
先月まで雪が降っていたことをすっかり忘れるくらい、春、前のめり。
毛皮のどうぶつは、それまで、おとうさんといっしょにねんねんしていたのを、あっさりやめる。
おとうさんはもちろん、さびしい。

あんなに大好きだった「こたち」にも、もう未練がないようだ。
今日みたいにあっちぃ日は、川遊びの夢を見るくらいなのだから。
「こたち、ばいばい」
早々と別れを告げるオレコさん。
あんなにお世話になったのに。
そういえば、さよなら、っていうことばは、
「本当はこのまま一緒にいたいのだが、どうにもならない事情がおありになるとのこと。
お別れするのは実に忍びないことだけれども、左様なら、お別れつかまつりましょう」
というような意味合いを持つ日本語の“左様なら”が語源となっており、
そのひとことだけで「本当はあなたと別れたくなんてないんですよ」という思いを含んだ、
世にも美しいことばなのだ、というのを、リンドバーグ夫人の随筆で、私は、知った。
日本人なのだが、外国人の、それもとうに亡くなった方の残したものから、
毎日のように使う日本語のほんとうの意味を教えてもらったのだった。
この方の随筆を、だれかうまい人がナレーションしてくれないかな、と思う。
確か北海道の湿原に夫とともにとんだ小さな飛行機が不時着し、
夜のほとり声を子として助けを待ち、やがて出会った人たちとの、
心のふれあい、そして別れに触れた内容だったと、記憶している。
若いころのことで、もう忘れちゃいましたがな。
違っているかもしれん。
美しいことばばかりで、美しいことばというものは、
美しい心の持ち主にしか生まれないし、使えないのだな、ということを、知ったのだった。
アントニオ・タブッキのインド夜想曲(須賀敦子訳)のような、静かな、美しい本だった。
どんなに素晴らしく美しい容姿で、心とかすような笑顔を見せている人も、
本当に素晴らしく美しいか、否かは、心しだい。
さても今まで仲良くしてくれてありがとうよ、こたちよ。
今年はそろそろ、さようなら。
来年また、よろしくお願いしますね。