大伴家持は越中国司として赴任中、賦と称する長歌を三首作っている。それに大伴池主が「敬和」したものを含めて「越中五賦」と呼ばれている。「賦」は漢文学からとられた用語である。
二上山の賦一首 此の山は射水郡に有るぞ〔二上山賦一首 此山者有射水郡也〕
射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝凪に 寄する白波 夕凪に 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく 古ゆ 今の現に かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ〔伊美都河伯伊由伎米具礼流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利尓安吉能葉乃尓保敝流等伎尓出立氐布里佐氣見礼婆可牟加良夜曽許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多尓能佐吉乃安里蘇尓阿佐奈藝尓餘須流之良奈美由敷奈藝尓美知久流之保能伊夜麻之尓多由流許登奈久伊尓之敞由伊麻乃乎都豆尓可久之許曽見流比登其等尓加氣氐之努波米〕(万3985)
渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古思ほゆ〔之夫多尓能佐伎能安里蘇尓与須流奈美伊夜思久思久尓伊尓之敞於母保由〕(万3986)
玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり〔多麻久之氣敷多我美也麻尓鳴鳥能許恵乃孤悲思吉登岐波伎尓家里〕(万3987)
右は、三月三十日に、興に依りて作れり。大伴宿祢家持〔右三月卅日依興作之大伴宿祢家持〕
「二上山賦」と銘打たれた長歌は、前半こそ二上山を題材にしているようでありつつ、後半にはせり出している海の様子を詠んでいる。それをまとめて「二上山賦」と呼んでいて、題詞との間にズレがあるように思わせるものである(注1)。
題詞には脚注が付けられていて、二上山が射水郡に位置していることを殊更に印象づけている。とてもわざとらしい。おそらくは歌の内実を解くヒントゆえのことだろう。歌の最後の方に「古ゆ 今の現に」とあって、太古の昔から今に至るまでずっとのことであると述べられている。「古」という言葉は、イニ(往)+シ(助動詞キの連体形)+ヘ(方)のことで、過ぎ去ってしまってはるか遠い昔のこと、自分が実地に知ることのできない、言い伝えられている神話的説話の時代のことを指している。そんな大昔のことを持ち出すことができるのは、二上山があるのが射水郡だからということのようである。
射水という言葉から連想される言い伝えとしては、海幸・山幸の話がある。山で狩猟をしていた山幸が、海で漁撈をしていた海幸との間で、互いにサチを交換しようということになった。サチとは得られた獲物を表すと同時に、それを捕獲する手段となる、とっておきの道具のことも表した。それさえあれば獲物は捕れたも同然だからである。そのとっておきの道具とは、狩猟では弓矢の矢の先につける鏃であり、漁撈では釣りをするとき糸の先につける釣り針(鉤)のことと考えられた。鉄器で製作されるようになり、生産性が高まったことに基づいての考えからであろう。そして、鏃と釣り針を互いに交換し、持ち場も替えてみたのである。狩猟民が釣りにおいても弓矢を放つのと同じだろうと思い、魚をめがけて放ったところ、ただ失われるばかりのこととなった。水に向けて矢を射ることをした場所として、イ(射)+ミヅ(水)という言葉が想起されたのである。
山幸こと、ホヲリノミコトは、兄である海幸こと、ホデリノミコトに、失くしてしまった鉤を返すようにと責めたてられた。そこで、佩いていた十拳剣を鋳潰して、千個の鉤にリサイクルし、償いとしようとしたが受け取ってはもらえず、頑なに本の鉤を求めてきた。途方に暮れて海辺に佇んでいると塩椎神(塩土老翁)が知恵を授けてくれた。その後、海神宮を訪問する話へと展開していく。千個の鉤のことは、「一千鉤」(記上)と言っていた。チチは乳と同音である。乳と言えば赤ん坊が求める女性のそれが代表であり、二つある。それを赤ん坊は噛んでは吸っている。フタガミヤマ(二上山)という言葉(音)から何をイメージしているか理解されよう。すなわち、「二上山賦」は、海幸・山幸の説話をもとにした地名譚を創案して朗々と歌われたものなのである。海幸・山幸の言い伝えが人口に膾炙していて、それをもとにすれば射水郡のいくつかの地名は繙くことができた。そのため、それらをつなぐ言葉として、「い行き廻れる」(注2)と述べている。心のうちに想念として人々が共通して持っている昔語りを自然の景観に託しなぞらえて歌にしている。恋情を自然に託しなぞらえて歌にするのと同じ手法である。
全集本は、「秋の葉」は「春花」の対偶語で、ともに翻訳語であろうという(206頁)。なぜ対偶的な言葉が求められているかといえば、フタガミヤマ(二上山)を詠んでいるからであろう。二つ対立するように述べ立てている。「春花」が「春花」、「秋の葉」が「秋葉」を訓んだ翻訳語かどうか決める決定打はない。春には植物が花を咲かせることが特徴としてある。対して、秋はどうかと言ったとき、色づいた「葉」が目につくと思うことに不自然なところはない。漢籍を知らなければ生まれることがない言葉であるとは考えにくい。その後も、フタガミヤマ(二上山)を強調して表すために、「神からや」、「山からや」というように対句形式を用いている。カラは柄、本性、性格の意である。二上山の神の性格、山の性格とは何か。乳のことであると見立てているのだから、貴いのはおっぱいが出て乳児はそれを飲むことができて健やかに育つことかとも思われる。見たいと思うのは男性がそう思うということであろう。今、乳を望んでではなく二上山を望んで歌にしている(注3)。したがって、あるいはそういうことであろうか、と疑問の意を含めるために「や」という疑問の助詞が付いている。
「神から」という言い方は、一般に、うまい具合に表現している常套句など、ヤマトコトバとして上手に連絡していて言い得て然りとする時に用いられる(注4)。おっぱいが出ることは自然の摂理だが、なかには出の悪い方もいる。神の性格、なせる業と考えることは用法として少し無理がある。二上山に見立てられる乳房の二つあることと「一千鉤」という言い伝えの言葉とがうまく連動してわかりやすくなっているところこそ、まるでそこに神が実在しているかのようなからくりであると見て取って「神から」と言っている。このヤマトコトバには神が宿っているようではないか、と言っている。
左:裳の襞がプリーツスカートのように凸凹している例(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)、右:飾襞付き裳裾部分をアップ(高松塚古墳壁画・女子群像、明日香村教育委員会)
神代の時代に乳房をたくわえた神さまといえば、女神と限定され、その代表格はアマテラス(天照大御神、天照大神)である。そこで、「皇神」という言い方で言い直している。スメカミは一地域を領する最高位の神のことも指すからである。女神を前提にしているから、山裾のことは女性が身につける裳の裾のことともイメージが重なって的確である。裳の裾にはたくさんの襞があり、裾を廻るには上り下りをくり返すことになりそうだと形容している。ちょうどそこに「渋谿」という地名がある。シブ(渋)とは進行が遅くなることをいう言葉のようである。下にあげた万1205番歌の例では、船を沖合まで出してしまえば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地やさらにその先の故郷の方を見たいと思い振り向いたが、岬の陰になっていて望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。
沖つ楫 やくやく渋を 見まく欲り 吾がする里の 隠らく惜しも(万1205)
蔀のもとに風渋かれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)
山からすれば谷に当たる所、そこが凸凹していて浜を有さずに磯となって海に面している。「渋谿の 崎の荒磯」とは、そういう海に埋没した山裾の様子を言っている。
次にも対句形式が来ている。「朝凪に」、「夕凪」である。しかし、凸凹した磯場では潮が引いても浜が現れることはない。いつも海水を被っている。「寄する白波」、「満ち来る潮」と言っている。そしてそのことをもって「いや増しに 絶ゆることなく」と続いて行っている。このように引くことのない様子を歌にしているのは、当初から歌に込めている元ネタ、海幸・山幸の話による。山幸こと、ホヲリノミコトは、鉤を見出だせずに途方に暮れていると、海神の宮への行き方を教えられて行ってみた。何年か過ごした後、鉤が見つからずに責められていたことを打ち明けると、鯛の喉にあることがわかり、なおかつ海神から鉤の返し方を教えられた。念の入った呪詛法で、相手の兄が逆ギレして攻撃してきた時のことまで踏まえていた。すなわち、攻めてきたら相手を溺れさせることが可能になっていたのである。だから、いま越中の地で見えている光景も、白波が寄せたり潮が満ちて来たりして、「いや増しに 絶ゆることなく」という状態になっている。それは「古」以来のことであり、「今の現」、現在の実景にも当てはまることだと言っている。まさにこのように、この地の有り様を目にする人は、言い伝えどおりであることを皆よくよく心に「かけて偲はめ」、海幸・山幸伝承をダブらせて思いを致すのだろう、と言っている(注5)。
短歌二首が添えられている。
渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古思ほゆ(万3986)
万3986番歌は長歌の内容を念を押した作である。同じく「古」とあって、言い伝えにある海幸山幸の話、鉤を返した時の対応によっては溺れることになるという話が自然と思い出されると歌っている。「寄せる波」が「しくしく」、つまり、及く及く寄せてくるように、呪詛の言葉により溺れる話が思い出されることとを言い重ねている(注6)。
玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり(万3987)
万3987番歌では、「鳴く鳥」が登場している。この鳥はホトトギスのことを指していると考えられている。この歌群の一つ前に前日の歌が載る。
立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥のなくを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既経累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
あしひきの 山も近きを 霍公鳥 月立つまでに 何か来鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
玉に貫く 花橘を 乏しみし この我が里に 来鳴かずあるらし〔多麻尓奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀尓伎奈可受安流良之〕(万3984)
霍公鳥は立夏の日に来鳴くこと必定なり。又、越中の風土は橙橘のあること希なり。此れに因りて、大伴宿禰家持、感ひを懐に発して聊かに此の歌を裁る。三月二十九日〔霍公鳥者立夏之日来鳴必定又越中風土希有橙橘也因此大伴宿祢家持感發於懐聊裁此歌。三月廿九日〕
二上山賦の反歌に「霍公鳥」が詠まれている理由は、ホトトギスが、ホト+トギ、と間髪を入れずに鳴く鳥であると聞き做されつつ、ほとんど時は過ぎる、というようにも解されていたからである(注7)。時が過ぎてしまうことを指す鳥が霍公鳥なのだから、古の故事を偲ぶのにふさわしい鳥として登場させている。しかも、山幸ことホヲリノミコトの海神宮探訪は、いわゆる浦島伝説の本となるもので、いやがうえにも時の経過を思わせる故事であった。ほとんど時は過ぎるとされた鳥、霍公鳥はそのことをよく体現しているわけであった。
左注に、「興に依りて作る。」とある。心中に感興をもよおして、の意であると思われている。「依レ興」という言葉を特に使っている点について、例えば、伊藤1976.は、文字どおり感興に乗って表現すること自体を目的としたものと考え、橋本1985b.は「非時性」を見、小野2004.は、「賦」という新しい試み、積極的な新しい歌作りをさせしめた感興をいうとし、鉄野2007.は、自己の情動そのものを捉える語であるとする。みな印象論にとどまっている。見てきたように、古からの言い伝えを越中の地名譚として見出すことができて家持は喜んでいる。うまいことを思いついたから、その「興」に「依」ってうまいこと歌にした。それを左注に記している。捻って考えたらおもしろく考えられたということを書き添えて、皆さん、私の頓知がわかりますか、と出題のヒントに加えている。聞く人たちは家持の意図がわかっただろうか。おそらく少なからずわかる人がいたと思われる。通じないことをぐずぐず言ってみても仕方なく、その場合、世の中から消去、抹消されたに違いないからである。通じる人が多くいて、相変わらずうまいことを仰るなあ、家持卿、と一目も二目も置かれたから、家持としてもまんざらではなく、この歌群は後世に残されることになった。そしてまた、他の「賦」の歌、布勢水海遊覧賦、立山賦の創作へと駆り立てることとなった。見事だと思う人のなかには池主もいて、後で作られた賦には「敬和」した作が追和されている(注8)。
今日の人がこの歌、題詞に「賦」とまであるにもかかわらず何ら新鮮味を覚えることなく、ただの冗漫な、二上山への讃歌(注1)であると解するようなことは、歌が歌われた当時あり得なかった。それほどまでに、奈良時代の人にとっても、古からの言い伝えは人々の間に流布し、人々の思考を拘束していて、時には不可解に思われる政治情勢についても言い伝えを鑑みれば理解の助けになるものなのである。
(注)
(注1)この歌群についての評価としては、好悪を問わず、二上山讃歌であるとする見方が大勢を占めている。「国守の任国の地勢把握の作」(內田2014.62頁)とする控えめなものから、「風土記の撰進に類した国守の職掌としての意識も加わって、意欲的に作られている」(坂本2021.146頁)、「国守として、天皇の「みこともち」として、天皇の「遠の朝廷」を讃える歌として、その王土の象徴たる二上山の讃歌を作ったのである。そしてそれが「興に依りて作」られたのである。」(小野2004.93頁)とする事大評価までいろいろである。なお、小野2004.には、刊行時点までの諸論が紹介されているので参照されたい。本論はそれらと無関係なのでほとんど触れない。
(注2)橋本1985b.は、「この「い行きめぐれる」が二上山を讃える条件の一つとした表現であることはいうまでもあるまい。」(188頁)と断じている。二上山賦を山への讃歌であると捉え、その意味合いを妄想的に深化させる議論ばかり目につく。
(注3)諸論では、二上山を讃め称え、聖なる山として崇めたものであろうと勘違いしている。家持は「立山賦」(万4000)も作っている。越中の山は聖なる山だらけということになってしまう。聖地で禁足地となると入り会いすることができず、生業に差し支えることになるだろうし、三輪山や宗像沖ノ島のように入山に規制がかかったとする歴史も持たない。「玉櫛笥(玉匣)」という美しい語が登場するが、そのような櫛を入れる箱は蓋付きだからということからフタにかかる枕詞で「フタガミヤマ(二上山)」を導出している。言葉尻を捉えることしかしていないのである。
(注4)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)諸説に、「かけて」は心にかけての意と、口にかけての意とがあるが、そのいずれかが問われている。前者とする説では、「偲ふ」は思慕するがゆえに賞で讃えるの意ととり、心にかけて賞美する、と解している。後者とする説では、今、家持が二上山の賦を言葉にあらわして詠んで讃美していることと解している。しかるに、「かけて」は「かく」に助詞テのついた形である。「かく(懸)」は、何かに何かを懸ける、何かと何かを懸けることが原義である。漠然と心にかける、心がけるということではない。
「古ゆ 今の現に」とあり、現在のことを詠んでいるのなら結句は「しのふらめ」が自然な表現であり、字余りを避けたものかとしている(新大系文庫本377頁)。海幸・山幸の言い伝えを詠み込んでいるのだから、「しのはめ」がふさわしい。
(注6)今日では、この「古」(万3985・3986)について、漠然と遠い昔のこと、のように考える向きが多い。大伴氏の歴史の始まりを含めるように解する説もある(阿蘇2013.)。以前の研究では、この山には上代に謂れがあった(賀茂真淵・萬葉考)、神代に二上山に何かめでたい故事があったが現代には伝わっていない(鹿持雅澄・萬葉集古義、井上通泰・萬葉集新考、山田1950.)、名山として地方人に謡われていた(鴻巣1934.)などと考えられていた。越中の故事ではなく、ヤマトコトバを話すヤマトの人なら誰でもが知る故事でなければ互いに話は通じない。二上山の故事が特別にあるなら、巻十六の「有二由縁一」歌にあるように、題詞などに縷々書き記してかまわないことである。
(注7)拙稿「万葉集のホトトギス歌について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09/?img=3537338ac37f56610c9c590101e5b121ほか参照。
(注8)もちろん、家持と池主の二人だけの間で楽しまれたということではない。一家族だけで使われるだけとなった20世紀後半のソグド語のような様態を、よりによって書記に努めることはない。
(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
小野2004. 小野寛「家持「二上山賦」のよみの現在」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十六冊』笠間書院、2004年。
鴻巣1934. 鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』宇都宮書店、昭和9年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225871
坂本2021. 坂本信幸「越中万葉の文化的意義」奈良県立万葉文化館編『大和の古代文化』新典社、2021年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2007. 鉄野昌弘「「二上山賦」試論」『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。(『萬葉』第173号、平成12年5月。萬葉学会HPhttps://manyoug.jp/memoir/2000)
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
針原2002. 針原孝之「二上山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
山田1950. 山田孝雄『万葉五賦』一正堂書店、昭和25年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。
二上山の賦一首 此の山は射水郡に有るぞ〔二上山賦一首 此山者有射水郡也〕
射水川 い行き廻れる 玉櫛笥 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒磯に 朝凪に 寄する白波 夕凪に 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく 古ゆ 今の現に かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ〔伊美都河伯伊由伎米具礼流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利尓安吉能葉乃尓保敝流等伎尓出立氐布里佐氣見礼婆可牟加良夜曽許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多尓能佐吉乃安里蘇尓阿佐奈藝尓餘須流之良奈美由敷奈藝尓美知久流之保能伊夜麻之尓多由流許登奈久伊尓之敞由伊麻乃乎都豆尓可久之許曽見流比登其等尓加氣氐之努波米〕(万3985)
渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古思ほゆ〔之夫多尓能佐伎能安里蘇尓与須流奈美伊夜思久思久尓伊尓之敞於母保由〕(万3986)
玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり〔多麻久之氣敷多我美也麻尓鳴鳥能許恵乃孤悲思吉登岐波伎尓家里〕(万3987)
右は、三月三十日に、興に依りて作れり。大伴宿祢家持〔右三月卅日依興作之大伴宿祢家持〕
「二上山賦」と銘打たれた長歌は、前半こそ二上山を題材にしているようでありつつ、後半にはせり出している海の様子を詠んでいる。それをまとめて「二上山賦」と呼んでいて、題詞との間にズレがあるように思わせるものである(注1)。
題詞には脚注が付けられていて、二上山が射水郡に位置していることを殊更に印象づけている。とてもわざとらしい。おそらくは歌の内実を解くヒントゆえのことだろう。歌の最後の方に「古ゆ 今の現に」とあって、太古の昔から今に至るまでずっとのことであると述べられている。「古」という言葉は、イニ(往)+シ(助動詞キの連体形)+ヘ(方)のことで、過ぎ去ってしまってはるか遠い昔のこと、自分が実地に知ることのできない、言い伝えられている神話的説話の時代のことを指している。そんな大昔のことを持ち出すことができるのは、二上山があるのが射水郡だからということのようである。
射水という言葉から連想される言い伝えとしては、海幸・山幸の話がある。山で狩猟をしていた山幸が、海で漁撈をしていた海幸との間で、互いにサチを交換しようということになった。サチとは得られた獲物を表すと同時に、それを捕獲する手段となる、とっておきの道具のことも表した。それさえあれば獲物は捕れたも同然だからである。そのとっておきの道具とは、狩猟では弓矢の矢の先につける鏃であり、漁撈では釣りをするとき糸の先につける釣り針(鉤)のことと考えられた。鉄器で製作されるようになり、生産性が高まったことに基づいての考えからであろう。そして、鏃と釣り針を互いに交換し、持ち場も替えてみたのである。狩猟民が釣りにおいても弓矢を放つのと同じだろうと思い、魚をめがけて放ったところ、ただ失われるばかりのこととなった。水に向けて矢を射ることをした場所として、イ(射)+ミヅ(水)という言葉が想起されたのである。
山幸こと、ホヲリノミコトは、兄である海幸こと、ホデリノミコトに、失くしてしまった鉤を返すようにと責めたてられた。そこで、佩いていた十拳剣を鋳潰して、千個の鉤にリサイクルし、償いとしようとしたが受け取ってはもらえず、頑なに本の鉤を求めてきた。途方に暮れて海辺に佇んでいると塩椎神(塩土老翁)が知恵を授けてくれた。その後、海神宮を訪問する話へと展開していく。千個の鉤のことは、「一千鉤」(記上)と言っていた。チチは乳と同音である。乳と言えば赤ん坊が求める女性のそれが代表であり、二つある。それを赤ん坊は噛んでは吸っている。フタガミヤマ(二上山)という言葉(音)から何をイメージしているか理解されよう。すなわち、「二上山賦」は、海幸・山幸の説話をもとにした地名譚を創案して朗々と歌われたものなのである。海幸・山幸の言い伝えが人口に膾炙していて、それをもとにすれば射水郡のいくつかの地名は繙くことができた。そのため、それらをつなぐ言葉として、「い行き廻れる」(注2)と述べている。心のうちに想念として人々が共通して持っている昔語りを自然の景観に託しなぞらえて歌にしている。恋情を自然に託しなぞらえて歌にするのと同じ手法である。
全集本は、「秋の葉」は「春花」の対偶語で、ともに翻訳語であろうという(206頁)。なぜ対偶的な言葉が求められているかといえば、フタガミヤマ(二上山)を詠んでいるからであろう。二つ対立するように述べ立てている。「春花」が「春花」、「秋の葉」が「秋葉」を訓んだ翻訳語かどうか決める決定打はない。春には植物が花を咲かせることが特徴としてある。対して、秋はどうかと言ったとき、色づいた「葉」が目につくと思うことに不自然なところはない。漢籍を知らなければ生まれることがない言葉であるとは考えにくい。その後も、フタガミヤマ(二上山)を強調して表すために、「神からや」、「山からや」というように対句形式を用いている。カラは柄、本性、性格の意である。二上山の神の性格、山の性格とは何か。乳のことであると見立てているのだから、貴いのはおっぱいが出て乳児はそれを飲むことができて健やかに育つことかとも思われる。見たいと思うのは男性がそう思うということであろう。今、乳を望んでではなく二上山を望んで歌にしている(注3)。したがって、あるいはそういうことであろうか、と疑問の意を含めるために「や」という疑問の助詞が付いている。
「神から」という言い方は、一般に、うまい具合に表現している常套句など、ヤマトコトバとして上手に連絡していて言い得て然りとする時に用いられる(注4)。おっぱいが出ることは自然の摂理だが、なかには出の悪い方もいる。神の性格、なせる業と考えることは用法として少し無理がある。二上山に見立てられる乳房の二つあることと「一千鉤」という言い伝えの言葉とがうまく連動してわかりやすくなっているところこそ、まるでそこに神が実在しているかのようなからくりであると見て取って「神から」と言っている。このヤマトコトバには神が宿っているようではないか、と言っている。
左:裳の襞がプリーツスカートのように凸凹している例(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)、右:飾襞付き裳裾部分をアップ(高松塚古墳壁画・女子群像、明日香村教育委員会)
神代の時代に乳房をたくわえた神さまといえば、女神と限定され、その代表格はアマテラス(天照大御神、天照大神)である。そこで、「皇神」という言い方で言い直している。スメカミは一地域を領する最高位の神のことも指すからである。女神を前提にしているから、山裾のことは女性が身につける裳の裾のことともイメージが重なって的確である。裳の裾にはたくさんの襞があり、裾を廻るには上り下りをくり返すことになりそうだと形容している。ちょうどそこに「渋谿」という地名がある。シブ(渋)とは進行が遅くなることをいう言葉のようである。下にあげた万1205番歌の例では、船を沖合まで出してしまえば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地やさらにその先の故郷の方を見たいと思い振り向いたが、岬の陰になっていて望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。
沖つ楫 やくやく渋を 見まく欲り 吾がする里の 隠らく惜しも(万1205)
蔀のもとに風渋かれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)
山からすれば谷に当たる所、そこが凸凹していて浜を有さずに磯となって海に面している。「渋谿の 崎の荒磯」とは、そういう海に埋没した山裾の様子を言っている。
次にも対句形式が来ている。「朝凪に」、「夕凪」である。しかし、凸凹した磯場では潮が引いても浜が現れることはない。いつも海水を被っている。「寄する白波」、「満ち来る潮」と言っている。そしてそのことをもって「いや増しに 絶ゆることなく」と続いて行っている。このように引くことのない様子を歌にしているのは、当初から歌に込めている元ネタ、海幸・山幸の話による。山幸こと、ホヲリノミコトは、鉤を見出だせずに途方に暮れていると、海神の宮への行き方を教えられて行ってみた。何年か過ごした後、鉤が見つからずに責められていたことを打ち明けると、鯛の喉にあることがわかり、なおかつ海神から鉤の返し方を教えられた。念の入った呪詛法で、相手の兄が逆ギレして攻撃してきた時のことまで踏まえていた。すなわち、攻めてきたら相手を溺れさせることが可能になっていたのである。だから、いま越中の地で見えている光景も、白波が寄せたり潮が満ちて来たりして、「いや増しに 絶ゆることなく」という状態になっている。それは「古」以来のことであり、「今の現」、現在の実景にも当てはまることだと言っている。まさにこのように、この地の有り様を目にする人は、言い伝えどおりであることを皆よくよく心に「かけて偲はめ」、海幸・山幸伝承をダブらせて思いを致すのだろう、と言っている(注5)。
短歌二首が添えられている。
渋谿の 崎の荒磯に 寄する波 いやしくしくに 古思ほゆ(万3986)
万3986番歌は長歌の内容を念を押した作である。同じく「古」とあって、言い伝えにある海幸山幸の話、鉤を返した時の対応によっては溺れることになるという話が自然と思い出されると歌っている。「寄せる波」が「しくしく」、つまり、及く及く寄せてくるように、呪詛の言葉により溺れる話が思い出されることとを言い重ねている(注6)。
玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり(万3987)
万3987番歌では、「鳴く鳥」が登場している。この鳥はホトトギスのことを指していると考えられている。この歌群の一つ前に前日の歌が載る。
立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥のなくを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既経累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
あしひきの 山も近きを 霍公鳥 月立つまでに 何か来鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
玉に貫く 花橘を 乏しみし この我が里に 来鳴かずあるらし〔多麻尓奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀尓伎奈可受安流良之〕(万3984)
霍公鳥は立夏の日に来鳴くこと必定なり。又、越中の風土は橙橘のあること希なり。此れに因りて、大伴宿禰家持、感ひを懐に発して聊かに此の歌を裁る。三月二十九日〔霍公鳥者立夏之日来鳴必定又越中風土希有橙橘也因此大伴宿祢家持感發於懐聊裁此歌。三月廿九日〕
二上山賦の反歌に「霍公鳥」が詠まれている理由は、ホトトギスが、ホト+トギ、と間髪を入れずに鳴く鳥であると聞き做されつつ、ほとんど時は過ぎる、というようにも解されていたからである(注7)。時が過ぎてしまうことを指す鳥が霍公鳥なのだから、古の故事を偲ぶのにふさわしい鳥として登場させている。しかも、山幸ことホヲリノミコトの海神宮探訪は、いわゆる浦島伝説の本となるもので、いやがうえにも時の経過を思わせる故事であった。ほとんど時は過ぎるとされた鳥、霍公鳥はそのことをよく体現しているわけであった。
左注に、「興に依りて作る。」とある。心中に感興をもよおして、の意であると思われている。「依レ興」という言葉を特に使っている点について、例えば、伊藤1976.は、文字どおり感興に乗って表現すること自体を目的としたものと考え、橋本1985b.は「非時性」を見、小野2004.は、「賦」という新しい試み、積極的な新しい歌作りをさせしめた感興をいうとし、鉄野2007.は、自己の情動そのものを捉える語であるとする。みな印象論にとどまっている。見てきたように、古からの言い伝えを越中の地名譚として見出すことができて家持は喜んでいる。うまいことを思いついたから、その「興」に「依」ってうまいこと歌にした。それを左注に記している。捻って考えたらおもしろく考えられたということを書き添えて、皆さん、私の頓知がわかりますか、と出題のヒントに加えている。聞く人たちは家持の意図がわかっただろうか。おそらく少なからずわかる人がいたと思われる。通じないことをぐずぐず言ってみても仕方なく、その場合、世の中から消去、抹消されたに違いないからである。通じる人が多くいて、相変わらずうまいことを仰るなあ、家持卿、と一目も二目も置かれたから、家持としてもまんざらではなく、この歌群は後世に残されることになった。そしてまた、他の「賦」の歌、布勢水海遊覧賦、立山賦の創作へと駆り立てることとなった。見事だと思う人のなかには池主もいて、後で作られた賦には「敬和」した作が追和されている(注8)。
今日の人がこの歌、題詞に「賦」とまであるにもかかわらず何ら新鮮味を覚えることなく、ただの冗漫な、二上山への讃歌(注1)であると解するようなことは、歌が歌われた当時あり得なかった。それほどまでに、奈良時代の人にとっても、古からの言い伝えは人々の間に流布し、人々の思考を拘束していて、時には不可解に思われる政治情勢についても言い伝えを鑑みれば理解の助けになるものなのである。
(注)
(注1)この歌群についての評価としては、好悪を問わず、二上山讃歌であるとする見方が大勢を占めている。「国守の任国の地勢把握の作」(內田2014.62頁)とする控えめなものから、「風土記の撰進に類した国守の職掌としての意識も加わって、意欲的に作られている」(坂本2021.146頁)、「国守として、天皇の「みこともち」として、天皇の「遠の朝廷」を讃える歌として、その王土の象徴たる二上山の讃歌を作ったのである。そしてそれが「興に依りて作」られたのである。」(小野2004.93頁)とする事大評価までいろいろである。なお、小野2004.には、刊行時点までの諸論が紹介されているので参照されたい。本論はそれらと無関係なのでほとんど触れない。
(注2)橋本1985b.は、「この「い行きめぐれる」が二上山を讃える条件の一つとした表現であることはいうまでもあるまい。」(188頁)と断じている。二上山賦を山への讃歌であると捉え、その意味合いを妄想的に深化させる議論ばかり目につく。
(注3)諸論では、二上山を讃め称え、聖なる山として崇めたものであろうと勘違いしている。家持は「立山賦」(万4000)も作っている。越中の山は聖なる山だらけということになってしまう。聖地で禁足地となると入り会いすることができず、生業に差し支えることになるだろうし、三輪山や宗像沖ノ島のように入山に規制がかかったとする歴史も持たない。「玉櫛笥(玉匣)」という美しい語が登場するが、そのような櫛を入れる箱は蓋付きだからということからフタにかかる枕詞で「フタガミヤマ(二上山)」を導出している。言葉尻を捉えることしかしていないのである。
(注4)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)諸説に、「かけて」は心にかけての意と、口にかけての意とがあるが、そのいずれかが問われている。前者とする説では、「偲ふ」は思慕するがゆえに賞で讃えるの意ととり、心にかけて賞美する、と解している。後者とする説では、今、家持が二上山の賦を言葉にあらわして詠んで讃美していることと解している。しかるに、「かけて」は「かく」に助詞テのついた形である。「かく(懸)」は、何かに何かを懸ける、何かと何かを懸けることが原義である。漠然と心にかける、心がけるということではない。
「古ゆ 今の現に」とあり、現在のことを詠んでいるのなら結句は「しのふらめ」が自然な表現であり、字余りを避けたものかとしている(新大系文庫本377頁)。海幸・山幸の言い伝えを詠み込んでいるのだから、「しのはめ」がふさわしい。
(注6)今日では、この「古」(万3985・3986)について、漠然と遠い昔のこと、のように考える向きが多い。大伴氏の歴史の始まりを含めるように解する説もある(阿蘇2013.)。以前の研究では、この山には上代に謂れがあった(賀茂真淵・萬葉考)、神代に二上山に何かめでたい故事があったが現代には伝わっていない(鹿持雅澄・萬葉集古義、井上通泰・萬葉集新考、山田1950.)、名山として地方人に謡われていた(鴻巣1934.)などと考えられていた。越中の故事ではなく、ヤマトコトバを話すヤマトの人なら誰でもが知る故事でなければ互いに話は通じない。二上山の故事が特別にあるなら、巻十六の「有二由縁一」歌にあるように、題詞などに縷々書き記してかまわないことである。
(注7)拙稿「万葉集のホトトギス歌について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09/?img=3537338ac37f56610c9c590101e5b121ほか参照。
(注8)もちろん、家持と池主の二人だけの間で楽しまれたということではない。一家族だけで使われるだけとなった20世紀後半のソグド語のような様態を、よりによって書記に努めることはない。
(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
小野2004. 小野寛「家持「二上山賦」のよみの現在」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十六冊』笠間書院、2004年。
鴻巣1934. 鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』宇都宮書店、昭和9年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225871
坂本2021. 坂本信幸「越中万葉の文化的意義」奈良県立万葉文化館編『大和の古代文化』新典社、2021年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2007. 鉄野昌弘「「二上山賦」試論」『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。(『萬葉』第173号、平成12年5月。萬葉学会HPhttps://manyoug.jp/memoir/2000)
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
針原2002. 針原孝之「二上山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
山田1950. 山田孝雄『万葉五賦』一正堂書店、昭和25年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。