が半数近を占めるのに対し、近江の土器は5%ほどしか出土していません。
滋賀県の伊勢遺跡からは弥生時代後期の国内最大級の大型建物群が出土しています。
今は埋め戻されているためでしょうか、一般的な知名度が低いのが残念です。吉野ケ里に匹敵する遺跡です。復元されるか埋め戻されるかで、これだけ認知度が変わってくるのですね。
整然と並ぶ大型建物群には祭殿と思われる独立棟持柱付建物もあり、伊勢神宮との関係を指摘する説もあります。
伊勢遺跡は何故かヤマト建国の頃に衰退しています。
伊勢遺跡の住民が大和に移動したならば近江の土器がもっと出土して然りだと思うし、何故衰退したのでしょう?
近江や伊勢遺跡の人々は前方後円墳や前方後方墳にどう関係しているのでしょうか?
交通の要所である近江。近江と前方後方墳が古代史の謎を解くキーの1つであることは間違いないと思っています。
例のごとく私には解けない謎ですが。