犬がおるので。

老犬から子犬まで。犬の面倒をみる暮らし。

イマジン、ノーヘブン。

2015年07月26日 | おせわがかり日誌



誰かがこの世を去るとき、

その誰かを大事に思っていた人たちは、

ふだんどおりに生きてはいけるが、

いいようのない喪失感にさいなむ。

それが生きていることだ。



「人間死んだら終わり」

生きてるうちにしかできないことはできなくなるだろう。

そういう経験は生きているうちにしっかりしておいたほうがいい。

でもどんなに稼いでもお金は持っていけないし、

どんなに好きでもあの子もあの人も連れてはいけないのだ。



小さいころ、親しい人や身近な人が亡くなって、

それらが、何かの土台となったのか知らないが、

私は、宗教観とはまた別の、死生観を持っている。



死ぬと人の営みは終わる。

終わるけど、死んでから初めて「自由」になる。

生きているときにできなかったことができるようになる。

あの人に遠慮してできなかったこと、

お金がなくてできなかったこと、

仕事が忙しくてできなかったこと、

体が思うようにならなくてできなかったこと、

そういうことのすべてがなんとかなる。

心のままに、思うように、生きられる。

勝手にそう思っている。

不自由からの「解放」。

ほんとの自由を手に入れる。




生きていても死んでいても、

結局のところ人が人にできることは、

寄りそうことだけではないだろうか。

だから死んで自由になったら、

あの人にもあの人にも寄りそう。

大切な人たちを見守る。



そういうことを考えているからか、

大切なひとが死んでしまうことは、

本当に残念でかなしいことなのだが、

反対に気持ちが楽になるところもある。

説明できない不思議な気持ちなのだが、

そういうようなことを、

昨年愛犬を失った石田ゆり子さんが、

丁寧に率直につづられている
ので、

こちらを読んでいただけたらな、と思う。





上手く言えないけれど、
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。

花のこと。-石田ゆり子





芥川龍之介の妻の文さんが、

亡くなった龍之介(自殺といわれている)に、

「お父さん、良かったですね」

と語りかけたという説があるのだが、それと似ている。

生きているとき、さんざん苦しんで、

そこから解放されたのを、最期の姿からみてとったのだろう。

文さんはずっと龍之介に寄り添って生きていたんだなあ。

観てきたわけではないのだが、きっとそうではないかと思う。

かなしくないわけではない。

苦しくないわけではない。

でも、救われている部分もある。

少なくとも彼は自由になったんだ、

ずっと苦しめられてきたその痛みから。





先日見た『海街diary』でも、

同じような不思議な感覚が漂う世界が描かれていたので、こちらのほぼ日コラムも貼っておく。

『ぼくはなぜ物語を描くのか 是枝裕和』

この映画に登場する男の子(まえだまえだ弟)がこんちゃんにそっくりだ。

こんちゃんもよく、こんなふうに、少し離れたところから、じーっと見ている。

言葉をかけられるより、抱きしめてもらうより、あたたかくて、やわらかい、やさしい思いを感じる。




生きていても、死んでいても、

人が人に、いや、生き物に、

できることは添うことだけだ。



そうだとすれば、

みんな、誰かが寄り添っている。

今はここにいない人が、

生きてる人を支えてる。

いやもちろん、犬も猫も、いきもののすべて。