古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

棄てられた銅鐸神①

2020-08-19 18:40:48 | 歴史

銅鐸がどのように使われてきたのか記紀には何も記されていません。

使用方法のみならず銅鐸そのものの存在が記されていません。

 

加茂岩倉遺跡出土の銅鐸のうちには、たった2ミリの厚さのものが含まれているそうです。

これは現代の技術をもってしても再現できない、ロストテクノロジーだといいます。

銅鐸を当時国産していたのは確かなことなので、作っていた工人の青銅器職人としての腕前は相当なものだったと考えられます。

鏡についても仿製鏡=質が悪い とは一概には言えなかったと思います。

 

銅鐸は広い地域で一斉に姿を消します。

「鰭」を上下にして銅鐸を横たえ、多数を一度に埋納する際には「入れ子」にして…と各地で同じやり方で埋納されています。

何故埋められたかについては諸説ありますが、流行りが終わり廃れて消えていく感じではありません。

意識的にキッパリと手放しています。

銅資源としても貴重であると思うのに、銅鏡に鋳直されることなく埋められます。

鋳直されなかったことを考えると、やはり敵対勢力から隠したと考えるべきでしょうか。

銅鐸は、それを用いて祭祀を行う古い共同体を象徴する祭器だったでしょう。

古い共同体の神は、何らかの理由で棄てられてしまいました。

 

約500例発見されている銅鐸は、ほぼ偶然に発見されたものです。

青銅器が発見されなければ、出雲の国は「神話の中だけのお話」でした。

今後、思いもかけないところから青銅器が発見されるなら、それは銅鐸のはず。

棄てられた、忘れ去られた神の祭器が出土することを熱望します。

 

 

 


銅鐸と銅鏡

2020-08-17 12:46:13 | 歴史

銅鐸と銅鏡、見た目にどちらが凄いと思うかと問われれば、悩むまでもなく

 銅鐸

と思うのは私だけでしょうか。

故に銅鐸から銅鏡に信仰の対象が変わったなどと、さらりと言われれば違和感を覚えてしまいます。

 

淡路島の松帆銅鐸の発掘により、初期銅鐸は紐で吊りさげて鳴らしていたことが判明しました。

銅鐸はキラキラ輝く上に鳴り響きます。「見る銅鐸」の大きさは鏡とは比べものになりません。

そんな銅鐸の金属光沢、音響効果、形状・大きさを知るものにとって銅鏡はどれほど魅力的に映ったか疑問に思うのです。

銅鐸同様姿を消した銅矛にしても、吉野ケ里遺跡周辺や荒神谷遺跡などから出る綾杉文状に模様をつけた銅矛は、太陽に直接光を当てたとき異常な反射をするといいます。

 

日本列島でしか出土しない三角縁神獣鏡は、3Dプリンターを使い精巧なレプリカを作成したところ、

反射した光が鏡の裏に描かれたものと同じ文様を映し出す「魔境現象」が起こることが分かったそうですね。

それは確かにすごいですが、銅鐸や銅矛を捨てさせるほどのものかと言われると、私には疑問です。

 

卑弥呼が鏡を祭祀に使用したとは魏志倭人伝には書かれていません。

国の統治にうまく利用せよと「銅鏡百枚」を与えたと書かれてあるだけです。

呪術的な意味があるには違いがないでしょうが、卑弥呼が鏡をどのように使っていたかは不明です。

辟邪?威信材?

一体どうやって使って、何故に首長は鏡をせっせと集め、何故に墓にせっせと副葬したのでしょう。

 

日本では鉄器と青銅器がほぼ同時期に伝わったので、実用性の低い青銅器を祭器にしたと言われています。

博物館などで銅鐸や銅鏡を見るにつけ思うことは、

 青銅は経年変化として 緑青を吹く

このことが祭器に使用された理由の一つなのではないでしょうか。

鉄と違って錆びてもキレイですし、内部腐食を防いで強くなるのですから。

 

 

 


褐鉄鉱製鉄②

2020-08-15 07:24:27 | 歴史

長浜浩明氏によると、

豊葦原とは貴重な褐鉄鉱を生む母なる葦原であり、豊葦原から生まれるスズより鉄を得、その鉄で農具を作り開墾して瑞穂の国を作る

これが「豊葦原の瑞穂の国」だといいます。

原始と変わらないような縄文時代を学校で教わった世代ですが、褐鉄鉱による鉄器を使い、陸稲のみならず水稲栽培でさえも行っていたのが本当の縄文時代であったなら…と想像するとワクワクしてきます。

 

愛知県指定天然記念物の褐鉄鉱を高師小僧(たかしこぞう)といいます。

豊橋市の高師が原で多く採れるのでそう名付けられたそうです。

この「高師」は越の訛りではないでしょうか。

古代の信越間は関わりが深かったと考えています。古代信越では褐鉄鉱製鉄が盛んに行われていたのではないかと思います。

 

ところで出雲国造神賀詞に登場する「賀夜奈流美(加夜奈留美)」(カヤナルミ)。

下照姫や野椎神と同一視されたり、伽耶国の姫じゃないかと言われながらも、何もわからないカヤナルミ。

 「茅」成る あるいは

 「茅」鳴る

で(美は神霊の意)

褐鉄鉱の女神だったりはしないでしょうか。

 


褐鉄鉱製鉄①

2020-08-12 10:38:06 | 歴史

真弓常忠氏の著作「古代の鉄と神々」によると、褐鉄鉱を原料とした製鉄が弥生時代に始まったといいます。

みすずかるは信濃にかかる枕詞です。

「みすず」とは鉄の原料であるすずの美称であり、すずとは湿地帯に生える葦や茅などの根に付着した褐鉄鉱のことです。

根に付着した褐鉄鉱が成長し、中が空洞になると同時に中に小さな塊が残り振ると音がするようになる、これが「すず」であり、

このすずがたくさん根に付着した様子が「すずなり」の語源だそうです。

諏訪湖は鉄分含有率が高く、諏訪湖畔では褐鉄鉱がたくさん産出されるようです。

すずがたくさん採れる地であるから信濃の枕詞が「みすずかる」になったといいます。

 

この葦の根などに付着した褐鉄鉱、かならず鈴の形状になるわけではありません。

形状が筒状のものであれば鉄鐸とそっくりです。

諏訪大社のシンボルの鉄鐸は、褐鉄鉱がたくさん採れますようにとの願いを込めて、褐鉄鉱をまねて作られたものなのでしょう。

 

百瀬高子氏著「御柱祭 火と鉄と神と」によると諏訪は縄文鉄器時代の製鉄王国だったといいます。

褐鉄鉱による製鉄が縄文時代から行われていたなら、銅鐸より鉄鐸が先に作られていたと考えられます。

長野県でも柳沢遺跡から銅鐸が出土しています。

銅鐸も鉄鐸も祭祀に用いられるものです。祭祀具には品格が必要だと考えます。

きらびやかな銅鐸の後に、褐鉄鉱を真似たとはいえ鉄板を丸めただけの鉄鐸(言い方が悪くてすみません)を作ろうとは思わないのではないでしょうか。

 

さなぎ鈴は青銅器が伝わる以前からあるもので、銅鐸の末裔ではないと思えてなりません。

 

 


小豆島は塩土島②

2020-08-10 07:48:23 | 歴史

小豆島には応神伝説が残されています。

応神紀・二十二年四月条に、応神天皇は淡路島から吉備そして小豆島を周遊したことが記されています。

現在も小豆島には応神天皇に因んだ八幡宮が5社あります。その一つ、富岡八幡神社は応神天皇が登った「塩土山」と呼ばれた小高い丘の上に建てられています。

応神天皇が来島の際「嶋景色 あそぶ魚鳥 いつらへの 海にかげある 塩土の山」という歌を詠まれたという伝承が残っているそうです。

小豆島がショウドシマと呼ばれるようになったのは、鎌倉中期以降だとされますが、住吉神の子とされる応神天皇の巡幸地に「塩土山」があることは興味深いことです。

 

住吉神は塩土老翁(しおつちのおじ)と同一視されています。日本書紀において山幸彦に海神の宮へ行く道を教え、神武天皇には東に美しい地があることを教えた神が塩土老翁です。

同様に神武天皇を大和の橿原まで導いたのが八咫烏であり、八咫烏は鴨建角身や迦毛大御神ことアジスキタカヒコネと同一視されています。

あるときは塩土老翁として、またあるときは八咫烏として神武天皇を導いたのが住吉神ことアジスキタカヒコネだったのではないでしょうか。

 

塩土老翁=住吉神=アジスキタカヒコネであるならば、

小豆島はアジスキのアズキ島であると同時に 塩土老翁のシオツチ島

なのではないでしょうか。

 

阿岐国多祁理宮がどこなのかは統一した意見はないようですが、安芸の宮島が宗像系海神族の拠点であることは間違いありません。

また播磨国風土記では袁布山で宗像のオキツシマヒメが伊和大神の子を出産したとあり、アジスキタカヒコネが生まれたのは播磨国だった可能性があります。

瀬戸内の要所小豆島が、宗像の島であった可能性は決して低くはないと考えます。

 

ところで、播磨国風土記において大汝命と息子の火明命の逸話の中で「蚕子(ひめこ)が落ちたところが日女道丘(ひめじおか)」との記載があり、兵庫県の姫路の地名の由来の一説となっています。

阿波へ行く道だから「淡路」なのであれば、姫路は「姫へ行く道」。

姫路から行く「姫」とは大野手姫なのではないでしょうか。姫路から小豆島へは今もフェリーが通っています。