ためし読みしたときに、これは万全の体調でないと読んだらダメだ、雑音がなく、居住まいを正して読まなきゃダメだ、ある種の強迫観念が生まれたので、休日の本日、やっと読みました。
高村さんが繰り出した曼荼羅にとらわれて、次から次へと案内されたような、目眩めく感覚。
そしてこれは一度でもいいから、
音読すべし!
この独独のリズム感は、音読して分かることがあるはず。
私の読書は、頭の中で文章が聴こえるタイプの読み方。
(数年前に、音のない、聴こえないタイプの読書方法をする人たちもいると知りました)
それでも、これは音読したほうがいい。
しかしまあ、ものすごい分量の「元ネタ」(←この表現が的確かどうか、迷うところ)を取り入れたものだ。
藤原定家の和歌はもちろん、分かりやすいところでは『源氏物語』に「鳥獣戯画」、名前が出てきた人物たち、神々たちもそうそうたるもの。
定家と最も関連が深く、確執のあった隠岐に流された人物が「某院」と表現されていたのには、微苦笑しました。まあ、当然ながら、この表現は的確。定家は徹底的に無視したからね。
「某院」は世間知らずの坊ちゃんって感じで、私の好みではない。
曼荼羅のような文章に散りばめられた和歌や作品が、どこから引用されたのか、調べたいけれど、調べるのは大変だな。
定家の和歌も、分かるものと知らないものがあるから。
気が向けば、やるかもしれません。
高村さんが繰り出した曼荼羅にとらわれて、次から次へと案内されたような、目眩めく感覚。
そしてこれは一度でもいいから、
音読すべし!
この独独のリズム感は、音読して分かることがあるはず。
私の読書は、頭の中で文章が聴こえるタイプの読み方。
(数年前に、音のない、聴こえないタイプの読書方法をする人たちもいると知りました)
それでも、これは音読したほうがいい。
しかしまあ、ものすごい分量の「元ネタ」(←この表現が的確かどうか、迷うところ)を取り入れたものだ。
藤原定家の和歌はもちろん、分かりやすいところでは『源氏物語』に「鳥獣戯画」、名前が出てきた人物たち、神々たちもそうそうたるもの。
定家と最も関連が深く、確執のあった隠岐に流された人物が「某院」と表現されていたのには、微苦笑しました。まあ、当然ながら、この表現は的確。定家は徹底的に無視したからね。
「某院」は世間知らずの坊ちゃんって感じで、私の好みではない。
曼荼羅のような文章に散りばめられた和歌や作品が、どこから引用されたのか、調べたいけれど、調べるのは大変だな。
定家の和歌も、分かるものと知らないものがあるから。
気が向けば、やるかもしれません。
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