鳥撮りに行ってもなかなか出会えず、この時期も多くの季節の花が咲いているのを目にして、シャツターを切ることも多くなっています。
キキョウが咲き始めました。
今年はアザミがよく見られます。
カキツバタも見られるようになりました。
カンナが咲き始めると、夏を感じます。
鳥たちにもたくさん会いたいものです。
鳥撮りに行ってもなかなか出会えず、この時期も多くの季節の花が咲いているのを目にして、シャツターを切ることも多くなっています。
キキョウが咲き始めました。
今年はアザミがよく見られます。
カキツバタも見られるようになりました。
カンナが咲き始めると、夏を感じます。
鳥たちにもたくさん会いたいものです。
梅雨といえば、アジサイです。ずっと昔、当時参加していた写真クラブでアジサイの有名なお寺に行く撮影会に参加しましたが、雨模様で雨合羽を着ての撮影で、蒸し暑くて苦労したことを思い出します。
西山の麓の古刹のガクアジサイがきれいです。初めてこの花を見た時、珍しいなと思ったのを微かに覚えています。
虫たちもやってきていました。
あめの合間の日差しが待たれます。
植物は自ら動くことは、原則としてありません。特異な性質などがない限り。しかし、何かに動かされることはあります。自分の意志ではないのですが、自然のしくみのなかではそれが自らの意思を持っているように感じられる時があります。
風によって、桜や枝垂れ梅の花びらが散る場面に出会うと、こころが動き、ついシャッターを切ります。しかし、納得する写真は撮れたことがありません。
以前、ネイチャーフォトとして、桜の花びらなどが水の流れにのって動くことを被写体として撮ることが「流行った」ことがあります。「流行った」というのは今はあまり見られないので、わたしにはそう思えるということなのですが。そんなことはいくつかあるように思います。例えば、サルたちが温泉につかっている場面とか、眠る体制にありながら目を開けている鳥たちの場面とかですが、それは被写体の感情などを的確に表現することができるからでしょうし、わたしも否定的に「流行る」のが軽薄だとかいうつもりではありません。そういう場面を最初にとらえられた感性はすごいなと思います。
鳥を撮りに谷の川へ行った時に、川のたまりに多くの桜の花びらが浮いているのを見つけました。これが流れていたらと思いましたが、よく見ると少しずつ動いているところがありました。ひょっとしてと思い、スローシャッターで撮ってみたところ、少し動きが撮れたようでした。
このようなものがどのように評価されるのかわかりませんが、動かないものが風や水の流れによって動くことは、日常的な視点が変わり、なにか違うものが感じられるとしたら、それはそれで面白いと思います。
花は、それぞれに美しさを感じることのできるものです。色も形もその有り様も、そう感じます。ですから写真に撮るとどんな撮り方をしてもきれいだなと思えるものが撮れます。しかしそれだけに、何に美しさを感じたのか、それはなぜなのかを見る人に追求したくなるものを作品として創るのは、難しいものだとも思います。
わたしの写真活動再開からの二十年のなかで、師と呼べる人は三人います。そのなかに「花を撮らせれば」と形容される方がおられるのですが、その方の真似をして撮ってみたことがあります。
やっぱり、技法だけでは無理なようです。なにを表現・追求するのかがはっきりしてから、どう撮るかの技法が決まってくるのです。そんなことがはっきりした試行でした。
しかし、それでも花を撮る面白さは感じることができました。これからも、少しずつチャレンジをしていきたいと思っています。