■弔い堂に関する覚え書き。
地域の方言によるものか、「とむらい」と発音するのが正式だと
思うが、「ともらいどう」と聞こえる。
この地域(福知山市三和町菟原)の墓は、山裾に村を見下ろすようにある。
墓に参るのは急な坂を登っていかなければならず距離もそこそこある。
今でこそ、階段やコンクリートによる舗装が
なされているが、昔は、土のままで雨の日は転ぶ人が多かった。
もちろん階段などなく、ただの坂だった。
そのため今でも
墓が上の方にある家はかなり億劫である。
相当な昔は今の天理教の近くに墓があり、弔い堂も村の中心あったらしい。
墓が近い事もあり先祖を供養しやすかった部分もあろうが
たぶん昔は土葬が中心だったゆえ、墓を村から離し、それに伴い
弔い堂も移築したのだろうと思える。
村の衛生面を考えてのことでしょう。たぶん移築に際してはそれを
決断する事の起こりなどがあったように思う。
今は火葬が中心になり、すっかり弔い堂の意味も失われた。
今でも、棺桶を運ぶ神輿のようなものがしまわれている。
昔は数人で死者を運び、また葬式そのものが地域を巻き込んだ
盛大なものだった。
不謹慎かと思う人もいるかもしれないが
「煮しめ」など村人総出で焚かれ、ある意味ごちそうにありつける時でも
あったように思える。
この弔い堂でどのように弔いが行われたのか
今はどれほどの人がおぼえているのだろう。
【ブログポリシー】
☆主に京都府福知山市三和町の風景、趣味・写真のことを伝えています。
☆地域についても・タオルに関しても・親しんでもらえる記事を心がけます。
地域の方言によるものか、「とむらい」と発音するのが正式だと
思うが、「ともらいどう」と聞こえる。
この地域(福知山市三和町菟原)の墓は、山裾に村を見下ろすようにある。
墓に参るのは急な坂を登っていかなければならず距離もそこそこある。
今でこそ、階段やコンクリートによる舗装が
なされているが、昔は、土のままで雨の日は転ぶ人が多かった。
もちろん階段などなく、ただの坂だった。
そのため今でも
墓が上の方にある家はかなり億劫である。
相当な昔は今の天理教の近くに墓があり、弔い堂も村の中心あったらしい。
墓が近い事もあり先祖を供養しやすかった部分もあろうが
たぶん昔は土葬が中心だったゆえ、墓を村から離し、それに伴い
弔い堂も移築したのだろうと思える。
村の衛生面を考えてのことでしょう。たぶん移築に際してはそれを
決断する事の起こりなどがあったように思う。
今は火葬が中心になり、すっかり弔い堂の意味も失われた。
今でも、棺桶を運ぶ神輿のようなものがしまわれている。
昔は数人で死者を運び、また葬式そのものが地域を巻き込んだ
盛大なものだった。
不謹慎かと思う人もいるかもしれないが
「煮しめ」など村人総出で焚かれ、ある意味ごちそうにありつける時でも
あったように思える。
この弔い堂でどのように弔いが行われたのか
今はどれほどの人がおぼえているのだろう。
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