あるタカムラーの墓碑銘

高村薫さんの作品とキャラクターたちをとことん愛し、こよなく愛してくっちゃべります
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『神曲』(ダンテ) 冒頭の原文

2015-09-22 16:41:57 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
最近読了した 『ヨーロッパ文学の読み方―古典篇』 と 『中世・ルネサンス文学』に、ダンテの『神曲』の冒頭部分の原文が掲載されていました。

この2冊、前者は「放送大学の印刷教材」、後者は「放送大学院の印刷教材」で、いわば姉妹編といった感じですね。

これだけネット社会になっても、言語が異なれば原文を探すのは一苦労だと思うし、せっかく見つけたので、ここに覚え書として記録しておきます。

まるっきし同じ・・・はずなんですが、印刷教材の表記が異なってるぞ~? あれ~?


Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
che la diritta via era smarrita.

『ヨーロッパ文学の読み方―古典篇』 「第8章 中世・ルネサンス(2) ダンテ『神曲』」のp148より


Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
ché la diritta via era smarrita.

『中世・ルネサンス文学』「第10章 信仰(1)――知と愛と幸福」のp184より

異なってるのは三行目の「ché」です。どっちが正しいのだ?

訳は今更いいですね。知りたい方は、単行本『照柿』(講談社)講談社文庫版『照柿』(上巻)新潮文庫版『照柿』(上巻) のいずれかを読みましょう~!


ところで皆さん、一再ならず調べたり、本を探されたりしたことがあるかと思うのですが、<『照柿』のダンテの『神曲』は誰が訳したものか?> という疑問を抱いたことがあるでしょう?
『神曲』が復刊されたり、新訳が出るたびにチェックしますが、どれもこれも当てはまらない!

上記に紹介した本を読んでいるうちに、

「これは高村さんが訳されたのではないのか!?」

とコペルニクス転回しました。

やはり決定的なのは 「わたくし」 の表記ですよね。
「これは高村さんの訳だろうな~・・・」と考えないと、ストンと腑に落ちない、すんなりと納得できないのですよ。
皆さん、いかがでしょうか?

以前も記したと思いますが、「図書」(岩波新書)で連載されていた河島英昭さんが訳された『神曲』の書籍化待ちなんですが、まだですかー!? いつになったら発売するんですかー!?
叶うならば、岩波文庫でお願いしたいです!

***

9月末に発売の 『空海』 のカバー表紙が公式サイトに出ましたね。
題字を見た瞬間、「ああ、高村さんの字だな」と分かりますね。

新聞ではカラー写真が満載でしたが、今回は白黒写真になるのかなあ・・・。


『浅草紅団/浅草祭』 (川端康成)

2014-05-06 23:41:18 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
『晴子情歌』(上巻)に出てくる小説。 作中では『淺草紅團』と表記。

淺草紅團の弓子は何とまァ刺激的だらうとわくわくしたり、 (文庫上巻p76)

昔讀んだ『淺草紅團』を思ひだしたり、 (文庫上巻p301)


増税前に書店で、「買い忘れはないかな~」と棚を眺めていたら、講談社文芸文庫の棚でこれを見つけたので買いました。
「え!? 川端康成!?」と名前を二度見。『晴子情歌』には作者名がなかったから、分からなかった。

読んだのは先月。
実は川端康成の小説は、国語の教科書で見た覚えも習った記憶もない。
代表作に挙げられる『伊豆の踊り子』も『雪国』も、それなりにあらすじは知ってるが、まともに読んでない。
恐らく最初に読んだ川端作品で、きっと最後に読んだ川端作品になるであろう・・・(この意味、分かるね?)

巻末の著書目録を見たら、最初期の作品のようですね。

読んで吃驚仰天! これって小説なの? 随筆なの? それとも両方?
ごっちゃごちゃになって入り混じって、何がなんだかさっぱり分からん。
こんなにも破綻した内容の作品を読んだのは、生まれて初めてかもしれん。

「これは川端康成の視点?」 「あれ? さっきまで弓子のそばにいた男って、川端康成じゃなかったっけ? この男、誰?」 「また突然唐突に、別の人物を出してくるのか、川端康成!」

等々、イライラしてページを繰ったり、逆にページを戻すこともしばしば。

しかも続編の「浅草祭」の序に、

「淺草紅團」がこれほど下らない作品だとは、私自身夢にも思わなかったのである。 (「浅草祭」p204)

と堂々と書いてある(爆) 本人も自覚してるのか!

それでもこの作品のおかげで、当時は浅草を訪れる人たちがドッと増えたそうで、今でいうところの観光案内のように活用されたとか。

今でも残っている言葉(方言・俗語)や、当時流行ったのであろうご当地業界用語(←私が勝手に命名)もあって、そこは面白かった。

「この間お糸に紹介してくれたのはいいが、私と歩くのはヤバイ(危い)からお止しなさいって言うんだ。」 (「浅草紅団」p134)

この「ヤバイ(危い)」は今も残ってますね。

他にもありますが、文章でなく語句で引用してみます。由来がとんと見当つかないものもあれば、芸能界業界用語のようにひっくり返しただけのものもありますね。

・ドヤ(木賃宿)  ・オカン(露宿)  ・ビタニノル(旅に出る)  ・ヒンマガレ(成金になる)  ・スメ(娘)  ・コマス(たぶらかす)  ・ハクイ(美しい)  ・ナゴコマシ(色魔)  ・ヨウラン(洋服)  ・ランバッちゃうんだ(衣裳で体裁を飾ること)  ・ガセツウ屋(贋札屋)  ・チギ百パイ(千円)  ・ベシャルな(しゃべるな)  (「浅草紅団」p149~150)


なんだかんだとお茶を濁してきましたが、本郷に住んでいた晴子さんには身近な場所だったと思われるし、東京を離れてからは数少ない「東京」を偲ばせる小説だったのかもしれません。

最後に1つだけピックアップして、この作品としばしお別れ。
男性作家が見た「女性」「少女」の、今現在に続く都合のいい典型的な雛形を感じるな・・・と思った次第。


春子が弓子とちがうところは――そうだ、誰かほかの女と春子を比べてみるがいい。彼女はどんな女よりも、どこかがより多く女である。
ほんとうの女には悲劇がない。春子を見ていると、誰もそう思う。春子には悲劇がない、と思わせるかわりに、ほんとうの女には悲劇がない、と思いこませてしまう。――少なくとも彼女は、そのような女である。
 (「浅草紅団」p95~96)


女性から見ると、「違うんじゃないの? 勝手にそう思い込んでるだけよ。分かってないのね」 になるんだけど。


『チボー家の人々2 少年園』 (ロジェ・マルタン・デュ・ガール) 

2014-05-05 23:40:11 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
これで最後ですが、念のため。
閉鎖した読書ブログでアップした記事で、高村薫作品に出てきた本の雑感をこちらに移行しました。
内容はほぼ当時のままですが、多少は読みやすいように調整しました。
私の性格上、中途半端な雑感です。それに小説の内容も忘れてる(苦笑)
その点は含みおきください。

***

※以下、2006年5月5日(金)に別ブログでアップしたものです。

「だまって、だまって……兄さんにはわからないんだ。兄さんにはとてもわからないんだ……」 (p185)


白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月9日から12日。
これも風邪をひいて、しんどい時期に読んでました。

「少年園」。この聞き慣れない言葉。「感化院」もしくは「少年院」の方が、日本人にはしっくりくると思う。
1900年代のフランスには、とっくにあったのですね。
日本と違うのは、宗教色が強いことではないでしょうか。日本では、「感化院」は宗教法人が管轄していない限り、ミサやお経もあげないでしょう。(日本の「少年院」は個人施設ではありませんしね)


前巻の 『チボー家の人々1 灰色のノート』 の最後で、父親のオスカールによって少年園へ収容されることになったジャック。
しかもそれがオスカール・チボーの名を冠した施設だから、そういう意味では「父親の支配」からは未だに逃れられないことになる。
そのジャックの暮らしている少年園へ、兄のアントワーヌが訪ねるところから、第2巻が始まる。

弟の変貌に驚くアントワーヌ。兄と過ごすうちに、徐々に本心や生活ぶりを吐露していくジャック。
「このままではいけない」と感じたアントワーヌは、父の反対を押し切ってジャックをパリに連れ戻す。


《ヴェカールさんは〈チボー家の自負心〉とも言った。たとえばおやじのごとき……たしかにそれだ。だが、このおれは、そうだ、もちろん自負心の持ち主だ。それを持っているのがどうして悪い? 自負心というやつ、それはおれにとってのてこなんだ。あらゆる力を動かすてこだ。おれはそれを使う。おれにはそれを使う権利がある。何よりさきに自分の力を利用すること、それが肝心ではないだろうか? しからば、このおれの力とはいったいなんだ?》 (p148)


この頃のアントワーヌも、前巻のジャックやダニエルとはまた違った意味で、「若いな・・・」「青いな・・・」と感じてしまう。前者二人は十代の若さと青さ、後者は二十代の若さと青さですが・・・このニュアンスの違い、分かりますかねえ?


《それはよくわかっている。まず、おれは理解が早い。そして物おぼえがいい。これは何物かだ。つぎには勉強の能力。〈チボーのやつは牛のようにはたらく!〉大いにけっこう。言いたいやつには言わせておくさ! みんな、できればそうしたいと思ってるんだ。つぎにはなんだ? 精力、そうだ、あの〈す――ば――ら――し――い――精力〉》 (中略) 《それは一種のポテンシャルというようなものだ……それは十二分に充電され、働きかけるばかりになっていて、このおれに、どんなことでもさせてくれるところの蓄電池だ。だが、たといそれらすべての力があったにしても、ねえ神父さん、それを使うてこがなかったらどういうことになりましょう?》 (p148~149)


前途有望、優秀、研究熱心な小児科医アントワーヌ・チボーの誕生。その輝かしい未来に酔っている観があるアントワーヌ。

でも、その気持ちは分からないでもないんですよ・・・。我が身を振り返ってみますとね・・・(苦笑)


「兄弟! それは単に、血をおなじくしているというだけのことではない。生まれたときから、まったく株をおなじくし、樹液をおなじくし、いきおいをおなじくしているということなんだ! ふたりは単に、アントワーヌ、ジャックというふたりの個人ではない。ぼくたちは、チボー家に生まれたふたりの人だ。われらはじつにチボー家なのだ」 (p164)


九歳も年の差のあるアントワーヌとジャック。このひとときが、二人が初めて「兄」「弟」と認識し合った証ではなかろうか。「チボー家の人間」であると認知した瞬間ではなかろうか。

「チボー家の人間」・・・それはつまるところ、彼らの父・オスカールの血を、いやでも受け継いでいるということに、二人はまだ自覚していないように見受けられる。

パリに戻ったジャックは、早速ダニエルと会おうとするが、オスカールに禁じられ、アントワーヌにも止められる。諍う二人。世間一般で言う「兄弟喧嘩」とは程遠く、保護者と被保護者という関係にも見える。

アントワーヌの付き添いで、ようやくジャックはフォンタナン家でダニエルと会うことになる。妹のジェンニー、そしてノエミ・プティ・デュトルイユ(ジェローム・ドゥ・フォンタナンの愛人の一人)の娘・ニコルとも知り合う。
ニコルは、ブリュッセルから逃げてきたのだった。

そのニコルに惹かれるダニエル。何とか口実を設け、既成関係(・・・という表現しか思い浮かびません・苦笑)を作ろうとするダニエルに、ニコルはジェロームの面影を見る。母を誘惑した男と同じ顔を。


「あたしの一生をだいなしにしないで」 (p239)


ニコルは、ダニエルの誘惑をはねのけた。
前巻で「男女の快楽」を知ってしまったダニエルは、これに懲りずにこれからも「男女の快楽」を追求していくんだろう。期せずして、父・ジェロームとそっくりに。その因果応報、しっぺ返しは、次巻の第三部で語られるだろう。

一方のジャックにも、初体験の機会が訪れる。チボー家の家番のフリューリンクばあさんの姪・リスベットがその相手。(ジャックは知る由もないが、彼女はアントワーヌとも関係を持っていた)

一度はジャックの前から姿を消したリスベット。しかしフリューリンクばあさんが死亡した時、再び姿を現し、二人は結ばれる。最初で最後の行為。
こうしてジャックは、身体上では少年期を脱した。しかし精神上では、未だに「少年」を残している。年齢や経験を重ねても、精神的に「大人」になれない人間は多々いるが、ジャックもそういう人間の一人。
少年園で自我を殺されるような生活を送り、少年園を出た後に、諸々の現実にぶち当たり、困難を直視し、対峙しなければならないことに、「少年」であるジャックは、どう対応していくのか。


「孤独というものは、人を変えてしまうからな」 (中略) 「あらゆることに無神経になっちまうんだ。何かしら、こうぼんやりした恐怖とでもいったようなものがいつも身について離れないんだ。何か動作をする。だが、何も考えてなんかいないんだ。長いうちには、自分がいったい誰なのか、自分がはたして生きているのか、それさえ忘れてしまうんだ。とどのつまりは死んでしまう……それでなければ、気ちがいになるんだな」 (p214~215)


余談ながら、冒頭のジャックの台詞は、『灰色のノート』の冒頭のジャックの台詞と、わざと正反対のものを選びました。


※以上、2006年5月5日(金)に別ブログでアップしたものです。

『チボー家の人々1 灰色のノート』 (ロジェ・マルタン・デュ・ガール)

2014-05-05 23:26:03 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
しつこいですが、念のため。
閉鎖した読書ブログでアップしていたもので、高村薫作品に出てきた本の雑感をこちらに移行しました。
内容はほぼ当時のままですが、多少は読みやすいように調整しました。
私の性格上、中途半端な雑感です。それに小説の内容も忘れてる(苦笑)
その点は含みおきください。

***

※以下、2006年3月20日に別ブログでアップしたものです。

「家では」と彼はつづけた。「誰もわかってなんかくれやしない。もしぼくが詩をつくってるなんてわかったら、きっとじゃまされるにきまってるんだ。ところが、兄さんは――兄さんは、あの人たちとはちがってる」 (p165)


白水uブックス。訳者は山内義雄。読んだのは2006年1月5日と6日。
ちょうど風邪をひいてしんどい時期で、第1巻は医院の待合室で読了したんです。そのせいでちょっと内容の記憶があいまいだったりも・・・(苦笑)

『チボー家の人々』 を読もうと思ったきっかけは、高村薫 『レディ・ジョーカー』 並びに 五木寛之・塩野七生 『おとな二人の午後』 に登場していて興味を持ったから。
去年(2005年)の自分への誕生日プレゼントとして、二日に分けて全13巻買いました。

今回記事にするにあたり、付箋紙を貼った部分だけ読み返してみました。uブックス版で全8部・全13巻に及ぶ大作ですし(単行本では全5巻)、一括で記事にすることは私には到底出来ないので、1巻ずつ簡単な内容と感想などを、多少のネタバレを交えてアップしていきます。

タイトルは 『チボー家の人々』 であっても、実質はカトリックのチボー家と、プロテスタントのフォンタナン家を中心に展開していく。
まずは主人公の一人であるジャック・チボーの人物描写を、ダニエル・ドゥ・フォンタナンからの視点で取り上げておく。


自分自身を、ただ習慣と規律の中に眠らせている少年たちあいだにあって、また、年齢やしきたりの中にエネルギーをつかいはたしてしまった教師たちのかたわらにあって、この一見無愛想な顔だちでいながら、いつも淡白さと強い意思の爆発をしめしつづけていたなまけ者の少年――自分で、そして自分自身のためだけに作った気まぐれな世界の中に住んでいるといったようなこの少年、危険などは物ともせず、なんらためらうことなく、突拍子もないできごとの中に飛びこんで行くといったようなこの少年――この小さな怪物とでもいったようなこの少年こそは、一方では人々に恐怖の念を起こさせるとともに、他方では、無意識のうちに、尊敬の気持ちを起こさせずにはいなかった。 (p99)


物語は1904年のフランス・パリ、共に十四歳のジャックとダニエルが、学校側からのある仕打ちに耐えかねて家出を決行してしまい、ジャックの父で実業家のオスカール、兄で小児科医のアントワーヌが、学校に向かうところから始まる。

ある仕打ちとは、ジャックとダニエルが取り交わした秘密のノート――日本の言葉で置き換えると「交換日記」ですね――が学校側に見つかり、二人に「同性愛」の嫌疑がかけられたこと。
このノートが、今回のタイトルにもなっている。

十四歳の二人が取り交わした内容は、大人の私が読むと「若いな・・・」「青いな・・・」と感じる。しかし少年少女だった十代の頃ならば、この程度は背伸びしていたかもしれない、と多少の懐かしさも覚えた。

俗な言葉で言えば、冒頭に挙げたジャックの言葉にあるように、「大人はわかってくれない」のだ。


ああ! なんとしてでもこうした心の涸れないように! おそれるところは、生活が、心や感覚を硬化させてしまうことだ。ぼくは老いる。神、聖霊、愛、そうした高邁な観念は、すでに昔のようにぼくの心に響きを立てない。そして、すべてをむしばむ《疑惑》は、おりおりぼくをも食んでいる。おお、論議をすてて、なぜ全身の力をあげて生きようとはしない? ぼくらはあまりにも考えすぎる。ぼくのうらやむのは、あの青春の意気なのだ。つまり、わきめもふらず、考えなおしたりすることなく、危険めがけておどりかかっていくことなのだ! (p84)


ダニエルの執筆したものから、一つ抜粋。今どきの日本の十四歳は、こんなことを考えているんだろうか・・・?


卑怯な振舞いはぜったいやめよう! 嵐に向かって突進するのだ! むしろ進んで死をえらぼう!
われらの愛は、誹謗、威嚇の上にある!
ふたりでそれを証明しよう!
  命をかけてきみのものなる                    
J. (p93)



Jはもちろん、ジャックのこと。ノートに挟まれていたこの手紙の一文で、二人の「同性愛」の嫌疑が決定的なものになってしまった。
家も学校も飛び出した二人は、しかし、そのような関係に陥ることはなかった。
二人が「同性愛の関係」にあると周囲が誤解するかのような言葉のやり取りは、「肉体の関係」ではなく、「精神と魂の関係」であったから。それを害され、邪魔されたので、二人は憤慨して家と学校を飛び出したのだ。

この二人は周囲が懸念しているように、決して「肉体の関係」に進むことはない。むしろ「精神と魂の関係」に、ぐらつきが見え始める。それを示す秀逸な描写がある。家出の初日、宿をとり、空腹のまま部屋に入った場面だ。


部屋にはいるなり、お互いの見ている前で裸にならなければならないことに気のついたふたりは、おなじことを思って当惑していた。 (p95)


精神や魂の素晴らしさと美しさを高く謳い上げる言葉は、空腹、疲労、眠気などの前には、何の役にも立たないことを知る。初めての現実を直視し、認識したのが、お互いの裸体を見た瞬間に起こったのが、皮肉。

この家出期間中、ジャックとはぐれたダニエルは、ひょんなことから見知らぬ女性の家に泊まり、初体験を済ます。
ここでダニエルは「少年」から「大人」へと変化してしまった。この「変化」が、良いものになるか悪いものになるかは、次巻以降を読まねば解らない。

結局二人は見つかり、パリに連れ戻される。二人の魂で結ばれた信頼関係の証明も出来ず、死を選ぶこともなく、悲しくも現実に破れたのだ。
ダニエルは母親によって優しく受け入れられたが、ジャックは厳格な父親によって、処罰を与えられる。それは第2巻の物語へ続く・・・。

第1巻の「メインストーリー」は以上だが、私はそれにはあまり興味を覚えなかった。ジャックとダニエルに共感しにくかった、というのが正直なところ。この年代の少年って、ホントに難しい部分がありますからね。
「少年」というものは、女性には永遠に解けない謎のような存在だから。

それに長い小説の、ほんの出だしの部分。これからどういう展開を見せるのか、読み手は書き手の繰り出す物語に、身を委ねるしかないからです。

それでも興味をひいた部分はやはりあって、私の場合、ダニエルの母のテレーズ・ドゥ・フォンタナン夫人の存在が、それに該当する。
ダニエルの家出に加え、娘でダニエルの妹・ジェンニーが倒れ、心身ともにまいった状態でありながら、頼りになるのは放蕩者であっても夫であるジェロームしかいないと、心当たりを訪ね歩く姿の愚かしさが、印象に残った。
このジェロームという男が、もう本当にどうしようもない男で!(笑) ある女性を陥落させては、また別の女性を手中に・・・の繰り返し。
この第1巻だけでも判明しているのは、フォンタナン家で働いていた女中のマリエットと、フォンタナン夫人のいとこにあたるノエミ・プティ・デュトルイユを誘惑し、挙げ句の果てにノエミの小間使いと逃げた・・・という凄まじさ。

こういうタイプの男は、呆れるほどに古今東西を問わずにいるもんだなあ。
そして、こういう男と別れられない哀れな女も。「今度ばかりは許さないでおこう」「今度こそ別れよう」と決意しても、フォンタナン夫人は、男の繰り出す巧みで悪知恵の働いた言葉、自己弁護に満ちた甘美な言葉に惑わされ、毅然とした態度をとっても、今回も許してしまうのだ・・・。
私がフォンタナン夫人を「愚かしい」と評した要因が、ここにある。


「悪しき所業には、悪しき動機という以外に、ほかに動機があり得るんだ。人はとかく、本能のはげしい満足といったように考えやすい。だが、事実においては、往々、いや、しばしば、それ自身としてりっぱな感情――たとえばあわれみといった感情に動かされてやっていることがあり得るんだ」 (p153)


※以上、2006年3月20日に別ブログでアップしたものです。


『ダブリンの市民』 (ジェイムズ・ジョイス)

2014-05-04 21:32:40 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
前回も記しましたが、今回も念のため。

別の読書ブログでアップしていたものを、ブログ閉鎖のためこちらに移行しました。
内容は当時のままですが、多少は読みやすいように調整しました。
私の性格上、中途半端な雑感です。それに小説の内容も忘れてる(苦笑)
その点は含みおきください。

***

※以下、2005年7月17日に別ブログでアップしたものです。

ダブリンは小さな街だ。みんなが他人のことを知っている。  (「下宿屋」p116)


岩波文庫。訳者は結城英雄さん。ジョイスの作品を読むのは、これが初めて。
読んだのは2004年8月初旬。その年の2月に岩波文庫の新刊で出たので、「いい機会だし、読んでみよう」と思い立つ。


『ダブリンの市民』 こと 『Dubliners』 を初めて知ったのは、高村薫さんの 『神の火』(新版の文庫の方)。この作品の主要人物の一人・高塚良ちゃんが書いた手紙に、綴られていた。

世界じゅうの悲しい歌がみんな美しい旋律をもっているのは不思議なことです。 (『神の火』上巻p287)

この一文に惹かれて、「読んでみたい」と思ったのです。同じく高村薫さんの 『リヴィエラを撃て』 にも、IRAの合言葉で出ていたなあ、と後で気づきました。先に『リヴィエラを撃て』 を読んでいたのに・・・(苦笑)

受話器の向こうで、仲間の声が《ジョイス》と応えた。ジャックは「ダブリナー」と応じて、用件を切り出した。 (『リヴィエラを撃て』上巻p176~177)


15の中短編集。各話の扉に、物語にちなんでいるだろうダブリンの写真が添えられている。
この小説に描かれているのは、ダブリンに住み、暮らし、そして一生を終えるだろう「普通の人々」。

どれも「普通」のお話ではあるけど、何だかありきたりの「普通」ではない。

男と男の愛は不可能だ。なぜなら性行為があってはならないから。男と女の友情は不可能だ。なぜなら性行為がなければならないから。  (「痛ましい事故」p200)


登場人物たちは、どこにでもいそうな人ばかり。その中での「普通」の欺瞞や欲望、判を押したような生活の繰り返しと、そこから生じてくるやり場のない怒り、微かな希望やその後の失望などが、淡々と描かれている。


――ええ、もちろんです、とミスター・パワーが言った、偉大なる精神は物事を見通せるものですよ。
――詩人の言葉によるとですね、《偉大なる精神は狂気と紙一重》、とミスター・フォーガティが言った。
  (「恩寵」p305)


その「普通」さが、気持ち悪い余韻の残るお話ばかりで(苦笑) 言い換えるなら、短編の推理サスペンス物にある、気持ちの悪いオチ、又は後味の悪いオチと似ている気がした。

だから、「爽快感」を求めるお話ではありませんね。どちらかと言えば、「不快感」と「不信感」を覚える作品。
「人間の本性って、こんなものさ」とジョイスは訴えているかのよう。だから、私のようなネガティブな人間向きの作品だ(苦笑)

ただ、当時のアイルランドとその人々や時代を知る上でも、貴重な作品だと思う。数百年にも及ぶイギリスとの関係が、アイルランド(ダブリン)の人々に、どのような暗い影を落としていたのかが、垣間見えるから。イギリス贔屓のアイルランド人を「西のイギリス人」と呼んだことからも、明らかだろう。


寛容の涙がゲイブリエルのあふれた。自分自身、これまでどんな女にもこのような感情をもったことがなかった。だが、このような感情が愛に違いないことはわかる。  (「死者たち」p405)

(良ちゃんが手紙に書いた一文は、「死者たち」の物語から導き出されたものです。)


※以上、2005年7月17日に別ブログでアップしたものです。


『ブッデンブローク家の人びと』(上巻) (トーマス・マン) 

2014-05-03 23:19:21 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
まずは説明。

いきなりなんじゃ? と思われたかもしれませんが、数年前までこのブログと平行して、読書ブログをしていたことがありました。
そのブログはプロバイダー提供のもので、現在住んでいるところに引っ越しした際にプロバイダーを解約、使用できなくなりました。
その際に投稿した記事をパソコンに保存したことは言うまでもないでしょう。

その中に、高村薫作品に出てくる本を読んだ感想が、いくつかあります。
眠らせてるのがもったいないので、こちらのブログのこのカテゴリで改めてアップします。

当時のままですが、多少は読みやすいように調整しました。
私の性格上、中途半端な雑感です。それに小説の内容も忘れてる(苦笑)
その点は含みおきください。

***

※以下、2007年4月1日に別ブログでアップしたものです。

「分割払いとはね! 分割払いというのは、ある人間の支払い能力を試してみる便法ですよ!」  (p297)


岩波文庫。訳者は望月市恵さん。2005年の夏の一括重版で、入手。上巻を読んだのは2007年1月10~16日。
文庫で全3巻ありますが、一巻ずつアップしていきましょう。 (とはいえ、上巻しかアップしてません)

トーマス・マンの作品を読むのは、『ヴェニスに死す』(新潮文庫) を読んで以来。
(余談ですが、ヴェネツィア表記の方が、いいよね。光文社古典新訳文庫で発売されたものは、『ヴェネツィアに死す』になっていました)

『ブッデンブローク家の人びと』 を読むきっかけになったのは、これも高村薫さんの作品 『レディ・ジョーカー』(毎日新聞社) を読んだ時。主人公の一人・合田雄一郎さんのある時期の読書遍歴が紹介されていた部分がありました。

なるべく長いやつを選んで、七月には『ブッデンブローク家の人々』と『ユリシーズ』と『大菩薩峠』を読み、八月には『カラマーゾフの兄弟』『ジャン・クリストフ』『チボー家の人々』と続いてきて、まだ五巻目の三分の二が残っていた。 (『レディ・ジョーカー』 単行本下巻p264~265)

ここで私は 『チボー家の人々』 を昨年(2006年)読破し(←感想記事も、途中で止まったままやん)、『ブッデンブローク家の人びと』 を今年の初めに購読し、『カラマーゾフの兄弟』 を現在買っているわけです。(全巻揃ってから読みたいと思っている。・・・あくまで「思っている」です。今年中には、読む予定なし。読みたいのは、買ったままになっている 『罪と罰』)

前置きはここまでにして・・・。
見開きにある簡単な内容紹介には、「ドイツの一ブルジョア家庭の変遷を四代にわたって描く」とあります。
ブッデンブローク商会がどのように栄え、どのように危機を乗り越え、どのように名誉を手にし、どのように没落していったのか・・・。

最初はちょっととっかかりにくかったんですが、読み進むうちに、キャラクターを見守っていくような気持ちになっていく、この不思議さ。
アントーニエ(愛称トーニ)の愚かしさと無知と小賢しさが愛らしく思えたり、兄のトーマス(愛称トム)の頼もしさに、トーニを羨ましく思えたり・・・。
長編作品を読む時には、どうしてもキャラクターに愛着を覚えていきますね・・・えっ、私だけ?

当時のドイツの各都市の風習や生活、歴史背景・・・ナポレオンがヨーロッパ全土をかき乱した直後の頃から物語が始まるので、高校の世界史の授業でその辺りを習っていなかった私には、これはちょっと苦手な部分ではありました。
しかしナポレオンという存在が、市井の人々の意識を変えたというのは否めません。トーニの初恋の相手、モルテンが言うように・・・。


みんなが同一の権利を持つ国民の一人であって、神と庶民の間に仲介者が存在しなくなるように、市民は国家に直接向かい合うべきです! (中略) 真実はなんにも書いてはならないし、学生に教えることもならない。真実は、現行の秩序制度に一致しないだろうからというのです。……よろしいですか? 真実は抑圧され、発言は封じられたのです。 (中略)
暴力、この愚劣で粗野で、この世をわがもの顔にしている警察力、――精神的なもの、新しいものをなんにも理解できない警察力。  (p198)


更には商売やお金にまつわる内容も出てきますので、読むのが辛い部分もありました。
(この「辛い」というのは、決して私がそれらに疎いという意味ではなく、また別の意味でのこと)

何というか、身につまされるというか・・・(苦笑) お金は人を幸にも不幸にもするんです、はい。
今回最初と最後に取り上げた引用部分も、それに関するもの。


この瞬間になってから、「破産」という言葉の意味が、初めてはっきりとし、子供のころからその言葉に感じていた漠然とした恐ろしさが、よみ返ってきた。……「破産」……それは死よりもぞっとするものであった。混乱、崩壊、零落、汚辱、屈辱、絶望、悲惨であった。  (p309)


※以上、2007年4月1日に別ブログでアップしたものです。

***

中巻・下巻の雑感を作成するには、改めて文庫を引っ張り出してこなきゃ(苦笑)
まずは当時の読書ブログの記事を移行してから、その後どうするか、です。


「君はさしずめどんな小説がお好みなのかな?」 「スタインベック」

2008-07-01 00:44:48 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
とは、文庫版『リヴィエラを撃て』(双葉文庫 上巻p471)にある、ダーラム侯とジャックの会話。単行本版にはありません。
(なぜ双葉文庫版で紹介したのかについては、後ほどお分かりになるでしょう。でも、新潮文庫版とページ数は変わってないはず)

ジャックの答えにダーラム侯は、「リアリズムと感傷のサンドイッチか」 と評していますが、私はこの部分を読むたびに引っかかって、ずっと気になっていたんですよね。

どうして北アイルランドに生まれ育ったジャックが、アメリカ人作家のスタインベックの作品を「好き」と言ったのか?

「ならば、スタインベックを読まなきゃね」と、2008年の初めに文庫化された 『エデンの東』全四巻 (早川epi文庫) を買い、先週読了しました。

小説は、かつて一度だけ見た エデンの東(1955) - goo 映画 とは全くの別もの。映画だけの知識ではさっぱり理解できない事柄が、作品を読んで初めて見えるものですね。
どうしてジャックが「スタインベック」と答えたのか、作品を読んで分かったような気がします。

『エデンの東』にはスタインベックの母方の一族の歴史も描かれているのですが、その母方の先祖はアイルランドからアメリカに移民してきたのですね。

「だからか・・・!」と目から鱗が落ちました。
でも、これは多分、推測です。これが理由の全てではないでしょうが、一因ではあるんじゃないでしょうか・・・と思った次第。


さて、双葉文庫といえば、昨年双葉社から<日本推理作家協会賞受賞作全集>の一環として、リヴィエラを撃て』が発売されました。
で、今回は北上次郎 『冒険小説論』 を買ったのですよ。(まだ読んでません)
「そういえば、巻末にリヴィエラを撃て』の説明が載ってるかな~」と、最後のページを開き、見た瞬間に思いっきり脱力しました。



・・・ なんですけど。
 に見えないんですけど。
どうみても15 と 16 なんですけど。

M15とM16って何じゃこりゃあー!

縦書きと半角文字の悲劇。CIAはちゃんと I なのにねえ。
これは誰の責任、どこの組織の責任になるのでしょうか? 来年からは訂正して下さいと、切に願います。

やっぱり気になって、不愉快ですもの。
たとえ高村作品を読んで感想を挙げてらっしゃるたくさんの方々の記事でも、作家名や作品名や登場人物名を間違えたりすることがあっても、それは「まあ、間違いやミスはあるわね」と多少は寛大な気持ちでいるようには努めていますが(ホンマはイヤだけどさ)、公共の出版物で間違われると、気分は良くないものです。

もしもリヴィエラ関係者があの世でこの一件を知ったら・・・。
ダーラム侯は笑い飛ばしてるでしょうが、《ギリアム》や《マーリン》は苦虫を噛み潰しているに違いない。
シンクレアさんは恐らく無関心。「どうでもいい」と思ってるかな?
キムはどうだろう? 少しは悲しそうに顔を曇らせているかな?

***

「AERA」2008年7月7日増大号の「平成雑記帳」は、予想外の事故が起こることに対しての「責任」と「生活能力」について。


そうそう、関西地方でだけ深夜放映された マークスの山(1995) - goo 映画 は、録画はしましたが、まだ見てません。
それ以前の問題で、私はまともに見たことがありません。端折って見ただけ。

これ、一人きりで見ないと辛いのですよ。
最初の方にあるマークスくんのチョメチョメシーンが、たっぷり3分はあるから・・・(苦笑)
だからR指定になったのか?


大大阪モダン建築

2007-12-17 22:56:13 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
大阪の某書店でコーナーが設けられていたので、思わず手にとってみました。
そうしたら、高村作品に登場する建物がちらほらと・・・。判明しているものだけ、紹介してみますね。

【三井住友銀行大阪本店営業部】
旧称:住友ビルディング
建築年:1期 1926(大正15)年、2期 1930(昭和5)年
構造・規模:鉄筋コンクリート造5階建、地下1階 (後年、6階に増築) 
設計:住友工作部 (『大大阪モダン建築』p81より)

主に『黄金を抱いて翔べ』 に「住田銀行」として登場。この当時はまだ「住友」と「三井→太陽神戸三井→さくら」は合併してなかったのです。
ちなみに『神の火』では、「住友銀行」表示でした。

地下1階とありますが、『黄金を抱いて翔べ』では、地下2階があったと思う・・・。(まあ、フィクションですから)

【2007.12.18 追記】 昨夜、文庫本をチェックしたら、地下3階までありました。もう1階足りなかったか!


【山内ビル】
旧称:山内香法律特許事務所
建築年:1933(昭和8)年
構造・規模:鉄筋コンクリート造4階建、地下1階
設計:不詳
国登録有形文化財  (『大大阪モダン建築』p92より)

主に『神の火』 に「江口商事」として登場。
4階建とありますが、「江口商事」は3階建だったと思う・・・。(まあ、フィクションですから)
この本の写真を見てみたら、どうやら4階の部分が「ぷらとん書房」っぽいんですよね~。


【大阪市立美術館】
建築年:1936(昭和11)年
構造・規模:鉄骨鉄筋コンクリート造3階建、地下1階
設計:大阪市土木部建築課 (『大大阪モダン建築』p127より)

主に『照柿』 にそのままの名称で登場。そりゃあ、変えようがないわ(苦笑)


【大丸大阪心斎橋店】
旧称:大丸百貨店大阪店
建築年:1期 1922(大正11)年-1933(昭和8)年
構造・規模:鉄筋コンクリート造7階建、地下2階 (後年、8階に増築) 
設計:ヴォーリズ建築事務所 (『大大阪モダン建築』p120~122より)

主に『李歐』 に登場。一彰が房子さんのお店で働いている時、店に飾る花をここで買っていました。


【大阪府立中之島図書館】
旧称:大阪図書館
建築年:1904(明治37)年
構造・規模:石造煉瓦造3階建
設計:住友本店臨時建築部
国重要文化財 (『大大阪モダン建築』p14~15より)

主に大阪を舞台にした作品に登場。あるキャラクターは地図をコピー。あるキャラクターは新聞記事を閲覧してました。
きっと『太陽を曳く馬』 の加納判事も、暇が出来たらこの図書館に通っているはず。だって職場の大阪地方裁判所から、徒歩5分とかからない距離にありますからね。


現在、拾い読みの段階で気づいたものだけを挙げましたので、見逃している建物があるかと思われます。その際は、追加いたします。

本書はプロが撮影した写真ですので、私の撮影したものよりは充分鑑賞に堪え得ると思います(苦笑) 機会がありましたら、ぜひともご覧下さいませ。

参考HP  大大阪モダン建築 (青幻舎)

***

「AERA」2007年12月24日号の「平成雑記帳」は、「謝罪」が繰り返された一年を振り返って。謝罪の言葉の「軽さ」を危惧されていました。


♪はたらく義兄さん はたらく義兄さん こーんにっちっは~♪  ――ある判事さんのお仕事――

2007-05-27 00:30:19 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
某教育テレビの某番組を小学校低学年の社会の授業中に観た世代。・・・もうないよね、この番組?
正しくは「おじさん」ですが、愛する加納祐介さんに対して「おじさん」はいくらなんでも失礼・非礼・無礼であるまいか、と思いましてね。
・・・そりゃあ「おじさん」と呼ばれてもおかしくない年齢ではありますが(苦笑)

さて、この前振りは一体何なのかと申しますと、2007年の目標の一つ、「高村作品への知識を深めるための個人的な読書」 の第6弾として、読売新聞社会部 『ドキュメント 裁判官』 (中公新書) を読了したからです。
(第5弾は、まだ記事にしていません。悪しからず)

「新潮」に連載中の『太陽を曳く馬』で、検事から判事へと転身を遂げた加納さん。裁判官って、どんななんだろう。少しでも「判事・加納祐介」に近づけることが出来たら・・・とおこがましくも考えた次第です。

奇しくも立ち寄った書店では、約2年後の裁判制度の改革を睨んでか、裁判や裁判官に関する書籍のミニコーナーが儲けられておりました。
そこで迷わず選んだのが、この新書です。読売新聞で連載された記事をベースにし、更に加筆修正されている内容になっています。

21日(月)に買って、22日(火)から25日(金)まで読んでいましたが、裁判官の方々の法解釈や思考、事件への向き合い方に対する弁護士・検事との微妙で複雑な違い、加害者や被害者への想いなどが、ここかしこに溢れていて・・・。「事件」の大きさや酷さには、読んでいて辛いものがあるのですが、「人を裁く」という役目を選んだ裁判官という人間の苦悩にも、心痛むものがあります。
加害者が人間なら被害者も人間。弁護側も検察側も人間、判決を下すのも人間。苦悩したり迷ったりするのも、当たり前のことですよね。

***

さてここではタカムラー視点で、邪道を重々承知の上、「判事・加納祐介」像に迫って参りましょう。『太陽を曳く馬』の加納さんの姿が、少しでも明らかになる手助けになるならば、幸いです。
ただ言うまでもなく、法曹界に関してはまったくのずぶの素人ですので、その筋の方は、笑って読み流していただければ非常にありがたいです。よろしくお願いします。

タイトルがタイトルですし、「はたらく○○さん」を見習って、Q&A形式でやってみましょうか。「こんなの加納さんじゃない」というご批判は、受け付けませんので悪しからず。私的な加納さんではなくて、公的な加納さんなんですからね。

***

からな  加納さん、こんにちは。
加納さん  こんにちは、大阪地裁へようこそ。でもどうして自己紹介もしていないのに、私の名前を知っているんですか?
からな  (そりゃ、こんな見目麗しい判事さん、他におらんやろ。←心の声) それはおいておいて、早速質問してもいいですか?
加納さん  いいですが、プライヴェートなことは一切尋ねないで下さいね。特に某元義弟で某警部のことは、絶対に! (←先手を打つ)
 
からな  それもおいておいて、最初の質問です。どうして裁判官の法服は「黒」なんですか?
加納さん  黒は「何ものにも染まらない」色。転じて「私情は挟まない」という意味もあるからですよ。
からな  へえ~、「嫁いだあなたの色に染まります」というような意味のある花嫁衣裳の白とは、正反対なんですね。加納さんの妹さんも、その心づもりで嫁いだはずですのに、ねえ・・・?
加納さん  ・・・私の妹についても何も訊かず、何も言わないでいただきたい。

からな  はい、ごめんなさい。次の質問ですけど、加納さんが検事から判事になったことに、私たちはかなり驚愕したんですが、これって珍しいことなんですか?
加納さん  (「私たち」って、どんな連中のことだ? ←心の声) いえ、特別珍しいということでもありませんよ。この新書に挙げられている判事で、検事を勤め、その後に判事になった方が数人おりますから。
からな  そうなんですか。でも検事時代には大阪地検勤務してましたから、かつての同僚もいるでしょうし、顔見知りの弁護士さんも多いでしょうし、やりにくくないですか?
加納さん  そのことについては、想像にお任せします。いつかは私の生みの親・高村先生が書いて下さるかもしれませんので。

からな  それでは次の質問です。検事時代はほぼ二年置きに勤務地を転々としていたようですが、判事はどうなんですか?
加納さん  通常で三、四年で勤務地がかわるようです。私は判事になって初めての勤務地が大阪で、異動を経験していません。はっきりとは断言出来ないんです。ただ、担当している事件が長引いている場合は、「何としても決着をつけてから」と思っている判事も多いようで、この新書では七年間異動をしなかった判事の例も挙げられています。
からな  加納さんは2001年現在で三年目なんですね。2002年辺り、異動があるかもしれませんね。・・・東京、戻りたいでしょう?
加納さん  (何でこんなに詳しいんだ? ←心の声) 異動の希望が最も多いのが東京や大阪ですから、人事局に希望を出しても、叶うかどうか分かりません。
からな  いやいやー、加納さんなだけに可能でしょう!
加納さん  (言い古されたベタなダジャレを・・・ ←心の声) 実績ももちろん考慮されますから、本当にどうなるか分かりません。もしも東京へ赴任になった場合、「三年後には最高裁が指定したところに転出する」というような但し書きにサインする場合も多いようです。一方で遠隔地へ赴任する場合も、「二年後には希望する裁判所へ転出する」という但し書きが添えられているとか。

からな  実績といえば、検事時代の経験も生かされているとは思うのですが、叩き上げの判事さんたちと比べては、やはり経験不足もあることは、否めないと思われますか?
加納さん  えらく難しい質問を投げかけてきますね。そうですね・・・一例として、大阪地裁には「犯罪被害者保護等検討会」という私的な勉強会があります。判事たちに「この場合はどうするか」というアンケートをとって、回答と結果を参考にして判断する場合もあります。ご存知の通り、私は判事の前は検事でしたから、両方の面から物事を検証出来るという強みもあります。判事としてはまだまだかも知れませんが、経験不足だということは、ないと信じています。
からな  おお~、素晴らしい! (←拍手)
加納さん  検事もそうでしたが、民事事件だろうが刑事事件だろうが、事件を起こした「人間」を見るのが仕事ですからね。判事もその点では何ら変わるところはありません。それに検事時代は・・・特に東京では・・・本当にいろいろなことがありましたからね・・・。ちょっとやそっとのことでは、びくつきもうろたえもしませんよ・・・。 (←遠い目)
からな  そうでしたね~。枚挙にいとまがないくらい、いろいろありましたものね~。そのことについては私は何も言いませんけど、もしも加納さんが語りたいのなら、語ってもいいですよ。一字一句聞き逃しませんから。
加納さん  ・・・あなた、何をしにここへ来たんですか。

からな  加納さんは修習生時代、裁判所でも研修を受けていますよね。今回、判事になる時も研修を受けたと思うのですが・・・。
加納さん  埼玉県和光市にある司法研修所ですね。懐かしい。研修の初めの頃は判決文もろくに書けなくて、厳しく添削されましたよ。
からな  人が人を裁く行為、判断を下す行為というものは、責任重大なことだと認識していますが・・・。怖くありませんか?
加納さん  裁かれる人間の人生をも、決めてしまうのです。最後の最後まで裁判長や陪席判事と、「これでいいのか」と激しく意見を戦わせ、共に懊悩するのもやむを得ません。悔いだけは残したくない。
からな  陪席判事って、何ですか?
加納さん  TVニュースの映像で見たことはありませんか? 裁判長の両隣にいる二人の判事のことです。私もいきなりは裁判長にはなれませんよ。
からな  いつの日か、裁判長席に座っている加納さんの美しいお顔をTVニュースで拝見したいものです。一瞬でも、視聴率が上がると思いますよ。
加納さん  何を意味不明なことを言ってるんですか?

からな  「裁判員制度」については、どう思われますか?
加納さん  そのことについても高村先生が書いて下さるかもしれませんので、ノーコメントにします。
からな  では、世間一般の裁判官に対するイメージや評判については、どう思われますか?
加納さん  判事という職業に就いているとはいえ、判事も人間。判決が下され、それが世間一般の予想と違う場合、「純粋培養」だの「世間知らず」だのと言われるのが、ちょっと辛いですね。
からな  へえ~。「純粋培養で世間知らず」だなんて、単行本版『マークスの山』(早川書店)で、某義弟が某義兄について思っていることと、丸っきり同じじゃありませんか~。面白い!
加納さん  (あいつ、そんなことを思っていたのか! ←心の声) 「面白い」とは、何ですか。私だって人間、「聖人」ではないのです。
からな  でも、「聖職者」と呼ばれる職に就いているんですから、加納さんは「聖人」だと思っています。いえ、そうだと信じていたいんです。
加納さん  ・・・プライヴェートなことには踏み込まないようにと、最初に断ったでしょう。とまれ、ダメ押しになるかもしれませんが、私はプライヴェートでは「聖人」ではありません。
からな  それは「(自主規制)」や「(自主規制)」のことと考えてよいのですか?
加納さん  ノーコメントです。

からな  加納さんが考える、判事に最低限必要なものって、何でしょうか?
加納さん  検事だろうと判事だろうと、また刑事だろうと弁護士だろうと共通することではありますが、「人間」と向き合うのが仕事。法律書の内容だけを、頭に詰め込めばいいというわけではありません。一般教養や社会常識も必要です。そういう下地があってこそ、判断力、分析力、表現力なども身につけることが出来ます。だから私は今でも文学書を読むし、展覧会にも出かけます。そういう感覚を失くしたくはないのです。

からな  今日は本当にありがとうございました。「判決がすべて」である裁判官は、「弁明しないのが美徳」と言われておりますが、初心者の私に対して丁寧で解りやすい返答をしていただいたので、大変感謝しております。
加納さん  どういたしまして。「裁判員制度」を控えて、裁判所も意識改革を迫られています。「判決を通して社会に伝えたいことが伝わらない」こともあるようで、これではどうしようもないという意見もあるのです。そういえば、少しでも身近に感じてもらえるように、「テレビ映りのよい裁判官が、ニュース番組で判決をわかりやすく解説したらどうか」という提案がありましたよ。
からな  だったら加納さんが最有力候補ですね! うわーん、見たいよう~! ぜひやって下さい! お願いします!
加納さん  ・・・なぜ私が? 若い判事や判事補の方が、いいと思うのですが。
からな  きっと東京にいる誰かさんも、「見る」と言いますってば。
加納さん  ・・・そうですか? では前向きに考えてみましょう。
からな  (結局は義弟次第かい! ←心の声) それではこれで失礼します。お元気で、さようなら~! また何かありましたら、よろしくお願いします。
加納さん  (結局はあいつには弱いんだなあ・・・。←心の声) さようなら、お疲れさまでした。いつかは法廷で、裁判長と裁判員として会うことがあるかもしれませんね。
からな  加害者や被害者としては、お会いしたくはないですよね、お互いに。
加納さん  まったく、その通りですね。
からな  何でそこで肯定するんですか。
加納さん  ただの相槌です、お気になさらず。
からな  加納さんを「(自主規制)」の件で、タカムラー専用法廷に立たせて問い詰めたいと思う人たちも、たくさんいるんですよ。
加納さん  プライヴェートなことは口にしないようにと言ったでしょう! さっさとお帰りなさい!

***

うわ~、むっちゃ長くなってしまった! ここまで書き込むつもりはなかったのに!
大阪人の悲しい性が、ボケやツッコミやオチを入れてしまいたくなるんですよねー。あまり面白くなくてごめんなさい。大阪人の私が思ってるんだから、面白くはない(きっぱり) 面白くないのに、追加修正した私もどうなんだ。
一人漫才(←漫才だったのか)って、難しいですわ。なんせ相手が加納さんですもん、いろいろ茶化すことも出来ません。

順序が逆になってしまいますが、いずれは「♪はたらく義兄さん はたらく義兄さん こーんにっちっは~♪  ――ある検事さんのお仕事――」編もやりたいんですよね。

ああ、調子に乗った素人って、これだから怖いわあ~。

***

【2007.5.27 追記】
一般向け(というのもどうなんだか)の雑感を記した記事は、こちらにあります。 たいして内容に違いはないかもしれませんが、興味がありましたらどうぞ。


『李歐』を読む前に、読んだ本。

2007-04-01 20:40:55 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
2007年の目標の一つ、「高村作品への知識を深めるための個人的な読書」 の第4弾として、石田収 『中国の黒社会』 (講談社現代新書) を読了。

『李歐』 (講談社文庫) の再読を始める前に、ぜひとも読んでおきたかったんです。なぜなら、「幇(パン)」 について、知りたかったから。

以下、ちょっとネタバレ含みますが大したことないと思うので(苦笑)、隠し字にはしてません。未読の方、ご注意。


『李歐』 に登場する「幇」は、「風浪幇(フォンランパン)」「宏亮幇(ホンリァンパン)」。後者が李歐が創った組織。ということは当然、前者は李歐に敵対している組織。
原口組長の庇護の下にいる一彰は、それとなく李歐の消息を知ることになり、自分も李歐もお互いに耐えている状態なのだ・・・と認識する場面があります。そこで「幇」という組織のことが出てくるわけです。

「中国人社会のネットワーク」というのは、非常に特殊なものだという認識はあるのですが、素人の私にはチンプンカンプン。
せめて「幇」とはどういうものなのか、李歐はどういう組織を結成したのか、一彰の身柄を預かっている原口組長が、どのように身を守るための手を打ったのか・・・などの、ほんの一端でも感じ取れたらいいなあと、読んだのでした。

「これは李歐は命を狙われるはずだわ・・・これはしゃあないわ」・・・と読んで納得(苦笑) 李歐は「新参者」ですからね~。ある程度の位置まで成り上がるためには、非合法な手段を用いなければならない場合も、多々あるでしょう。もちろん、李歐の血の滲むような努力と天性の才覚あってのこと。

「幇」とは、「組織、主に暴力団」を意味します。
李歐が一時期でもどういう世界に身を置いていたのか。今までぼんやりとした輪郭しか見えてなかったのですが、この書籍を読んで少しは判りました。

***

「高村作品への知識を深めるための個人的な読書」 2007年の第2弾、 『ブッデンブローク家の人びと』(上巻)の感想を、こちらでアップしています。まったく中身のない内容ですが、おヒマな方はどうぞ。


ただいま読書中。

2006-12-29 01:06:28 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
藤永幸治 『特捜検察の事件簿』 (講談社現代新書)という新書を、今日から読み始めました。

昨日の前首相の息子主演のドラマに触発されて・・・というのは冗談です。(←信じたらダメよ!)
私は観てませんが(母が観てたので、「聴いていた」というのが正しいかも)、検察庁が映るたび、その場面だけちらちら観てました(笑)

約10年間地方を回っていた加納祐介検事が、東京に戻って検察庁に勤めていたのが、約6~7年。
加納さんが職に就き、辞めた「検事」って、どういう存在なんだろう? どういう職業なんだろう? と改めて自分に問いかけてみると、何にも知らないことに愕然。
「これはアカン」と、一端でもいいので知ろうと思い、私にとって手っ取り早い方法である「読書」という手段を使ってみました。
この書籍を買ったのは、約2年前。たまたま初版だったのでラッキー♪ 1998年秋に出版されましたが、現在は絶版です。

筆者はロッキード事件も担当されてきた方なので、冒頭ではそのことから切り込んでいました。福澤榮パパは田中□栄派だったので、『新リア王』 (新潮社) の内容にもちょっとは関係ありそうです。

読み始めたばかりですが、まったく知らない世界のことなので、読むことすべてが目新しくて面白い。今まで気付かなかった「検事・加納祐介」の姿が、見えてくるような気がします。
だがしかし! おもむろに「ノー○ンしゃ○しゃ○」の文字が出てきた時には、本を落としそうになりました。

うわ~ん、義兄~! 

そこから平静さを保てなくなってしまい、読むのをストップ。そうか、1998年の書籍だから、直前にあの事件があったのか・・・。

お願いですから皆さん、「ノー○ンしゃ○しゃ○で検事を辞めた男」 だなんて、言わないで下さいね・・・。そういうレッテルは張らないで下さいね・・・。

***

この書籍が面白かったなら、迷っていた読売新聞社会部 『ドキュメント 検察官』 (中公新書) も買おうかな・・・?
『太陽を弾く馬』の連載開始の9月末に出版されたんですが、加納さんは既に検事ではないと知った直後だったので、急激に買おうという気持ちが萎えてしまったんですよね・・・。

ちなみに、青木理 『日本の公安警察』 (講談社現代新書) という新書も、私が読むのを待っている(苦笑)
『リヴィエラを撃て』 (新潮社) の手島修三さんが配属されてましたし、別口では合田雄一郎さんも、睨まれておりましたしね・・・。幸田弘之さんも尾行がついていたし、島田浩二さんと江口彰彦さんも接触して、見事に煙に巻いていましたしね・・・。


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・9

2006-02-03 00:43:19 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
これで完結、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記は、その名も「結」でおしまいです。
あとは蛇足で、タカムラーの視点で感想などを綴ります。

これが最後の断り書き。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみて下さい。こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

***

 実際のところ、現代文明のなにが滅び、なにが残るのか。その後、いかなる条件下で、いかなる方向にむかって、歴史は推移していくのか。これらの問いに答えはない。すでにわかっているのは、思考し行動する個人の能力が拡大するにつれて、生がいっそう非人間的でなくなるだろうということだ。 (p141)
つまり「人間的になっていく、人間らしくなっていく」ということか。うもー、もっと易しく言って下さい・・・。

 このように方向づけられた一連の考察が、社会組織のその後の進化になんら影響を与えずじまいであったとしても、だからといって価値がないわけではない。人類の未来の運命だけが考慮にあたいする対象ではない。ひとり狂信者のみが、集団的大儀への献身によってはじめて自己の存在に価値をみいだすのだ。集団に個人が従属することへの抵抗は、まずはみずからの運命の歴史の奔流にしたがわせることへの拒否を意味する。こうした批判的分析の努力をひきうける決意をするには、ただ次のことを理解すればよい。すなわち、この努力をおこなう人間は、われとわが身を狂気と集団的眩暈汚染から救いだし、社会のさしだす偶像をみおろしつつ、自分のために精神と宇宙との原初的協定をむすびなおすことができるだろうことを。 (p144)
「結」の最後の部分です。・・・最後なので、本音を呟いていいですか? 入力していても、何を主張しているのか、さっぱりわかりません・・・わかりません・・・わかりません・・・(←○ロシ風)

***

・・・終わりました・・・長かった・・・鈍かった・・・。これで去年から残っていた宿題が、一つ片付いたぞ~♪

このシモーヌ・ヴェーユ(高村さんの表記に戻しましょう)の記事に関しては、いくらタカムラーさんとはいえ読まれている方は、10人もいるかいないかだと思っています(苦笑)

期間が空いているとはいえ、9回に分けて私が気になった部分・引っかかった部分に付箋紙を貼った文章をピックアップしました。
9回と回数は多いのですが、1回分の分量は少ない。それでも全体の3分の1は削ったんですよ~。

このような思想的作品、考察作品は、読むこと自体が初めて。読み始めて「歯が立たん、理解出来ん」と打ちのめされ、辛抱と我慢を味わいながら読了し、すぐさまもう一度読むことを決意。こんな経験も初めて。

フランス語は全く解らない私ですが・・・これは「翻訳の問題」なのか、はたまたヴェーユが悪文(!?)なのか、「一体何を言いたいねーん! ポイントはどこやねーん!」・・・と叫びそうになったことが、一再ならずありました。

「翻訳の問題」ならば、あまりに忠実に直訳しすぎているんじゃなかろうか、と思わずにはいられませんでした。もしくは単語の訳の選択ミスか。あるいは論考作品だから、硬めで難しい訳を心がけたのか。それとも私に読解力がない(←つまり「おバカさん」)という証明なのか・・・。

以前も書きましたが、接続詞・副詞がしょっちゅう出てくるので、それに惑わされてしまう。しかも、断定・言い切りが多いので、読み手の思考や反論を封じてしまうかのような効果もある。
一長一短、良し悪しですね・・・バランスをとるのは本当に難しいこと。
(以上はあくまで個人的見解です)

***

さて、『レディ・ジョーカー』 に登場する根来史彰さんは、以下の引用からお解かりのように、シモーヌ・ヴェーユの本をとことん愛読しています。

<無人島に持っていく十冊>の半分はこれだと思った (『LJ』上巻p420)

言葉の一つ一つ、ページの一行一行から溢れ出る一人の人間の、とてつもない息吹、信念、情熱、優しさ、脆さ、危うさ、美しさに打たれ、人間が物を考えることの偉大さに触れ、生きていてよかったと思わせる悦びに満ちているのだった。だから、開くのはどのページでもよく、ストライキの話であれ、神の話であれ、自分に書き送られてきた手紙のように数ページを読み、その真剣な眼差しを受け取って心が洗われ、半世紀も前に死んだ女性に感謝しつつ、それではおやすみと本を閉じるのだ。 (『LJ』上巻p420)

「もしお持ちなら、合田さんに上げて下さい」 (『LJ』下巻p273)

・・・ああ、今の私には無理だ。就寝前にはとてもじゃないが、シモーヌ・ヴェーユは読めません。
高村作品なら、それが出来ますけどね~。どの作品でも、どのページでもいいんです。パッと開けたところから、読み通すことが出来る。但しハッと我に返らないと、いつまでも読む羽目になってしまう、魅力と魔力が潜んでいるわけですが。

私にとっての高村作品が、根来さんにとってのヴェーユ作品なのでしょうね。
そんな作品や作家さんに出会えた根来さんも私も、共に幸せ♪ (綺麗にまとめてみました)


これで懲りずにシモーヌ・ヴェーユ作品は、また挑戦するつもりです。・・・手軽に読める文庫か新書になったらの話ですが。
また別の作品をお願いします、岩波文庫さん。確実に買い手と読み手は一人はいますので♪ (私のことよ)

さあ、次はどの高村作品に登場した書籍の案内をやりましょうか。


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・8

2006-01-28 23:10:39 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
何だか○イブ○ア事件にぴったり当てはまる気がする、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記、「第四章 現代社会の素描」 の後半です。
経済や株の知識は全くといっていいほどない私。そんな私でも、まあ、理解しやすくなってる(気がする)から、いいか。そういう意味では「いい材料」になっていますね、○イブ○ア事件。

いつものように、断り書き。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみて下さい。こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

***

 信用貸はすべての経済的成功の鍵であるので、節減はこのうえなく愚かしい濫費にとって替わられた。所有という語はほぼ意味を失った。いまや野心家にとっての感心事は、おのれが所有する事業を繁栄させることではなく、可能な限り最大の経済活動部門をその制御下におくことなのである。ほとんど了解不能な韜晦さに包まれた変容を概略的に特徴づけるならば、昨今の経済権力を求める闘争においては、構築ではなく征服が問題なのだといえよう。加えて征服は破壊的である。したがって、資本主義システムは五十年前とほぼ同じとみえながらも全面的に破壊へとむかっている。 (p129)
この引用は、素人の目から見ても、2006年1月の日本の状況にビシビシ当たっている気がするぞ~。「征服」を「買収」に当てはめても意味が通じるんじゃないのか?

 宣伝、奢侈、頽廃、信用貸にほぼ完全に依存する法外な投資、暴力的ともいえる手順にもとづく不用生産物の叩き売り、競合企業を破産させるための投資など、経済闘争のさまざまな手段はことごとく、われわれの経済的生の基盤の拡張ではなく転覆をもたらす傾向がある。しかしながら、これらすべてはまだ些事である。明瞭なかたちをとって各人の生を悲劇的な脅威で圧迫しはじめた、ふたつの付帯現象と比べるならば。すなわち一方で、国家がいよいよもって、それも異常な迅速さで、経済と社会と生の中枢となりさつあるという事実、他方では、軍事的なものにたいする経済的なものの従属である。 (p129)
p129からの引用、もう一つ。このページからの主張と分析は、すごく大事だと思う。

 国家とはすぐれて官僚的な組織なのだから。 (中略) 国家には構築する能力はないが、もっとも強力な強制手段を一手に収めているという事実ゆえに、いうならばおのれの重力じたいによって、征服あるいは破壊にかんしては徐々に中枢的要素になるべく導かれていく。最後に、交換と信用貸の捜査の驚くべき複雑さに阻まれて、もはや貨幣だけでは経済的生を調整しきれない以上、これを補足するために見かけ倒しの官僚的調整が必要となる。そして、中央官僚組織は国家装置であるので、当然ながら早晩この調整において主導権を握るはずだ。
かかる変容をこうむった社会的生の主軸となるのは、戦争準備をおいてほかにない。
 (中略) 戦争は権力闘争の本来的な形態であり、競合単位が国家である場合、国家による経済的生の掌握が進めば進むほど、結果として工業的な生は戦争準備へといよいよ押しやられる。さらにひるがえって、強まる一方の戦争準備への圧力は、日々ますます各国の経済および社会活動を中央権力の権威に伏させるのに貢献する。 (p130)
p130からの引用はちょっと端折りましたが、シモーヌ・ヴェイユの主張は損ねてないはずです。なるほど、某国の首相の狙いも、某国の大統領の目論見もこれか・・・などと感心している場合ではない。あまりに単純で短絡的なので、呆れてしまう。

 自身の貢献とその見返りとの関連づけができずに誠実な労働の感覚や責任感がおし殺される一方で、受動性、投げやりな態度、万事を外部に期待する習慣、奇跡への軽信が育まれるようになった。人間を養う土地と土地を耕す人間をつなぐ深い絆の感覚は、農村部においてすらかなりの程度まで消えうせてしまった。投機への嗜好や貨幣と物価の予期できぬ変動のせいで、農民が視線を都市部にむける習慣を身につけた結果である。 (p132)
「投げやりな態度」・・・某国や某企業のトップ陣。「投機への嗜好」・・・ネットで手軽にできるせいか、個人投資家が増えたこと。「貨幣と物価の予期できぬ変動」・・・何か事件がおきると株価が変動し、天候次第で農作物が高騰する。一例として、こう当てはめると解りやすいかも。

 生産者としての行為によって生活の質を得ている意識が、労働者にはない。 (p132)
特に指導者、企業のトップには、意識が薄いんじゃなかろうか。そういう人たちが自らを「労働者の一人」と自覚しているか否かに、因るとは思うのだが。

 そもそも中央権力から権力分散への進展などどうみてもありえない。中央権力はまさにそれが行使される時点でその他すべてを自己に従属させるのだ。一般論として、啓蒙的専制主義という概念は以前はつねにユートピア的な特徴をそなえていたが、いまやまったくのお笑い種である。 (p137)
「啓蒙的専制主義」は、ヨーロッパで生まれたものですね。西洋史・ヨーロッパの各国史を少しでもかじった方ならば多少はお解かりでしょうが・・・。個人的な見解としては、えらく高慢で傲慢な思想・制度だと思います(苦笑)


あと1回で終わらせます。終わらせますとも!

シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・7

2006-01-22 22:38:35 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
dubdub雑記帳さん にトラックバックしていただいたことに発奮して、約半年振りの シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記です。

ザッと過去記事を読み返しましたが・・・「穴があったら入りたい」どころか、「穴がなくても自ら掘って埋まりたい」という心境ですわ。

それでは、「第四章 現代社会の素描」 の前半です。
しかし今回ピックアップする部分・・・韓国での捏造騒動やら、○イブ○ア強制捜査やらを、イヤでも思い浮かべずにはいられません。ヴェイユがこれを発表した時の「現代社会」は1934年なのですが、21世紀の「現代社会」に生きている私たち人間って、あまり変わっていないのか、それとも進歩しすぎて停滞しているのか、どっちなんでしょう?

例によって、断り書きを添えておきます。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみて下さい。こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。
もっと詳しく知りたいと思ったら、上記のdubdub雑記帳さんの2006年1月15日~17日の記事の方が、断然素晴らしいのでお薦めします。

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 個人が制御できぬものはことごとく集団が奪いさる。かくて科学はすでにはるか以前から、そしてますます大きな割合で、集団の仕事になりつつある。じつをいうと、あたらしい成果はつねに特定の人間の仕事である。ただし、ごく稀な例外はともかく、ひとつの成果の価値はなんらかの総体に依拠するのだが、その総体たるや、過去の発見および将来の可能な探求とあまりにも複雑にむすびついているので、発明者本人の精神をもってしても全貌を俯瞰しえないほどである。このように明晰さも集積されると謎の表象となる。ちょうど厚すぎるガラスがついには透明さを失うように。 (p121)
ヴェイユは「科学」を例に挙げていますが、「科学」だけとは限りませんね。この論考中に「数学」関連の事例も挙げているのですが、それはやはり彼女の兄が有名な数学者のアンドレ・ヴェイユだからでしょうか。優秀に兄に劣等感を抱いていたらしいシモーヌ・ヴェイユ。(「まるで義兄弟やん」って思ったのは、私だけ? ←主旨がズレてます)

 現代生活における体系的なものが思考の把握を逃れるその度合に応じて、集団的思考の等価物というべき諸事情が規則性を定める。もっとも集団が思考するならばの話ではあるが。 (p122)
この引用の最後に、キツイ皮肉を述べていますが・・・。つまり「集団は思考しない」ということですか?

 科学者が科学の力をたのむのは、思考のさらなる明晰さに達するためではなく、既成の科学に附加されうる成果を発見したいと希っているからだ。機械は人間を生かすために機能するのではない。機械に奉仕させるためにやむなく人間を養うにすぎない。金銭が生産物の交換に適した手順を供給するのではなく、商品の流通こそが金銭を循環させる手段なのだ。最後に、組織とは共同行動をうながす手段ではなく、いかなる集団であるにせよ、集団の行動は組織強化の手段でしかない。 (p124)
これまたキツイ表現ですが・・・。この引用の最初の一文が、韓国の捏造問題を彷彿とさせるんですよね。後半部分は、○イブ○ア問題ですね、何となく(←何となく?)

 科学的な観念でさえ内容によって評価されるのではない。内容が全く理解不能な場合もある。むしろ、調整や縮小や要約をいかに容易にするかで、観念は評価される。 (p126)
ああ良かった、「内容が全く理解不能な場合もある」とはっきり明言してくれて。ホンマに解らへん時があるもんねえ。

 経済の領域では、企業はそれがはたす社会的機能の現実的有用性ではなく、なしとげた発展および展開をくりひろげる速度によって判断される。万事がそうだ。価値判断はいわば思考ではなく事物にゆだねられる。たしかに、あらゆる種類の努力の有効性は必ず思考の制御をうけねばならない。一般論として、あらゆる制御は精神に由来するからだ。しかし、思考があまりに従属的な役割におとしめられた結果、要は制御機能が思考から事物に移行したのだといえよう。しかるに思考を王座から追い落としたこの理論的かつ実際的活動の途方もない複雑さが、さらなる悪化をたどるとき、ついには事物が代行する制御をすら欠陥だらけの実践不能なものとするにいたる。 (p126)
長い引用になりましたが(しかもちょっと解りにくいですが)、何だか○リエ○ンにピッタリと当てはまるぞ~。


あと2回で終わる予定。・・・くうう、何でこんなに本格的になってしまったんだ・・・! と後悔しても後の祭り。軽く流すことのできない性分だから、仕方ないんですが、ね・・・。


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・6

2005-07-24 20:58:07 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
さっさと シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記を片付けないと、他の作品の紹介ができないことにようやく気づいた愚か者。
それでは、「第三章 自由な的展望」 の後半に参りましょう。例によって長くなりそうなので、出来るだけカットしますが、どうなりますやら。

これも例によって、断り書きを添えておく。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

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 記憶が観念そのものを保持できるのか、それとも観念の外装にすぎぬ公式を保持するにとどまるのかは、知性の柔軟性の度合に左右される。だがそれ以上に、観念が精神のなかで形成される過程の明解さにも左右される。 (p99)
物事の見方には、柔らかさも必要。凝り固まったらダメなのね。

 しかしながら隷従の要因はほかにも存在する。各自にとっての他者の存在だ。とくと観察するに、これこそが隷従をもたらす唯一の本質的な因子である。人間のみが人間をよく隷従せしめる。 (p99)
「奴隷制」は、ここからきたのか? これにいち早く気づいた者の仕業・・・?

 権力者は命令以外に行為の方法を知らない (p100~101)
・・・ホンマや・・・。

 しかし事実としては、例外が、唯一の例外が存在する。すなわち思考の領域である。思考が問題になるや、関係は逆転する。存在が無を凌駕するように、個人は集団を凌駕する。ひとりで自己とむきあう精神においてのみ、思考は形成されるからだ。集団は思考しない。 (p103)
上から命令されたことだけをやるのが、「集団」の良さなんだもんね・・・。

 つい最近まで文化は多くの人びとによって究極目的とみなされてきた。そして今日、文化にたんなる娯楽以上のものを認める人びとは、文化に実生活からの逃避手段を求めるのがつねである。しかるに文化の真の価値とは、人間の分け前であるこの宇宙や同一の条件を分けあう同胞たちと、人間の尊厳にふさわしい関係性を築くために、人間を現実の生活にむけて準備させ武装させる点にある。今日では、科学をたんなる技術的秘訣の目録(カタログ)とみなす者もいれば、自己充足する精神の純粋思弁の総体とみなす者もいる。前者は精神をあまりに軽んじ、後者はあまりに世界を軽んじる。 (p113)
長い引用になりましたが、要はバランスが大事、ということでしょうね。「文科系」「理科系」と、偏ってはいけないのですわ。