(承前)
船団がどの程度の規模であったかはわからない。
五月に、大将軍大錦中阿曇比羅夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、勅を宣りて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)
「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐郡凡海郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/0c/767ee25cb0d753be99db6fbd06259021.jpg)
※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」や「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)。
大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表ができることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できないことになる。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。
白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室福信と内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔を目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。
秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済王の己が良将を斬れるを以て、直に国に入りて先づ州柔を取らむことを謀れり。是に、百済、賊の計る所を知りて、諸将に謂りて曰はく、「今聞く、大日本国の救将廬原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、預め図るべし。我自ら往きて、白村に待ち饗へむ」といふ。
戊戌(17日)に、賊将、州柔に至りて、其の王城を繞む。大唐の軍将、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈れり。
戊申(27日)に、日本の船師の初づ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、陣を堅めて守る。
己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象を観ずして、相謂りて日はく、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本の伍乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右より船を夾みて繞み戦ふ。須臾之際に、官軍敗続れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し。艫舳廻旋すこと得ず。朴市田来津、天に仰ぎて誓ひ、歯を切りて嗔り、数十人を殺しつ。焉に戦死せぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)
豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不レ得二廻旋一。」となってしまった。
舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛」、「艫 力魯反、舟前鼻也、戸」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は閇〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛と曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。
……皇軍遂に東にゆく。舳艪相接げり。方に難波碕に到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
又、筑紫の伊覩県主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫に立てて、……穴門の引嶋に参迎へて献る。(仲哀紀八年正月)
是歳、新羅の貢調使知万沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊れり。朝庭、恣に俗移せることを悪みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰さく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(斉明紀六年是歳)
紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無レ故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無レ故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて、「艫舳不レ得二廻旋一。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
白村江、今の錦江の河口、群山では、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智2年は閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日、朔の2〜3日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にみると、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)。
決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不レ得二廻旋一。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、川の中央へ向って並んで左右から進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船を俎上にとらえて、火矢で射、次々と焼いていった。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇二倭兵於白江之口一、四戦捷、焚二其舟四百艘一。煙燄漲レ天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱レ身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめ切れないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明7年(661)から20年経っている。この歌の内実を知っている人が編んでいる。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して危険を伴う私秘撰であったと考えられるのである。
(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
(注5)記紀のなかでも、大国主神はいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己貴神(大穴牟遅神)となれば国作り、八千矛神となれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本武尊(倭建命)は、もとは日本童男(倭男具那王)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be6869dc94a6cd22eab0ba37b3578dcほか参照。また、応神天皇は皇太子時代、角鹿(敦賀)の気比神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも3月15日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。作る。何事や有る。」と訓むとも考える。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日、見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之を鑊に煮て、乃ち鴟夷の橐を以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)20世紀の朝鮮戦争時、仁川上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。
(引用・参考文献)
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大系本万葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
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新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山田福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
高見2004. 高見大地「熟田津とはどこか─古代の良港と微地形─」越境の会編『越境としての古代2』同時代社、2004年。
潮汐表a 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第1巻─日本及び付近─』海上保安庁発行、平成12年。
潮汐表b 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第2巻─太平洋及びインド洋─』海上保安庁発行、平成12年。
東野2010. 東野治之「古代在銘仏二題」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十一集』塙書房、平成22年。
直木1985. 直木孝次郎『夜の船出─古代史からみた萬葉集─』塙書房、1985年。
西本願寺本万葉集 主婦の友社編『西本願寺本万葉集 巻第1』おうふう、1993年。
橋本2012. 橋本雄一『斉明天皇の石湯行宮か・久米官衙遺跡群』新泉社、2012年。
古橋1994. 古橋信孝『万葉集─歌のはじまり─』筑摩書房(ちくま新書)、1994年。
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身崎1998. 身崎壽『額田王』塙書房、1998年。
八木2010. 八木孝昌『解析的方法による万葉歌の研究』和泉書院、2010年。
山之口2013. 山之口貘『新編山之口貘全集第1巻 詩篇』思潮社、2013年。
吉井1990. 吉井巖『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選4─額田王紀行─』明治書院、平成20年。
吉村2012. 吉村武彦『女帝の古代日本』岩波書店(岩波新書)、2012年。
※本稿は、2015年1~2月稿を、趣旨に変更はないまま、新たに接した文献を加え、2020年11月に改稿し、2024年11月にルビ形式にしたものである。文字数が超過したため「其の三」を設けた。
船団がどの程度の規模であったかはわからない。
五月に、大将軍大錦中阿曇比羅夫連等、船師一百七十艘を率て、豊璋等を百済国に送りて、勅を宣りて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)
「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐郡凡海郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/77/0c/767ee25cb0d753be99db6fbd06259021.jpg)
※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」や「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)。
大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表ができることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できないことになる。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。
白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室福信と内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔を目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。
秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済王の己が良将を斬れるを以て、直に国に入りて先づ州柔を取らむことを謀れり。是に、百済、賊の計る所を知りて、諸将に謂りて曰はく、「今聞く、大日本国の救将廬原君臣、健児万余を率て、正に海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、預め図るべし。我自ら往きて、白村に待ち饗へむ」といふ。
戊戌(17日)に、賊将、州柔に至りて、其の王城を繞む。大唐の軍将、戦船一百七十艘を率て、白村江に陣烈れり。
戊申(27日)に、日本の船師の初づ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、陣を堅めて守る。
己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象を観ずして、相謂りて日はく、「我等先を争はば、彼自づからに退くべし」といふ。更に日本の伍乱れたる中軍の卒を率て、進みて大唐の陣を堅くせる軍を打つ。大唐、便ち左右より船を夾みて繞み戦ふ。須臾之際に、官軍敗続れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者衆し。艫舳廻旋すこと得ず。朴市田来津、天に仰ぎて誓ひ、歯を切りて嗔り、数十人を殺しつ。焉に戦死せぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人と船に乗りて、高麗に逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)
豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不レ得二廻旋一。」となってしまった。
舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛」、「艫 力魯反、舟前鼻也、戸」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は閇〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛と曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。
……皇軍遂に東にゆく。舳艪相接げり。方に難波碕に到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
又、筑紫の伊覩県主の祖五十迹手、天皇の行すを聞りて、五百枝の賢木を抜じ取りて、船の舳艫に立てて、……穴門の引嶋に参迎へて献る。(仲哀紀八年正月)
是歳、新羅の貢調使知万沙飡等、唐の国の服を着て、筑紫に泊れり。朝庭、恣に俗移せることを悪みて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣、奏請して曰さく、「方に今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当に悔有らむ。其の伐たむ状は、挙力むべからず。難波津より、筑紫海の裏に至るまでに、相接ぎて艫舳を浮け盈てて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、易く得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
是歳、百済の為に、将に新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已に訖りて、続麻郊に挽き至る時に、其の船、夜中に故も無くして艫舳相反れり。衆終に敗れむことを知りぬ。(斉明紀六年是歳)
紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無レ故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無レ故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて、「艫舳不レ得二廻旋一。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
白村江、今の錦江の河口、群山では、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智2年は閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日、朔の2〜3日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にみると、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)。
決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不レ得二廻旋一。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、川の中央へ向って並んで左右から進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船を俎上にとらえて、火矢で射、次々と焼いていった。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇二倭兵於白江之口一、四戦捷、焚二其舟四百艘一。煙燄漲レ天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱レ身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめ切れないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明7年(661)から20年経っている。この歌の内実を知っている人が編んでいる。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して危険を伴う私秘撰であったと考えられるのである。
(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
(注5)記紀のなかでも、大国主神はいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己貴神(大穴牟遅神)となれば国作り、八千矛神となれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本武尊(倭建命)は、もとは日本童男(倭男具那王)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be6869dc94a6cd22eab0ba37b3578dcほか参照。また、応神天皇は皇太子時代、角鹿(敦賀)の気比神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも3月15日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。作る。何事や有る。」と訓むとも考える。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日、見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之を鑊に煮て、乃ち鴟夷の橐を以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)20世紀の朝鮮戦争時、仁川上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。
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※本稿は、2015年1~2月稿を、趣旨に変更はないまま、新たに接した文献を加え、2020年11月に改稿し、2024年11月にルビ形式にしたものである。文字数が超過したため「其の三」を設けた。