26日(土)の読書分です。
こんな記事を見つけて、「うわあ、まるで『LJ』の発端やん・・・」と思いました。
***
【本日の名文・名台詞・名場面】
いきなりネタバレしてしまうので、隠し字。
倉田副社長は学生結婚した(中巻p70)とありますが、いつどこでどうやって、城山社長の妹・晴子と《男女の仲》になったのか、ますますさっぱり分からない。
杉原氏と結婚を決めた時には、倉田氏は当然妻子持ち。 ホントになにがどうなってそうなったのか。 恋に落ちるのに、理由は要らないということか。
それよりなにより、「不倫関係」になったのはいつなのか。
ホント、疑問符だらけ、謎だらけ。
ここまでネタバレ。どうでもいいことでした。すみません。
<第三章 一九九五年春――事件>
日之出ビール経営陣、三者揃い踏み。城山社長・白井副社長・倉田副社長の三人だけで顔を合わせたのは、意外なことにここだけか?
日之出ビールの描写を読むと、『LJ』は経済小説の一種としても読めると感じる。
★しかし、時代は変わる。城山自身と比べても倉田の企業観は保守的であり、それは製造業が製造業であり続ける限り、仕方のない面もあるが、白井誠一などと対比すると、経営者としての能力の差はいまや歴然としていた。倉田の頭はいまなお月々の売上高の積み上げることに占領されているが、白井のほうは早い時期に、株主資本利益率から企業の収益性を評価していた男で、装置産業の未来は低成長だと言いきって多角化の先鋒に立ってきた。 (中巻p72)
★倉田にいま、会社への献身に距離を置く気持ちが芽生えているとしても、何の不思議もない話だったし、そんなふうに思う城山自身、犯人たちから姪の写真を渡されたとき、早々に、会社のために死ねるかと思った人間だった。とはいえ、三十年の伴侶の変身を見つめながら、城山は、自分の足元がふわりと崩れていくような一瞬の感覚を味わい、いままた新たに思いがけない発見をしたような、密かな敗北感に満たされた。拉致されて以来、さんざん物を考えてきたつもりだったが、それでも及びもつかなかった一つの発見だった。 (中巻p75)
ふとしたところで出てくるよね。ドキッとするような高村さん特有の表現が。ここでは言わずもがなかも知れませんが、「三十年の伴侶」でしょう。
★だいいち、嘘と言っても、三百五十万キロリットルのビールと比べるまでもない小さな嘘に、どれほどの意味があるのか。姪一家のためというが、佳子と哲史は自分にとって何者なのか。自分が戻って来たのは、会社のためか、家族のためか。
最後の問いだけは、答えを知っている、と城山は思った。誰のためでもなく、自分はたんに死ぬ勇気がなかったのだ、と。 (中巻p93)
★それにしても自分はいったい何を期待していたのだろう。人間に対して。社会に対して。企業に対して。 (中巻p96)
★城山は受話器を置き、最後の忍耐を費やしてつくづく考えた。この数分の間に聞いたどの声も、家族の声すらも、ひたすら遠く感じられたのは、要するにこれが犯罪の被害者になるということなのだ、と。犯人の声を聞き、三百五十万キロリットルのビールが人質だと耳に吹き込まれた自分と、自分以外のすべての世界との間に出来た距離が、いたるところに口をあけているのだ、と。
なるほど、これが被害者になるということなのか。 (中巻p101)
★ネタに関して、得するとかしないといった言い方は、新聞記者はしない。 (中巻p113)
以下は根来さんが、松田という弁護士崩れの評論家と会うところ。 根来さん(≒高村さん)の思考と対比させるために、松田という人物を配したのかな、という気がします。
★根源も論理も必然も欠いたまま、天皇とか、民主主義とか、差別といったそれぞれの塊は、いまや車の排気ガスやカラオケの騒音に混じって、時代の只なかに不可視の綿埃のように漂っている、と根来は思う。その上をJRの電車のまばゆい明かりが走り、彼方の夜空には、東証株価の一万六千円台の乱高下や、日之出ビール社長誘拐犯六億要求を伝える広告塔の電光ニュースがぴかぴか光り、高架橋の下を行く雑踏の蹴散らした綿埃は、その辺で吹き溜まりを作っているのだ、と。成長も消滅もせず、誰も取り除かず、誰かが関わりをもっているのだが、すでに社会的合理性を失い、言葉の喚起力を失って、それでも現にたしかに在るのは間違いない民主主義の綿埃に、根来はそのときもまた、なすすべもなく苛立った。 (中巻p121)
★「人権なんてものは、法律が定める物事の関係の一つに過ぎないという意味で、初めから政治的なものだと思っている人間だから。おおかたの人権団体とは、もともとそこのところですれ違っているのさ」 (中巻p123)
★松田に限らず、Aを批判しBを提案しCという結果を予測する政治ジャーナリズムには、場当たり的な論旨の明快さはあっても、懐疑というのがないのだった。物事を直線的に思考できない自分の頭にはこれは向いていないと、根来は三十代初めにして悟ったが、個人的には明快であることが常に正しいのかという疑問はいまもあった。 (中巻p124)
★「評論家だって考えは変わるよ。考えが変わったということを白状せんだけだ」 (中巻p125)
★初田は人権も物事の関係の一つであると言うが、この十数年、このカウンターにあったのは、物事の関係ではなく、物そのものだったと根来は思う。自問も懐疑もなく、成長も消滅もせず、ビール瓶のように、コップのように、おしぼりのようにここに在り、店の外では綿埃のように在り、毎夜ビールをコップに注ぎ、飲み干すように消費されてきた憲法、民主主義、人権だ。 (中巻p125)
こんな記事を見つけて、「うわあ、まるで『LJ』の発端やん・・・」と思いました。
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【本日の名文・名台詞・名場面】
いきなりネタバレしてしまうので、隠し字。
倉田副社長は学生結婚した(中巻p70)とありますが、いつどこでどうやって、城山社長の妹・晴子と《男女の仲》になったのか、ますますさっぱり分からない。
杉原氏と結婚を決めた時には、倉田氏は当然妻子持ち。 ホントになにがどうなってそうなったのか。 恋に落ちるのに、理由は要らないということか。
それよりなにより、「不倫関係」になったのはいつなのか。
ホント、疑問符だらけ、謎だらけ。
ここまでネタバレ。どうでもいいことでした。すみません。
<第三章 一九九五年春――事件>
日之出ビール経営陣、三者揃い踏み。城山社長・白井副社長・倉田副社長の三人だけで顔を合わせたのは、意外なことにここだけか?
日之出ビールの描写を読むと、『LJ』は経済小説の一種としても読めると感じる。
★しかし、時代は変わる。城山自身と比べても倉田の企業観は保守的であり、それは製造業が製造業であり続ける限り、仕方のない面もあるが、白井誠一などと対比すると、経営者としての能力の差はいまや歴然としていた。倉田の頭はいまなお月々の売上高の積み上げることに占領されているが、白井のほうは早い時期に、株主資本利益率から企業の収益性を評価していた男で、装置産業の未来は低成長だと言いきって多角化の先鋒に立ってきた。 (中巻p72)
★倉田にいま、会社への献身に距離を置く気持ちが芽生えているとしても、何の不思議もない話だったし、そんなふうに思う城山自身、犯人たちから姪の写真を渡されたとき、早々に、会社のために死ねるかと思った人間だった。とはいえ、三十年の伴侶の変身を見つめながら、城山は、自分の足元がふわりと崩れていくような一瞬の感覚を味わい、いままた新たに思いがけない発見をしたような、密かな敗北感に満たされた。拉致されて以来、さんざん物を考えてきたつもりだったが、それでも及びもつかなかった一つの発見だった。 (中巻p75)
ふとしたところで出てくるよね。ドキッとするような高村さん特有の表現が。ここでは言わずもがなかも知れませんが、「三十年の伴侶」でしょう。
★だいいち、嘘と言っても、三百五十万キロリットルのビールと比べるまでもない小さな嘘に、どれほどの意味があるのか。姪一家のためというが、佳子と哲史は自分にとって何者なのか。自分が戻って来たのは、会社のためか、家族のためか。
最後の問いだけは、答えを知っている、と城山は思った。誰のためでもなく、自分はたんに死ぬ勇気がなかったのだ、と。 (中巻p93)
★それにしても自分はいったい何を期待していたのだろう。人間に対して。社会に対して。企業に対して。 (中巻p96)
★城山は受話器を置き、最後の忍耐を費やしてつくづく考えた。この数分の間に聞いたどの声も、家族の声すらも、ひたすら遠く感じられたのは、要するにこれが犯罪の被害者になるということなのだ、と。犯人の声を聞き、三百五十万キロリットルのビールが人質だと耳に吹き込まれた自分と、自分以外のすべての世界との間に出来た距離が、いたるところに口をあけているのだ、と。
なるほど、これが被害者になるということなのか。 (中巻p101)
★ネタに関して、得するとかしないといった言い方は、新聞記者はしない。 (中巻p113)
以下は根来さんが、松田という弁護士崩れの評論家と会うところ。 根来さん(≒高村さん)の思考と対比させるために、松田という人物を配したのかな、という気がします。
★根源も論理も必然も欠いたまま、天皇とか、民主主義とか、差別といったそれぞれの塊は、いまや車の排気ガスやカラオケの騒音に混じって、時代の只なかに不可視の綿埃のように漂っている、と根来は思う。その上をJRの電車のまばゆい明かりが走り、彼方の夜空には、東証株価の一万六千円台の乱高下や、日之出ビール社長誘拐犯六億要求を伝える広告塔の電光ニュースがぴかぴか光り、高架橋の下を行く雑踏の蹴散らした綿埃は、その辺で吹き溜まりを作っているのだ、と。成長も消滅もせず、誰も取り除かず、誰かが関わりをもっているのだが、すでに社会的合理性を失い、言葉の喚起力を失って、それでも現にたしかに在るのは間違いない民主主義の綿埃に、根来はそのときもまた、なすすべもなく苛立った。 (中巻p121)
★「人権なんてものは、法律が定める物事の関係の一つに過ぎないという意味で、初めから政治的なものだと思っている人間だから。おおかたの人権団体とは、もともとそこのところですれ違っているのさ」 (中巻p123)
★松田に限らず、Aを批判しBを提案しCという結果を予測する政治ジャーナリズムには、場当たり的な論旨の明快さはあっても、懐疑というのがないのだった。物事を直線的に思考できない自分の頭にはこれは向いていないと、根来は三十代初めにして悟ったが、個人的には明快であることが常に正しいのかという疑問はいまもあった。 (中巻p124)
★「評論家だって考えは変わるよ。考えが変わったということを白状せんだけだ」 (中巻p125)
★初田は人権も物事の関係の一つであると言うが、この十数年、このカウンターにあったのは、物事の関係ではなく、物そのものだったと根来は思う。自問も懐疑もなく、成長も消滅もせず、ビール瓶のように、コップのように、おしぼりのようにここに在り、店の外では綿埃のように在り、毎夜ビールをコップに注ぎ、飲み干すように消費されてきた憲法、民主主義、人権だ。 (中巻p125)