あるタカムラーの墓碑銘

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シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・5

2005-07-04 22:35:12 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
月一回のペースになりつつあるか、 シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記。4月に読了したのに、もう夏ですね・・・(遠い目) 
では、「第三章 自由な社会の理論的展望」 の前半に参りましょう。長くなりそうなので、出来るだけカットします。

毎度おなじみ、くどいくらいの断り書きを。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

***

 しかしながら、自分は自由たるべく生をうけたと人間が感じることを、世界のなにものも妨げることはできない。断じて、何があろうと、人間は隷従をうけいれられない。 (p81)
第三章は、このような強い調子と断言で始まっている。

 規律なしに自己の制御はない。そして人間にとって、外的な障碍が求める努力のほかに規律の源泉はない。 (p82)
ここで思い浮かべたのが、高村作品には「自分を抑えるために仕事をしている」キャラクターが多いということ。生きるための仕事には、憎悪がなければならない。 (『黄金を抱いて翔べ』文庫p21) と言い切った幸田さんや、自己の爆発を、かろうじて「刑事」という仕事に就いていることで抑えてきた合田さんや半田さんなど、枚挙に暇がない。

 可能と不可能、安直と困難、計画と完遂を隔てる労苦ついての明晰な見解のみが、充足を知らぬ欲望と根拠なき恐怖とを拭いさる。ほかならぬこの明晰な見解こそが、節制と勇気の徳を生むのであり、これらの徳をそなえていない生など、恥ずべき錯乱でしかない。あらゆる徳は、種類の別なく、人間の思考と物質との衝突から生じる邂逅のうちに源泉をみいだす。物質は人間にたいして宥恕を示すこともないかわりに、背信を働くこともないからだ。 (以下略) (p86)
この辺りは第二章で私が取り上げて部分と重複しているかな。

 思考はまず自己の流儀にのっとって理論上の問題を解決せねばならない。その後に解決策が適応されうる。これでは行動が本来的な意味で方法にもとづくとはいえない。方法に合致してはいるが、似て非なるものである。相違は根本にかかわる。方法を適応する者は、適応の瞬間に方法を構想する必要がないからである。 (p93)
平たく言えば、「見切り発車で決めて、実行に移されれば、後は野となれ山となれ」ということか?(苦笑) 議論が不十分なままに執行される某国(←日本と言えよ)の制度や法律に、後から欠陥や盲点が出てくるのも、それに当てはまるね。しかし「やってみないとわからない」んだよね、政治屋の思考レベルは・・・。(あえて「政治家」とは書かない)


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・4

2005-06-07 23:14:30 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
非常に久しぶりの シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記。
「第二章 抑圧の分析」 は、今回で終わらせておきましょう。割愛はしてますが、長くなるかもしれません。

久しぶりなので、念のために再度の断り書きを。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

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 ただし、権力への奔走を維持する手法とは、それがいかなるものであるにせよ、つねに同じ類の眩暈によって人びとを服従せしめ、奔走そのものを究極目的として人びとに押しつける。 (中略) なにゆえ、死を招くだけの無目的な戦争のために、だれもが自己を犠牲にするのか、さらには親族をことごとく犠牲にするのか、その理由を知る者はいない。だからこそ全篇をつうじて、平和交渉を頓挫させ、敵対行為の火種をたえずかきたて、理性の一瞬の閃きのなかで闘いをやめようとする戦士をふたたび戦場へ追いやる不可解な影響力は、神々に帰せられるのである。 (p57)
訳註にありますが、シモーヌ・ヴェイユには、「『イリアス』または力の詩篇」 という論考があるとか。私もたまたま、『ギリシャ神話集』 を読んでいるので、取り上げてみた。

 利害というのは利己的行動の原理である。 (p58)
しごく簡単で頻度の高い単語でも、こう言われると、思わず辞書をひいてしまう。「利害=利益と損失」。「利己=自分だけの利益をはかること」。ふむ、シモーヌ・ヴェイユの断言口調に引きずられ、惑わされてはいけませんね。主張は単純(・・・なのか?)

 なぜなら権力というものは、事物の性質によって課された限界を踏みこえるや、自身の拠ってたつ基盤をきり崩し、従来の限界をいよいよ狭隘にしていくからだ。 (p68)
つまり世に言う「権力者たち」は、あれもこれもと「欲」がどんどん出てしまうってこと? 

 いずれにせよ、人間は自己の本性を克服するのではなく、もっぱら本性に譲歩するにとどまる。 (p76)
「本性に譲歩」・・・これが「抑制」ということですか?

 結合は思考なくして実現されえない。そして関係性はひとつの精神の内部でしか形成されない。ある人間の考える数字の2が、他の人間の考える数字の2といっしょになって、数字の4を作りだすことなどありえない。 (p77)
ものの見方・価値観は、人によって当然違う。逆に同じだと、気持ち悪いくらい。それを無理矢理、団結や統一しようとすると、どうなるのか。果たしてそれは可能なのか、不可能なのか。可能な場合、「それは奇蹟だ」とシモーヌ・ヴェイユは断言している。(と、私は思ったのだが・・・どうでしょ?)


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・3

2005-04-24 17:45:35 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記のタイトル、変更するには手遅れかも。まあ、いいか。

それでは「第二章 抑圧の分析」 に参りましょう。今回もシモーヌ・ヴェイユの考察を抜粋しつつ、感想等を述べましょう。どうやら引用部分が多くなりそうなので、前半・後半で分けます。(実は「第一章」も抜粋部分をかなり割愛した・・・。「第二章」も割愛するにしても、多くなりそうだと判断を下しました)

さて、前回も前々回も書きましたが、更に念のため。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

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 個として行動する人びとの啓かれた善意こそが、社会進歩にとって唯一の可能な原理である。 (p44)
と断言されたら、凡人である私には、何をどうコメントしていいものやら・・・。

 力の観念は単純からほど遠い。とはいえ、社会問題を措定するに当たり第一に解明すべき観念である。力と抑圧、これは別物である。しかし、まずもって理解すべきは、ある力が抑圧的か否かは、力が行使される方法ではなく、力の本質そのものにより決定されるということだ。 (p49)
いちいち挙げませんが、「力」というあらゆる単語が、連想されますね。

 個々の行為は、適切な行為であっても不適切な行為であっても、人間と物質のあいだになんらかの均衡をもたらすが、この均衡は外部からでなければ破壊されえない。物質は慣性にしたがうからだ。 (p54)
「物質は慣性にしたがう」。何故だろうか、この一文に、私は結構ショックを受けた。だからこそ取り上げたのだが・・・。
人間は、ある意味で「物質」ではあるのだが、「慣性」にしたがうのではなく、「能動的」に「本質的」に、意思のある物質であるのだよ、と、シモーヌ・ヴェイユは述べているのだと思うのだが・・・違うかなあ?


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・2

2005-04-10 20:46:53 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読日記・・・と名付けても、実態は違ってますねえ~(苦笑) まあ、いいか。

前回は「序」に力を入れすぎてしまったきらいがありますね。まあ、いいか。

それでは本文、「第一章 マルクス主義の批判」 に参りましょう。前回と同じく、シモーヌ・ヴェイユの考察を抜粋しつつ、感想等を述べましょう。

前回も書きましたが、もう一度念のため。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

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 科学は占有されている。公教育の組織の不備のせいではなく、科学の本質そのものゆえに。素人は科学の方法ではなく成果にしか近づけない。吸収できないので信頼するしかないというわけだ。 (p16)
ひゃ~、当たってる~! ・・・と思った。例えば、ノーベル○×賞が発表された時。その受賞理由や内容を、新聞・雑誌などで解説している記事を思い出してしまった。所詮、素人には分かったようで分からんような・・・。

 革命の責務とは、本質において、人間の解放ではなく生産力の解放にある。じつをいうと、微小な努力で生産が可能となるまでに生産力が発展をとげるや、人間の解放と生産力の解放いうふたつの責務が一致するのはあきらかだ。 (p17~18)
・・・どうもこのあたりは良くわからない・・・というより、理解しにくいというか、しづらいというか・・・(←おいおい) だけど何故か付箋紙貼ってたんだよね・・・。何で? 何が引っかかったんだろう?(自問)

 マルクスとの関連で宗教という語は意表をつくだろうか。しかし、人間の意志と、世界内で作用して人間を勝利へと導くとおぼしき神秘的な意志とが、奇しくも合致するという信念、それは宗教的な思考であり、神慮への信仰にほかならない。 (p20~21) 
 (前略) この宗教たるや、社会主義運動の内部でもひとしく抑圧の一要因を構成するものなのだ。なべて宗教は人間を神慮のたんなる道具とする。社会主義もまた、人間を歴史的進歩に、すなわち生産の進歩に奉仕させる。 (p21)
・・・どうもこのあたりは良くわからない、パート2。なので、以下同文(←おいおい)
「マルクス」とその思想について私は全く無知なので、多少知ることが出来たなら、分かるとは思うのだが・・・。

 なぜなら、いまだに革命を語りたがる人びとのなかで、この語に同一の実体を与えうる者はふたりといないからだ。それも驚くにはあたらない。革命という語は、それがために人が殺し、それがために人が死に、それがために人民大衆が死に追いやられるにもかかわらず、いっさいの実体を欠く語なのである。 (p36) 
「序」でもそうだったが、「革命」という言葉に、シモーヌ・ヴェイユはかなり敏感というか、神経質というか・・・そんな感じが、私にはした。
「いまだに革命を語りたがる人びと」の中の一人は、トロツキーをさしているのかな。解説で、1933年にトロツキーとあった際に、疑問をぶつけたそうだから。その時の影響が、1934年に発表されたこの論考に入ってないことは、まずなかろう。


シモーヌ・ヴェイユ 悪戦苦闘再読日記・初日

2005-04-07 23:51:51 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
4月5日から、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の再読を始めました。

再読にあたり、決めたことがあります。「訳注は、その時には読まない」
調子良く読んでいるペースが途切れるし・・・。(←というほど、調子良く読み進んでない)
一度目を通しているし・・・。(←といっても、あんまり頭には入ってない)

一回目の読書はほとんど愚痴ばかり書いたので(いっそ削除しようかと思いつめている・・・)、今回はシモーヌ・ヴェイユの考察を抜粋しつつ、感想等を述べる予定。
 マークが、その抜粋部分。今回は、「序」から取り上げます。

念のため。私はシモーヌ・ヴェイユ(ヴェーユ)初心者ですので、たとえチンプンカンプン、見当違いなことを述べていても、多少は多めにみてください(苦笑) こちらも無知と恥をさらすのを覚悟で、やっていますので。

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 現代とは、生きる理由を通常は構成すると考えられているいっさいが消滅し、すべてを問いなおす覚悟なくしては、混乱もしくは無意識に陥るしかない、そういう時代である。 (p9)
冒頭の一文。上記の「現代」とは、これが書かれた「1934年とそれ以前の頃」を示すだろうが、今、私たちが生きている「現代」に置き換えても、十分意味は通ると思う。
逆に言うと、シモーヌ・ヴェイユが生きた時代も、私の生きている時代も、悪い意味では「変化がない」又は「悪循環の繰り返し」ということか? 

 そして経験の示すところでは、先祖たちが啓蒙の光の普及を是としたのは過ちであった。 (中略) 芸術でさえ、全面的な混迷の余波をうけて、支持者の一部を失ったあげく、霊感まで損なってしまった。 (p10) 
前半の「啓蒙」という語に引っかかってしまったのは、『新書アフリカ史』 (講談社現代新書) を読んだせいだと思う。この啓蒙思想が触媒となって、植民地政策が活発になったとは、否定できないからだ。 
後半の「芸術」・・・うーん、どんな「芸術」のこと? 又はどんな「芸術家」をさしているんだろう。「芸術」といえば、文学や美術関連しか思い浮かばない私・・・。美術だと、ダダやシュールレアリスムのこと? ううむ、不勉強だ。

 さらに社会が青年層を閉めだして以来、私的生活は不安以外のなにものでもない。未来への熱い待機(アテント)が全生活を占める世代ですら、世界のいたるところで、自分たちに未来はなく、宇宙に自分たちの居場所はないと自覚しつつ、細々と生きている。 (中略) 来るべきものへの待機(アテント)とは、もはや希望ではなく苦悩なのである。 (p10~11)
何故だかこれを入力していて、「NEET」という言葉で表現される人たちを思い浮かべてしまった。こういう言葉で表現される存在がいるということを、シモーヌ・ヴェイユが知ったとしたら・・・?
しかし果たして、彼女がさす「若者」とは、このような存在をさしていたのだろうか? だとしたら、優れた予見だ。

 ゆえに、いまの時期に要請される第一の義務は、革命という語がたんなる言葉をこえるものなのか否か、明確な内容を要するのか否か、資本主義体制が飛躍の過程で生みだし、昨今の危機がその一環に貢献している数多ある嘘のひとつでないのか否か、などの自問する知的勇気をもつことである。 (p12)
「自問する知的勇気」。それをシモーヌ・ヴェイユはこの論考でやろうとしているのですね。
「革命」という語の危うさについては、上記の後に述べられている。

 この問いは、謙虚さを欠くと思える。革命という語に生命をも含めたすべてをささげた高潔で純粋な人びとが存在するがゆえに。しかし、概念の価値はその概念が流させた血の量で測れると主張できるのは、祭司たちだけである。 (中略) 革命家たちもまた益なくおのれの血を流したのではないと、だれにわかるだろう。
世界史上初の「革命」を成し遂げた国・フランスで生まれ育ったシモーヌ・ヴェイユですから、彼らに敬意を表しつつ、冷静に分析しないといけないのですね。この厳しくも非情なまでの透徹としたまなざしが、シモーヌ・ヴェイユたる所以では、と感じる。

とりあえず、一回目は読了。そして・・・

2005-04-06 23:13:59 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
4月4日、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の悪戦苦闘の読書第4日目。

第三章の途中から第四章まで。
惰性で読んでいるようなもんです。「早く読了したい」という思いと、「何か一つでも食いつきたい、捕らえたい」という思いが錯綜してました。

名言が、多すぎる。いつもやっている、「付箋紙を貼る」という行為。今回はあまりの多さにひいてしまい、よっぽどのところでない限り貼らないようにした。
名言が多いと書いたが、書き手には不本意なことかもしれない。シモーヌ・ヴェイユにとっては「当たり前のこと」「当然のこと」を考えて、書いているのだから。
前回思いついた、「彼女のプロフィールを知ろう」・・・変な先入観を抱くのも困るかなと思ったので、読了するまではと、じっとガマン。

この時には「明日から再読」と決めていた。

以上が、第4日目の報告です。
「悪戦苦闘読書日記」、次回から「悪戦苦闘再読日記」 に変わります(笑) 愚痴はなるべく控えます。一回目の読書日記読んで、愚痴しか書いてないから、読んでてつまらなかったでしょ? ごめんなさい。
私が引っかかった、シモーヌ・ヴェイユの文章を紹介しつつ、まともで真面目な読書日記を予定しています。

シモーヌ・ヴェーユを読んだことのあるタカムラーさんに、彼女の論文の感想などを、一度お聞きしたいものですわ。
(↑これは高村薫さん表記です。)

更に間違いに気付く

2005-04-05 22:32:46 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
4月2日、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の悪戦苦闘の読書第3日目。

第二章の途中から、第三章の途中まで。
ええ、もう、相変わらず分かりませんとも! 開き直っても、それだけは分かる。つまり、それだけしか分からない。(←また禅問答か・・・)

分からないことが分からないと分かっているだけ、マシ? いえ、そんな「無知の知」というものなら、いいんですけどね。
そういうもんじゃないんだいっ! (雄たけび)

そこで、根本的なことに  と気付く。

シモーヌ・ヴェイユって、何者!?

私、何にも知らないよ! それに気付くの、遅すぎるほど遅いよ! 調べなきゃ!

・・・と、3日目でようやく気付く、 より鈍い女。
こういう時は、インターネットで検索かけるのが一番。しかし、情報が多すぎて、その時点で断念(苦笑)

この時点で既に、「再読しよう!」と思っていたと思う。

浮き沈みが激しいまま、第三章の途中まで、2日に読了。3日の日曜日は「休読日」なので、続きは4日に。

以上が、第3日目の報告です。「悪戦苦闘読書日記」、まだまだ続きます。

ひらめきと開き直り

2005-04-03 20:01:07 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
4月1日、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) の読書第2日目。
(前回書き忘れましたが、訳者さんの「解説」も、第一章の途中で読みました。)

第二章から第2日目に入るのですが、読み始める前に、私にしては大変珍しいことに「葛藤」がありました。
分からないまま、読み進めるべきか。それとももう一回、第一章を再読すべきか。ものすごく逡巡したんです。
第1日目だけで「序」を3回読んで、それとなく分からないことも、分からないことがあるということも、分かってきたし・・・(←禅問答か)

・・・結局、第二章を読み出しました。

読んでいるうちに、 とひらめくものが。

そうか、これは「論考」だったんだ。シモーヌ・ヴェイユの厳しい内容の文章に、食われて当然なんだ。この人は自分の思考をさらけ出している。読む相手が初心者だろうとベテランだろうと、そんなことはこの人にはどうでもいいことなのだ。

ならば、いっそ「優秀な教師と出来の悪い生徒」という関係になってしまえばいい。読み解けない自分に苛立っているより、その方がナンボかまし。(関西人以外には「ナンボ」の意味が分からないかも。「いくらかまし」と素直に書けばいいんだが、ま、そこは語感でね・苦笑) それに分からなかったら、また読んだらええねん!

そう開き直ると、少しは冷静になって、読むことが出来た(と思う) (←カッコ書きのところが、まだまだ怪しい)

まあ、相変わらず、訳註 にも泣かされていますがね 
ギリシア神話を元にして引用している註は、もちろん分かりますが、マルクス、ヘーゲル、アダム・スミス、スピノザ、ラマルク、エンゲルス、ルソーetc・・・になると、ホントにお手上げ状態  (←これ、ホントは「バンザイ」の絵文字なんですが・・・)

そして、とにもかくにも、第二章の途中までは1日に読了。

以上が、第2日目の報告です。「悪戦苦闘読書日記」と改定した方が、ええんちゃうか?

ホンマに歯が立たん(泣)

2005-04-02 07:17:39 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
3月31日から、シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) 読み始めています。
正式タイトルは、『自由と社会的抑圧の原因をめぐる考察』 だそうです。

・・・。

ええーい、何を書こう(苦笑) ちょっと、絵文字で表現していい?

           

・・・といった感じです。(わかるかっ!)

はい、正直に書きます。最初の「序」からして、「何を書いてんねん!」と思いました。「何を対象にして、何を論じているのか」というのが、私のおバカな頭ではさっぱり分かりませんでした。

「読み進んでいけば分かるやろ」と、「第一章 マルクス主義の批判」へ。
・・・マルクス主義? ・・・ローザ・ルクセンブルク? ・・・ラマルク? ・・・ダーウィン主義?
そりゃ世界史の教科書に載ってますけど、「何を主張し、論じたのか」という根本的なことは、習ってません。そこからして、既に歯が立たない。ちなみに、私があまり関心のないジャンルだったりします(苦笑)

「わかんない・・・」と心中で呟きつつも読み進めるけど、 三歩進んで 二歩下がる~  と歌いたくなる心境。

「これではいかん!」と、第一章の途中で、もう一度「序」を再読。
・・・接続詞が多いなあ(苦笑)

「もはや」 「むしろ」 「つまり」 「ゆえに」 「しかしながら」  などなど。

「そうか、これが混乱を招いているのかも 」 と、はっと気づく。「それを抜いて読めば、分かりやすいかも」と、もう一度「序」を読む。

・・・「序」だけは、何となく分かってきた(気がする) (←カッコ書きのところが、まだ怪しい)

そして、とにもかくにも、第一章だけは31日に読了。

以上が、第1日目の報告です。

第2日目の報告は、今日の夜か、明日に。今日は出勤なんです。今から朝ごはん食べて、いってきまーす!

「高村薫作品を楽しむための、参考書籍」のための案内。

2005-03-30 21:28:03 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
まともに更新していないのに、またまた新カテゴリの追加。
題して、高村薫作品を楽しむための、参考書籍

早い話が、高村作品を読んでみて、更に詳しく、少しでも理解を深めることが出来るような書籍を、独断と偏見で選んでご紹介していこう というコーナーです。

例えば、『リヴィエラを撃て』 に出てくる、IRAやアイルランド問題について。「あまり知らないから、知りたいな」と思った時に、どういう本を読んだらいいのか、迷ってしまうと思います。あまりに膨大な量の書籍が出版されていますからね。

それを私の数少ない、個人的な読書体験をさらけ出して、「こんな本を読んでみたらいかがですか。もっと理解が深まって、高村作品を更に面白く読むことが出来るかもしれませんよ」と、ご案内していこうというわけです。
念を押しますが、「個人的」にです。これが「絶対的」ではありません。読書については、それこそ一人一人読み方が違いますから。こういう読書の一例もあるんだ、と感じていただければ、幸甚です。
公の理由としては、(欲を言えば)このカテゴリが、「高村作品をより深く知るための参考文献」 ・・・になればいいなあ、と思うのです。

とりあえず、チャレンジ 

シモーヌ・ヴェーユの本

2005-03-30 21:14:01 | 高村薫作品のための読書案内・参考書籍
を、入手しました。

シモーヌ・ヴェイユ 『自由と社会的抑圧』 (岩波文庫) 

明日から読んでいきます。何の予備知識もないので、歯が立たないかもしれませんが・・・ 
しばらくの間このカテゴリは、読了するまでの「リアルタイム読書日記」と化すでしょう。

***

再三書いていますが、『レディ・ジョーカー』 の主要登場人物の一人・根来史彰さんの愛読書が、シモーヌ・ヴェーユの本です。
「読み友達」の加納祐介さんに差し上げようとした、シモーヌ・ヴェーユ全集。加納さんが持っているのなら、「合田さんに上げて下さい」 (『LJ』下巻p273) とまで言ってました。

ただ残念なことに、各々のタイトルが書かれていないんですよね。だから 『LJ』 上巻p420~421で、根来さんが思い返していたシモーヌ・ヴェーユの思想が、この文庫の中に綴られているかは、全く不明。

***

根来さん(そして高村さん)が、シモーヌ・ヴェーユについてどう思っているのかを、ピックアップ。

中身は、一九三〇年代の欧州を覆った共産主義の熱気の中で、労働の意味、宗教の意味を思索した一人の女性の残した手紙、哲学論考、創作などの寄せ集めだ。マルクス主義思想の中身は根来には受け入れられない点も多いが、言葉の一つ一つ、ページの一行一行から溢れ出る一人の人間の、とてつもない息吹、信念、情熱、優しさ、脆さ、危うさ、美しさに打たれ、人間が物を考えることの偉大さに触れ、生きていてよかったと思わせる悦びに満ちているのだった。だから、開くのはどのページでもよく、ストライキの話であれ、神の話であれ、自分に書き送られてきた手紙のように数ページを読み、その真剣な眼差しを受け取って心が洗われ、半世紀も前に死んだ女性に感謝しつつ、それではおやすみと本を閉じるのだ。   (『LJ』上巻p420) 

こうして人間が無意識へ沈んでいくのを、シモーヌ・ヴェーユは恐れていたっけなと思いながら、しかし貴女、この国ではほとんど誰も飢えていないんだ、そこそこ食える生活の蔓延がこの温んだ日向水のような穏やかさだ、と根来は独りごちた。  (『LJ』上巻p421)