誰かがこの世を去るとき、
その誰かを大事に思っていた人たちは、
ふだんどおりに生きてはいけるが、
いいようのない喪失感にさいなむ。
それが生きていることだ。
「人間死んだら終わり」
生きてるうちにしかできないことはできなくなるだろう。
そういう経験は生きているうちにしっかりしておいたほうがいい。
でもどんなに稼いでもお金は持っていけないし、
どんなに好きでもあの子もあの人も連れてはいけないのだ。
小さいころ、親しい人や身近な人が亡くなって、
それらが、何かの土台となったのか知らないが、
私は、宗教観とはまた別の、死生観を持っている。
死ぬと人の営みは終わる。
終わるけど、死んでから初めて「自由」になる。
生きているときにできなかったことができるようになる。
あの人に遠慮してできなかったこと、
お金がなくてできなかったこと、
仕事が忙しくてできなかったこと、
体が思うようにならなくてできなかったこと、
そういうことのすべてがなんとかなる。
心のままに、思うように、生きられる。
勝手にそう思っている。
不自由からの「解放」。
ほんとの自由を手に入れる。
生きていても死んでいても、
結局のところ人が人にできることは、
寄りそうことだけではないだろうか。
だから死んで自由になったら、
あの人にもあの人にも寄りそう。
大切な人たちを見守る。
そういうことを考えているからか、
大切なひとが死んでしまうことは、
本当に残念でかなしいことなのだが、
反対に気持ちが楽になるところもある。
説明できない不思議な気持ちなのだが、
そういうようなことを、
昨年愛犬を失った石田ゆり子さんが、
丁寧に率直につづられているので、
こちらを読んでいただけたらな、と思う。
上手く言えないけれど、
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。
花のこと。-石田ゆり子
私はなぜか、前より花を近くに感じます。
私の中に、花がいるのを、確信します。
不思議な感覚なのです。
寂しいけど、悲しいけど、でも、さみしくない。
嘘じゃありません、本当にそうなんです。
花のこと。-石田ゆり子
芥川龍之介の妻の文さんが、
亡くなった龍之介(自殺といわれている)に、
「お父さん、良かったですね」
と語りかけたという説があるのだが、それと似ている。
生きているとき、さんざん苦しんで、
そこから解放されたのを、最期の姿からみてとったのだろう。
文さんはずっと龍之介に寄り添って生きていたんだなあ。
観てきたわけではないのだが、きっとそうではないかと思う。
かなしくないわけではない。
苦しくないわけではない。
でも、救われている部分もある。
少なくとも彼は自由になったんだ、
ずっと苦しめられてきたその痛みから。
先日見た『海街diary』でも、
同じような不思議な感覚が漂う世界が描かれていたので、こちらのほぼ日コラムも貼っておく。
『ぼくはなぜ物語を描くのか 是枝裕和』
この映画に登場する男の子(まえだまえだ弟)がこんちゃんにそっくりだ。
こんちゃんもよく、こんなふうに、少し離れたところから、じーっと見ている。
言葉をかけられるより、抱きしめてもらうより、あたたかくて、やわらかい、やさしい思いを感じる。
生きていても、死んでいても、
人が人に、いや、生き物に、
できることは添うことだけだ。
そうだとすれば、
みんな、誰かが寄り添っている。
今はここにいない人が、
生きてる人を支えてる。
いやもちろん、犬も猫も、いきもののすべて。