前回に続き、ナガサキについて書こうと考えたが、長崎での適当な絵や写真が見つからないので、このヒロシマの絵のことなどを紹介する。
前回、初めて原水禁日本大会に参加、広島、長崎を訪ねてから66年になると書いたが、66年にわたり反核平和の活動に関わってきたということではない。当時の大学生協連は「平和と民主主義の擁護」は謳っていたが、具体的に原水爆禁止運動の取り組みを提起してはおらず、全国理事会のあとで5人の学生理事が長崎、広島の被爆地を訪ねたのは個人的なものだった。その後、日本生協連で働くことになったが、平和活動とはかかわりはなかった。
それが、1977年、日本生協連が他の市民団体などとともに原水禁運動の統一を成功させ、78年の国連軍縮特別総会に向けた署名などを全国の生協に呼びかけると、それが当時大学生協の支援の延長で地域生協(戸山ハイツ生協→都民生協)の役員になっていた私の課題の一つになった。急遽、原爆被爆の実態や被爆者問題などの学習が始まったが、驚いたことに組合員の理解は早く「命と暮らしを守る」といっている生協だから当然のこととして署名活動もカンパに取り組んだ。新組合員の獲得、新事業の拡大など専従幹部も組合員リーダーも多忙で、私が生協の理念や歴史から平和活動の必要性を説明することもなかったが、取り組みは一気に広がった。
その後、東京都生協連の役員になってからは第5福竜丸のある平和島からの平和行進で先頭に立つことなど暑い夏は平和活動一色となった。それは、1981に日本生協連に戻ってからも、肩書や責任の軽重はあったが10数年は続いた。組合員活動を担当する部長とか常務理事の肩書の時代は、3月のビキニデーや8月のヒロシマ・ナガサキ行動への参加は必須だった。6日のヒロシマ行動を終え、そのまま9日のナガサキ行動に向かうこともたびたびあり、現地の皆さんとの打ち合わせ、交流のほかに写真撮影やスケッチもすることがあった。
その絵がすこし役に立ったと思ったのは1995年、核兵器は人道法上違法と訴えた「世界法廷運動」でオランダ・ハーグに行き、さらにフランスの核実験抗議のためパリに行った時である。国際司法裁判所へ330万筆の要請署名を渡し、法廷傍聴(写真)のあと被団協の山口仙二さんを代表にした10名ほどがパリに行き、パリ政府代表に要請書を渡し、街頭宣伝(写真)をした。
パリ街頭での宣伝活動や記者会見のあと、その私たちの活動に協力いただいたパリの平和活動家の皆さんと交流、夕食会を行った。その折に、私のつたない「原爆ドーム」の絵を代表の方に差し上げた(写真下)。写真中央で通訳をされているのが、このパリ行動で大変お世話になった美保シボさん。パリ在住の美保さんはご主人が教職員組合の幹部で平和活動家であり、美保さんは千羽鶴の佐々木貞子さんのことを海外に紹介するなど、日本に来ると反核運動に参加しており私も旧知だった。フランス語も英語も不自由でその後の皆さんと交流出来ていないのが残念。
反戦平和のためには絵画も音楽も、あらゆる文化が役立つし必要だと思う。2016年のヒロシマでの日本生協連・虹の広場で広島市立基町高校の生徒の原爆絵画展を見た(写真下3枚)。生徒たちが原爆被災者の話を聞きながらその様子を油彩画にしたもので、その絵と多くの時間をかけての取り組みの様子を聞き、感動した。感動を与えるような絵を描きたいが、2016年いらいコロナ禍と高齢で広島などには行けないでいる(前回書いたように田中煕巳さんには君はまだ若いと叱られるが。)基町高校の生徒のように、皆さんが何らかのかたちで戦争は嫌、平和が好きと表明されることを望みます。
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