古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

神武天皇はなぜ南九州からやって来たとされるのですか

2020-11-10 09:59:58 | 歴史

橿原遺跡、纏向遺跡の出土状況から鑑みるに、神武天皇や崇神天皇が南九州から来た人物だとは私には到底思えません。

唐古・鍵遺跡にしても巴形銅器が出土しているものの、縄文晩期の中部高地や飛騨に近い環状石斧が、弥生初期のものとして出土しています。

どうも奈良盆地には「東」から多くの人がきた様子です。

 

神武天皇はなぜ九州から来たと記されているのでしょうか。

実在する初代天皇であると考えられている崇神天皇の祖先が、九州からきた豪族だったと伝えられていたからでしょうか。

もし崇神天皇の祖先が九州からやって来ていたとするならば、神武天皇たる人物は、橿原遺跡にやって来たころにはその痕跡をわずかにしか残せないほどの弱小勢力でしかなかったと思われます。

崇神天皇の宮は発見されたのですから、今後、色濃く九州の痕跡が残る遺跡が発見されないでしょうか、磐余辺りから…。

 

もし神武天皇が架空の人物であったならどうでしょうか。

何のために架空の人物を南九州から出発させたのかが問題になると考えます。

「崇神天皇より先に、九州の勢力がヤマトの大王だったと主張したかったから」とは考えられないでしょうか。

 

日本書紀は持統天皇が天照大神として、藤原不比等が高皇産霊尊として描かれているという説があります。

天武天皇が編纂を命じた日本書紀ですが、編纂に時間がかかり天武天皇の存命中には出来上がっておりません。

記紀は結果、藤原氏によって藤原氏に都合のよい歴史に捻じ曲げられたという説が、昨今では多くの人から支持されています。

とすれば、藤原氏が最初の天皇だったと主張した神武天皇とは中大兄=天智天皇がモデルだったのではないでしょうか。

つまり天智天皇は大和王権の皇子だったわけではなく、南九州からやってきた一豪族。

九州は後にヤマトに加わったわけではなく、最初にヤマトに来たのが九州だったと偽装したのでは。

一豪族よりは力を持っていたと考えるなら、天智=九州王朝、天武=出雲王朝という関裕二氏の説もいいですね。

万葉集では中大兄=天智は皇子の扱いを受けていないともいわれていますし。

 

あるいはニギハヤヒや神武天皇は遺跡が語るとおり「東」から来た人だと仮定します。

蝦夷の地である「東」が始まりだったことを認めたくなかった藤原氏によって、全く反対の南九州からやって来たことにされた?

藤原氏が良い血統であると認めたくない蘇我氏や天武天皇が「東」の勢力だったから?

第2代天皇の「神淳名川耳尊」などはいかにも「越」からやって来た人っぽいですが。

 

私、レストランでの注文は早く決められるほうだと思います。

でも古代史となると、全然ダメ。

邪馬台国論争しかりですが、ああでもない、こうでもないと自説を持てずにいます。

神武天皇についても全然解りませんね・・・。


神武天皇はどこから来たのですか

2020-11-07 11:22:37 | 歴史

崇神天皇が実在する初代天皇であるなら、神武天皇から欠史8代の天皇は実在しなかったとみるべきなのでしょうか。

天皇家の歴史を古くみせるために、崇神天皇の主に前半生を神武天皇として書いたのだという有力な説があります。

しかし纏向遺跡の発掘が進み、纏向遺跡からは九州の土器がほとんど出ないことが判ってきた今、神武天皇と崇神天皇が同一人物とみるのは難しいように感じます。

崇神天皇と神武天皇が同一人物なら、崇神天皇は南九州からやって来た人のはず。纏向遺跡の出土物から考えるとそれはなさそうです。

 

では神武天皇は崇神天皇とは別人で、南九州から「橿原」にやって来た人なのでしょうか?

畝傍山の東南麓に広がる橿原遺跡は縄文から奈良時代までの遺跡群です。

諸説あるものの神武天皇が紀元前660年に即位したとするなら、神武天皇の頃に橿原に一つの勢力が存在したことは確かです。

ただし、統一王朝があったという話ではありません。

 

橿原遺跡からは近畿では突出した数の土偶が出土しています。

青森・亀ヶ岡式土器の西限端とされ、縄文晩期では東北の大洞土器や中部山岳、北陸の特徴を持った土器が出土しているようです。

九州地方の土器に類以する文様を持ったものも少量は出土しているようですが、東からの土器が圧倒的に多いのが、橿原遺跡です。

縄文後期に気候が寒冷化したために、東から人々が移動してきたのでしょうか。

神武天皇がどこかから橿原に来たというのであれば、西からではなく東からだと遺跡は語っています。

 

秋田物部文書では、ニギハヤヒは出羽の鳥海山に降臨し、東国を平定後に大和まで進んだと記されているそうです。

遺跡は記紀ではなく、秋田物部文書のいう「ニギハヤヒは東から来た」を明らかにしているように思えます。

もしニギハヤヒが東から来たとして、では神武天皇はどこから来たのでしょう?

南九州から来ていないのであれば、なぜ南九州から来たという設定になったのでしょうか?


紫香楽宮の三角形

2020-11-04 12:19:58 | 歴史

日本一有名なレイラインは「太陽の道」でしょうか。

北緯34度32分の線上に名だたる聖地が一直線に並んでいます。

淡路島の石上神社→大鳥大社→箸墓古墳→檜原神社→長谷寺→室生寺→伊勢斎宮跡というように東西200キロ近い距離に並ぶレイラインです。

こういった直線上のレイラインについては、春分、秋分、夏至、冬至の太陽の位置を観測しながら同緯度に聖地を見いだしていったのだと言われると、私のような者でもなんとなくわかったような気がします。なんとなくですよ、あくまでも。

 

しかし、例えば「近畿の五芒星」となるともういけません。

淡路島の伊弉諾神宮、熊野本宮大社、伊勢神宮内宮、福知山にある元伊勢・皇大神社、滋賀の伊吹山が大地の上に巨大な五芒星を描いているというのです。

そんなことできるものなのか。口をあけてアングリです。

 

レイラインについては興味を抱いており、高田崇史氏の著作「神器封殺」などは何度読んでも面白く大好きな一冊です。

ですから、石舞台古墳→応神天皇陵→摂津国一之宮・住吉大社→播磨国一之宮・伊和神社→伯耆国一之宮・倭文神社が一直線に並んでいるのを、蘇我氏のレイラインじゃないかと疑っているほどです。

 

もし、一直線だけでなく、巨大な五芒星さえも描けてしまうのだとしたら、気になるのが聖武天皇の紫香楽宮です。

紫香楽宮は八坂瓊勾玉の保管(?)場所としてぴったりだと思うのです。

伊勢神宮に八咫鏡、熱田神宮に草薙剣があるのですから。

伊勢神宮、熱田神宮、紫香楽宮跡はきれいな三角形を描いています。

(今回も地図は貼れません…)

 

聖武天皇が何故あれほど頻繁に遷都をしたのかはわかっておらず、紫香楽宮こそ八坂瓊勾玉を所持する場所として相応しいと、一瞬でも考えていたら面白いと思うのですが。

紫香楽宮で大仏を作ろうとしているのですから、大地に描かれた三角形は、ただの偶然なのでしょうね…。


住吉神の勝ち

2020-11-02 07:27:04 | 歴史

武内宿禰は景行天皇から仁徳天皇までの5代の天皇に仕えたといいます。

300年生きたというのは非現実的であり、実際は数人が継いでいる「武内宿禰職」だったのでしょう。

 

武内宿禰が数人いたならば、景行天皇に仕えた武内宿禰と神功皇后に仕えた武内宿禰が全く別の考えを持っていてもおかしくありません。

私はこの頃の天皇は連合国家ヤマトの「連合の盟主」だったと考えています。

景行天皇に仕えた武内宿禰は、日高見国を討ち取るように進言しています。

この武内宿禰は天皇が強い政治力をもつことを良しとし、専制君主たる天皇を目指していたと推測します。

天皇の専制君主制に反発したのが、九州や出雲や東海などであり、天皇やヤマトタケルはそれらのクニグニを諌めて回ったのではないでしょうか。

 

一方、神功皇后の側に仕えた武内宿禰は、その流れに危機を感じ、天皇は力を持ち過ぎなくてよい、連合の盟主たるべきだと考えたのではないでしょうか。

 

大分県の古要神社や福岡県の八幡古表神社などの神相撲では、住吉神が大活躍をします。

神相撲では最初は東西が交互に勝ち、やがて西方が連敗します。しかし最後に西方の小兵、住吉神が東方を次々と破っていくというストーリーになっています。

これは本当は負けてしまった住吉神を、神事では勝たせることで慰撫し祟らせないためだとの説があります。

しかし、住吉神は本当に勝ったのではないでしょうか。

 

専制君主を目指すヤマトから自治権を奪われぬよう抵抗していた九州。

旗色が悪くなっていく一方だったところ、神功皇后と共に武内宿禰が登場した。

この武内宿禰は「連合の盟主たる天皇」を良しとし、クニグニを強く縛らず、自治権を認める思考の人であった。

九州と通じあった神功皇后と武内宿禰は、専制君主を目指す仲哀天皇を殺し、九州の自治を約束した。

 

住吉神と武内宿禰は同一視させています。

私もずっと住吉神を慰撫するための神相撲だと思ってきました。

しかし、九州側と同じ意向の武内宿禰が現れて、東方にやられていた西方が実質的な勝ちを取った、これが神相撲のストーリーではないかと思う今日この頃です。