2007年10月19日(金)の単行本版(改訂前)『マークスの山』 は、五 結実のp391から六 収穫の最後まで読了。つまり全て読了。
ほぼ当初から見込んだとおり、事件が終了する10月20日までに読み終えることが出来ました。
今回もタイトルは悩んだわ・・・。前回と同じく、困った時の義兄頼みで、義兄の台詞を。
【今回の名文・名台詞・名場面】
【お願い】 ピックアップした部分で「私の持っている『マークスの山』には、こんな文章は無かった」と気づかれた方。それは「改訂後」の可能性が高いです。よろしければ、ご一報下さいませ。私に、比較している余裕が無いものでして。よろしく願いいたします。
★「私らは、そういう物の考え方はしません。一枚嘘のカードが出てくると、残りも全部嘘だと考えます」
「一枚正しいカードが出てきたときは?」
「残り全部、やはり嘘だと考え、一枚一枚めくっていきます」 (p400)
おおお、さすが刑事・合田雄一郎! これが何で私生活に活かせんのだ・・・(小声)
★ひどい運命ね……と真知子は声に出して呟いた。
死にたい私は死ねなくて、やっと治ってこれから生きなきゃならないあんたは絞首刑よ。六人も殺して。罪の意味が分かったときには、あんた死んでるのよ。六人も殺して。ひどい運命ね……。 (p408)
入力してみて気づきましたが、マークスくんには「罪」とはどんなものなのか、恐らく理解出来ていない、分かっていないと思う。
★《一一〇番》という女性の応答が聞こえると、突然、臓腑をしぼられるような悲嘆に襲われて絶句してしまった。真知子は受話器を手にテーブルに平伏した。
「水沢を許してほしい! お願いだから……!」 (p408)
真知子さんの悲痛な叫び。もう、これしか言う言葉がないよね。
★「法律は庶民感覚がなくて守れるものか」 (p410)
・・・今となっては信じられない、若かりし林原氏の発言。もしも加納さんが耳にしたら、「その通り」と頷いていそうだ。
★自分も、あるいは加納も、なぜ山へ登るのか。(中略)
闇の圧力に耐えられない耳に幻の歌声が響き、熱の針のように感じられる寒さが凍った皮膚を刺し続け、判断力を失った頭にこの世のものでない絵姿が浮かび続ける、そうした山中の夜、興奮と鈍麻がくりかえし交代する中、自分がまるで別人になったような感じを懐く。
下界で生きているときには思いもよらない発展、爆発、開花を感じる。それは恐怖にも歓喜にもつながるような、不安定な精神状態だが、それこそが麻薬のように自分を吸い寄せるものに違いない。 (p425)
★殺人こそ犯すことはなかったが、情念の発作という意味ではそれに近い様態は、何度もあった。理由のない無言の憤怒、不安、陶酔がくり返し押し寄せ、加納とは真夜中にいきなり殴り合いを始めたこともある。互いの首に手をかけたこともある。
かと思えば、底雪崩の轟音が下ってくるのを聞きながら、ぼんやりと二人で坐ったまま動かず、《俺たち死ぬぞ》と笑っていたこともある。そのあと雪崩の爆風に吹き飛ばされて、互いの姿がしばし見えなくなると、突然激しい憎しみが走り、次いで《愛してる》と思った。憎しみ、愛していると感じたのは、雪と山と寒さと恐怖と、世界と加納のすべてだ。そうしたことを、これでもかというほどくり返しながら、岩稜が天に向かって続く限り、またひたすら登っていく。 (p425)
★山々に感応する者の心身は、あの五人の男たちがそうであったように、大なり小なり傍目には分からない隠微な暗い底を持っているのだろうか。狂気と一体の解放の予感に引かれて山へ登る人間がいるとしたら、この自分もその一人かもしれない。 (p425)
長い引用になりましたが、上記3つの引用。登山をしている人間でなければ、到底出てこない表現であり、世界観ではないでしょうか。この作品は、登山をする人間たちの隠微な部分を知らしめた作品でもありますね。
★「現実的であると同時に厭世的で、自己陶酔的で、限りなく献身的で利己的で、且つ……繊細なところが」 (p429)
お蘭の名言。これを単行本版『マークスの山』の中で、一番の名台詞に推挙する方も多いと思われる。
なのに私は未だにそらんじることが出来ない・・・覚える気ないんだろうか?(←多分)
★貴代子に未練がある、加納祐介に未練がある。それだけの事実であリ、権力や自分の社会的立場とも無縁な、個人の話だった。終わったのか終わっていないのか、結論を出さずにいることも含めて、そのまま受け入れたかった。何にも侵されない個人の領域を、自分に閉ざす理由はない。 (p429~430)
ここの部分の合田さんの加納兄妹へ対する想い、文庫版との違いがはっきり分かりますね。文庫版では「未練」なんてなかったでしょ、合田さん?
★「合田さん、山をよくご存知のようだが……」
「はあ。よく登ってました」
「やっぱり、そうですか……」
佐野は、三年前に初めて合田と出会ったとき、なぜか最初に連想したのがひたすら鋭く切り立った穂高連邦の垂壁であったことを思い出した。しかし今は、裾野がどっしりと広がり、なおかつ日本第二の高峰である北岳の伸びやかな雄姿の方が、似合っているかもしれないと思い始めていた。 (p432)
「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待つべし」という、『三国志』の呉の将軍・呂蒙の名言を思い浮かべてしまうような、佐野警部の合田さんへの瞠目ぶり。
★岩をよじ登る手足に、絶対的な無機物の冷たさが沁みていた。轟轟と鳴る空に生命の声はなかった。岩も雪もわずかな草苔も凍っていた。地球は温かい星だと、誰が言ったのだろう。生命の死こそここでは自然であり、生きている者こそ孤独だった。 (p438)
これも登山をしている人間でなければ、到底出てこない表現であり、世界観でしょう。
★合田は思い出した。この白峰三山の稜線に立つとき、東側に見えるのはいつも、どこまでも、空と光と、真正面に浮かぶ富士山頂の姿しかなかったことを。その手前にも背後にも、何もない。ここから望めるものは、日本一の富士一つだ。 (p440)
マークスくんは一瞬でも見ることが出来たんだろうか。せめて一筋の月明かりででも・・・。荒れた天候だったからダメか・・・。見せてやりたかったですね・・・。
この作品を読んで、北岳登山を実行された方々もたくさんいらっしゃるようです。登山が趣味の方々が、ブログで写真入りの記事をアップされています。それを拝見するのが、楽しみの一つ。
私は本日知ったばかりなんですが(苦笑)、毎日新聞の今夏の記事で、小説「マークスの山」の舞台、南アルプスの北岳を望むという、記者さんが訪ねる企画があったのですね。これって、東京版だけに掲載されたのですか?
★「祐介。頼みがある」 (p441)
何てことない合田さんの台詞ではありますが、実は悲愴な決意を秘めた呼びかけ。単行本版『マークスの山』で、唯一合田さんが加納さんの名前を呼ぶ場面なので、個人的に取り上げたかっただけでもあります(苦笑)
だけど合田さんも思い起こせば、「困った時の義兄頼み。あるいは苦しい時には祐介と呼べ」という無意識のパターンになっていることが多いですよねえ・・・。
★「なあ……正月登山は北岳にせえへんか」
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》 (p441)
単行本版『マークスの山』を締め括る、合田さんと加納さんの電話を介しての対話。
長編の<合田シリーズ>は、ほとんどのラストで義兄がおいしいところをさらっていくよなあ。まったくもって、これほどおいしいキャラクターはおりませんよ!
現在の連載でも、ラスト近くで加納さんの出番を設けていただきたいです、高村さん!(切なる希望)
さて、単行本版p441全てが文庫版では影も形もなく削除されております。「何で!?」と驚愕・落胆された方も多々いらっしゃると思います。
もちろん私も惜しいとは思うのですが、上梓されてしまったならば、それはそれで受け入れるしかない。義兄の言葉を借りるなら、
「自分の腹に収める場所を見つけるだけだ」 (『LJ』下巻p352)
・・・ということです。
しかし、この削除された理由は明白です。単行本版『マークスの山』が出来上がった時点では、『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 の構想が、白紙状態だったと思われるから。
ひょっしたら合田雄一郎という刑事の物語は、『マークスの山』ただ一作限りだったかもしれないからです。
続編の構想がないまま、単行本版『マークスの山』を作り上げた可能性の方が、断然高い。
そうでないと、『マークスの山』 と 『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 で、整合性がない部分が少しあることの説明がつかないんですよね。
単行本版p441では・・・ちょっとネタバレしますが・・・ただ一人残ったあの人を、とことん追いかけるという決意を、合田さんはしています。この一作限りで終わったとしたら、それはそれでいいのですよ。物語の終わりとしては、何の不思議もない。
また、正月の登山を北岳に、というのもどうでしょう? 合田さんとしては、事件のけじめをつけるという意味と、弔いという意味と、改めてこの事件を振り返ってみたいという意味が、含まれているような気もするんですよ。
だけど「刑事」として新たな事件に追われる身としては、一つの事件に立ち止まっていることは、許されないことでしょう。合田さんも 単行本版『照柿』 で義兄に言っています。
「それは違う。登山は、退いても何も減らんやないか。刑事の仕事は、一つ退くたびに、確実に何かが減っていく」
「何か、というのは」
「地歩みたいなもの……かな。手柄や地位の話やない。休みなく一歩一歩固めていかないと、己が立つ場所もないような感じだ。事件というのは、毎日毎日起こるからな……。退きたくても退く場所もない。せめてホシを追うことで、自分がやっとどこかに立っているという感じだ……」 (単行本版『照柿』p252~253)
だけど私たちはこの後に、『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 があることを、知っている。合田さんが登場する作品があり、彼の生き様や遭遇する事件があることを、知っている。現在の連載作品にも登場していることを、知っている。
ならば単行本版p441は、文字通り「蛇足」なわけです。<合田シリーズ> として続いていくことを知っていますから、文庫版で削除されても、何もおかしくはない。
文庫版では削除された代わりに、他の新しい場面がいくつか加わっていますから(それもまたおいしいですから)、両方楽しめる。それも良しということで、よろしいではありませんか。
***
これで マークスの山(単行本版改訂前) 再読日記 は終わりです。お付き合いありがとうございました。
時間を置いて、マークスの山(単行本版改訂後) 再読日記 や、中断している マークスの山(文庫版) 再読日記 も、再来年くらいにやりたいですね。(「来年」の間違いではないので悪しからず)
さて、これまた滞っている神の火(新版) 再読日記 神の火(旧版) 再読日記 李歐 再読日記 のいずれかをやらねば・・・。
「舞鶴地どり」もやり残している・・・。
ああ、宿題、たまりすぎ!
ほぼ当初から見込んだとおり、事件が終了する10月20日までに読み終えることが出来ました。
今回もタイトルは悩んだわ・・・。前回と同じく、困った時の義兄頼みで、義兄の台詞を。
【今回の名文・名台詞・名場面】
【お願い】 ピックアップした部分で「私の持っている『マークスの山』には、こんな文章は無かった」と気づかれた方。それは「改訂後」の可能性が高いです。よろしければ、ご一報下さいませ。私に、比較している余裕が無いものでして。よろしく願いいたします。
★「私らは、そういう物の考え方はしません。一枚嘘のカードが出てくると、残りも全部嘘だと考えます」
「一枚正しいカードが出てきたときは?」
「残り全部、やはり嘘だと考え、一枚一枚めくっていきます」 (p400)
おおお、さすが刑事・合田雄一郎! これが何で私生活に活かせんのだ・・・(小声)
★ひどい運命ね……と真知子は声に出して呟いた。
死にたい私は死ねなくて、やっと治ってこれから生きなきゃならないあんたは絞首刑よ。六人も殺して。罪の意味が分かったときには、あんた死んでるのよ。六人も殺して。ひどい運命ね……。 (p408)
入力してみて気づきましたが、マークスくんには「罪」とはどんなものなのか、恐らく理解出来ていない、分かっていないと思う。
★《一一〇番》という女性の応答が聞こえると、突然、臓腑をしぼられるような悲嘆に襲われて絶句してしまった。真知子は受話器を手にテーブルに平伏した。
「水沢を許してほしい! お願いだから……!」 (p408)
真知子さんの悲痛な叫び。もう、これしか言う言葉がないよね。
★「法律は庶民感覚がなくて守れるものか」 (p410)
・・・今となっては信じられない、若かりし林原氏の発言。もしも加納さんが耳にしたら、「その通り」と頷いていそうだ。
★自分も、あるいは加納も、なぜ山へ登るのか。(中略)
闇の圧力に耐えられない耳に幻の歌声が響き、熱の針のように感じられる寒さが凍った皮膚を刺し続け、判断力を失った頭にこの世のものでない絵姿が浮かび続ける、そうした山中の夜、興奮と鈍麻がくりかえし交代する中、自分がまるで別人になったような感じを懐く。
下界で生きているときには思いもよらない発展、爆発、開花を感じる。それは恐怖にも歓喜にもつながるような、不安定な精神状態だが、それこそが麻薬のように自分を吸い寄せるものに違いない。 (p425)
★殺人こそ犯すことはなかったが、情念の発作という意味ではそれに近い様態は、何度もあった。理由のない無言の憤怒、不安、陶酔がくり返し押し寄せ、加納とは真夜中にいきなり殴り合いを始めたこともある。互いの首に手をかけたこともある。
かと思えば、底雪崩の轟音が下ってくるのを聞きながら、ぼんやりと二人で坐ったまま動かず、《俺たち死ぬぞ》と笑っていたこともある。そのあと雪崩の爆風に吹き飛ばされて、互いの姿がしばし見えなくなると、突然激しい憎しみが走り、次いで《愛してる》と思った。憎しみ、愛していると感じたのは、雪と山と寒さと恐怖と、世界と加納のすべてだ。そうしたことを、これでもかというほどくり返しながら、岩稜が天に向かって続く限り、またひたすら登っていく。 (p425)
★山々に感応する者の心身は、あの五人の男たちがそうであったように、大なり小なり傍目には分からない隠微な暗い底を持っているのだろうか。狂気と一体の解放の予感に引かれて山へ登る人間がいるとしたら、この自分もその一人かもしれない。 (p425)
長い引用になりましたが、上記3つの引用。登山をしている人間でなければ、到底出てこない表現であり、世界観ではないでしょうか。この作品は、登山をする人間たちの隠微な部分を知らしめた作品でもありますね。
★「現実的であると同時に厭世的で、自己陶酔的で、限りなく献身的で利己的で、且つ……繊細なところが」 (p429)
お蘭の名言。これを単行本版『マークスの山』の中で、一番の名台詞に推挙する方も多いと思われる。
なのに私は未だにそらんじることが出来ない・・・覚える気ないんだろうか?(←多分)
★貴代子に未練がある、加納祐介に未練がある。それだけの事実であリ、権力や自分の社会的立場とも無縁な、個人の話だった。終わったのか終わっていないのか、結論を出さずにいることも含めて、そのまま受け入れたかった。何にも侵されない個人の領域を、自分に閉ざす理由はない。 (p429~430)
ここの部分の合田さんの加納兄妹へ対する想い、文庫版との違いがはっきり分かりますね。文庫版では「未練」なんてなかったでしょ、合田さん?
★「合田さん、山をよくご存知のようだが……」
「はあ。よく登ってました」
「やっぱり、そうですか……」
佐野は、三年前に初めて合田と出会ったとき、なぜか最初に連想したのがひたすら鋭く切り立った穂高連邦の垂壁であったことを思い出した。しかし今は、裾野がどっしりと広がり、なおかつ日本第二の高峰である北岳の伸びやかな雄姿の方が、似合っているかもしれないと思い始めていた。 (p432)
「士別れて三日なれば、即ち更に刮目して相待つべし」という、『三国志』の呉の将軍・呂蒙の名言を思い浮かべてしまうような、佐野警部の合田さんへの瞠目ぶり。
★岩をよじ登る手足に、絶対的な無機物の冷たさが沁みていた。轟轟と鳴る空に生命の声はなかった。岩も雪もわずかな草苔も凍っていた。地球は温かい星だと、誰が言ったのだろう。生命の死こそここでは自然であり、生きている者こそ孤独だった。 (p438)
これも登山をしている人間でなければ、到底出てこない表現であり、世界観でしょう。
★合田は思い出した。この白峰三山の稜線に立つとき、東側に見えるのはいつも、どこまでも、空と光と、真正面に浮かぶ富士山頂の姿しかなかったことを。その手前にも背後にも、何もない。ここから望めるものは、日本一の富士一つだ。 (p440)
マークスくんは一瞬でも見ることが出来たんだろうか。せめて一筋の月明かりででも・・・。荒れた天候だったからダメか・・・。見せてやりたかったですね・・・。
この作品を読んで、北岳登山を実行された方々もたくさんいらっしゃるようです。登山が趣味の方々が、ブログで写真入りの記事をアップされています。それを拝見するのが、楽しみの一つ。
私は本日知ったばかりなんですが(苦笑)、毎日新聞の今夏の記事で、小説「マークスの山」の舞台、南アルプスの北岳を望むという、記者さんが訪ねる企画があったのですね。これって、東京版だけに掲載されたのですか?
★「祐介。頼みがある」 (p441)
何てことない合田さんの台詞ではありますが、実は悲愴な決意を秘めた呼びかけ。単行本版『マークスの山』で、唯一合田さんが加納さんの名前を呼ぶ場面なので、個人的に取り上げたかっただけでもあります(苦笑)
だけど合田さんも思い起こせば、「困った時の義兄頼み。あるいは苦しい時には祐介と呼べ」という無意識のパターンになっていることが多いですよねえ・・・。
★「なあ……正月登山は北岳にせえへんか」
《いいとも。ゆっくりゆっくり登って、日本一の富士を眺めようか……》 (p441)
単行本版『マークスの山』を締め括る、合田さんと加納さんの電話を介しての対話。
長編の<合田シリーズ>は、ほとんどのラストで義兄がおいしいところをさらっていくよなあ。まったくもって、これほどおいしいキャラクターはおりませんよ!
現在の連載でも、ラスト近くで加納さんの出番を設けていただきたいです、高村さん!(切なる希望)
さて、単行本版p441全てが文庫版では影も形もなく削除されております。「何で!?」と驚愕・落胆された方も多々いらっしゃると思います。
もちろん私も惜しいとは思うのですが、上梓されてしまったならば、それはそれで受け入れるしかない。義兄の言葉を借りるなら、
「自分の腹に収める場所を見つけるだけだ」 (『LJ』下巻p352)
・・・ということです。
しかし、この削除された理由は明白です。単行本版『マークスの山』が出来上がった時点では、『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 の構想が、白紙状態だったと思われるから。
ひょっしたら合田雄一郎という刑事の物語は、『マークスの山』ただ一作限りだったかもしれないからです。
続編の構想がないまま、単行本版『マークスの山』を作り上げた可能性の方が、断然高い。
そうでないと、『マークスの山』 と 『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 で、整合性がない部分が少しあることの説明がつかないんですよね。
単行本版p441では・・・ちょっとネタバレしますが・・・ただ一人残ったあの人を、とことん追いかけるという決意を、合田さんはしています。この一作限りで終わったとしたら、それはそれでいいのですよ。物語の終わりとしては、何の不思議もない。
また、正月の登山を北岳に、というのもどうでしょう? 合田さんとしては、事件のけじめをつけるという意味と、弔いという意味と、改めてこの事件を振り返ってみたいという意味が、含まれているような気もするんですよ。
だけど「刑事」として新たな事件に追われる身としては、一つの事件に立ち止まっていることは、許されないことでしょう。合田さんも 単行本版『照柿』 で義兄に言っています。
「それは違う。登山は、退いても何も減らんやないか。刑事の仕事は、一つ退くたびに、確実に何かが減っていく」
「何か、というのは」
「地歩みたいなもの……かな。手柄や地位の話やない。休みなく一歩一歩固めていかないと、己が立つ場所もないような感じだ。事件というのは、毎日毎日起こるからな……。退きたくても退く場所もない。せめてホシを追うことで、自分がやっとどこかに立っているという感じだ……」 (単行本版『照柿』p252~253)
だけど私たちはこの後に、『照柿』 と 『レディ・ジョーカー』 があることを、知っている。合田さんが登場する作品があり、彼の生き様や遭遇する事件があることを、知っている。現在の連載作品にも登場していることを、知っている。
ならば単行本版p441は、文字通り「蛇足」なわけです。<合田シリーズ> として続いていくことを知っていますから、文庫版で削除されても、何もおかしくはない。
文庫版では削除された代わりに、他の新しい場面がいくつか加わっていますから(それもまたおいしいですから)、両方楽しめる。それも良しということで、よろしいではありませんか。
***
これで マークスの山(単行本版改訂前) 再読日記 は終わりです。お付き合いありがとうございました。
時間を置いて、マークスの山(単行本版改訂後) 再読日記 や、中断している マークスの山(文庫版) 再読日記 も、再来年くらいにやりたいですね。(「来年」の間違いではないので悪しからず)
さて、これまた滞っている神の火(新版) 再読日記 神の火(旧版) 再読日記 李歐 再読日記 のいずれかをやらねば・・・。
「舞鶴地どり」もやり残している・・・。
ああ、宿題、たまりすぎ!