越中国にあった大伴家持は、その地の地名を詠み込んだ「賦」を作って楽しんでいる。「遊二-覧布勢水海一賦一首〈并短歌〉」は、大伴池主の賛同を得て、「敬下-和遊二-覧布勢水海一賦上賦一首并一絶」を追和されている。
布勢の水海に遊覧ぶ賦一首〈并せて短歌 此の海は、射水郡の旧江村に有るぞ〉〔遊覧布勢水海賦一首〈并短歌 此海者有射水郡舊江村也〉〕
物部の 八十伴の緒の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎徘徊り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布施の海に 船浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き 許多も 見の清けきか 玉櫛笥 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通ひ いや毎年に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと〔物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米氐宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇尓与須流之夫多尓能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義氐宇奈比河波伎欲吉勢其等尓宇加波多知可由吉加久遊岐見都礼騰母曽許母安加尓等布勢能宇弥尓布祢宇氣須恵氐於伎敝許藝邊尓己伎見礼婆奈藝左尓波安遅牟良佐和伎之麻末尓波許奴礼波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我弥夜麻尓波布都多能由伎波和可礼受安里我欲比伊夜登之能波尓於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等〕(万3991)
布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや毎年に 見つつ偲はむ〔布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波尓見都追思努播牟〕(万3992)
右は、守大伴宿禰家持作る。 四月二十四日〔右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日〕
布勢の水海に遊覧ぶ賦に敬み和ふる一首〈并せて一絶〉〔敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶〕
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬うち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 湊の洲鳥 朝凪に 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に纏き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人船に 真楫櫂貫き 白栲の 袖振り返し 率ひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや〔布治奈美波佐岐弖知理尓伎宇能波奈波伊麻曽佐可理等安之比奇能夜麻尓毛野尓毛保登等藝須奈伎之等与米婆宇知奈妣久許己呂毛之努尓曽己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟礼弖多豆佐波理伊泥多知美礼婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝尓可多尓安佐里之思保美弖婆都麻欲妣可波須等母之伎尓美都追須疑由伎之夫多尓能安利蘇乃佐伎尓於枳追奈美余勢久流多麻母可多与理尓可都良尓都久理伊毛我多米氐尓麻吉母知弖宇良具波之布施能美豆宇弥尓阿麻夫祢尓麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布里可邊之阿登毛比弖和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐尓波阿之賀毛佐和伎佐射礼奈美多知弖毛為弖母己藝米具利美礼登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎尓波流佐良婆波奈能佐可利尓可毛加久母伎美我麻尓麻等可久之許曽美母安吉良米々多由流比安良米也〕(万3993)
白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜辺を〔之良奈美能与世久流多麻毛余能安比太母都藝弖民仁許武吉欲伎波麻備乎〕(万3994)
右は、掾大伴宿禰池主作る。〈四月二十六日に追ひて和ふ。〉〔右掾大伴宿祢池主作〈四月廿六日追和〉〕
神堀1978.、橋本1985.、伊藤1992.、廣川2003.などに、家持と池主との共同の営為の作品であると捉えられている。そして、池主の「敬和」とは家持の心を汲みつつ対応させながら補足するように歌い、両者が互いに補完しあって一つの作品として完結するとしている。
コタフ(和)という語のダイアローグ性が理解されていない。コタフはコト(言)+アフ(合)の約と考えられ、言われたことに対して言葉で応じることをいう。一つの見方から言われたことに対して、それを十分に認めながら、別の見方からするとこうも言えるだろう、というのが「敬和」であろう。言葉の累積、累乗ではあっても補完し合ってようやく一となるという弁証法ではない。家持の歌だけでも、また、池主の歌だけでもきちんと一つの作として完成していると考える。
一
まず家持の「遊ニ‐覧布勢水海一賦一首」(万3991)を見てみよう。この歌は前半と後半に分かれている。「物部の …… そこも飽かにと」までと、「布施の海に …… 今も見るごと」とである。前半でいろいろと巡り見たが満足できなかった。そこで後半、布勢の海へと進んでいて、そこは遊覧するのにすばらしいところだからこれからも何度も通ってきては遊ぼうと言っている。題詞もそのように成っている。
多数出てくる地名も、前半に「渋谿の崎」、「松田江」、「宇奈比川」、後半に「布勢の海」、「二上山」と分かれている。これらは地誌的知識として歌に交えられているようには思われない。そもそも、紀行歌を歌ったとしても聞いた人の興味にかからなければ場の共有に属すことはない。知らない地方の知らない地名を言われても困惑するばかりである。すなわち、自然詠として情景を歌いたくて入れているのではないのである。
「渋谿」とあれば、そこはシブという言葉の示すところであると言葉解きをしている。船の遅くなることをシブ(渋)といい、後には滞ることをシブク(渋)と言ったようである。万1205番歌の例では、船を沖合まで出せば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地、故郷の方を振り向いて見たいと思ったが、岬の陰になって望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。
沖つ楫 やくやくしぶを 見まく欲り 吾がする里の 隠らく惜しも〔津梶漸々志夫乎欲見吾為里乃隠久惜毛〕(万1205)
蔀のもとに風渋かれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)
つまり、「渋谿の崎」というところは、ヤマトコトバにタモトホル(徘徊)ところ、同じ場所をぐるぐるめぐることになるに違いないところだからそう歌っている。「松田江」という地名も、マツ(待)+タエ(絶)という意味、すなわち、長い時間が経過してもはや誰も待ってはいないことを意味しているはずだから、そこは「長浜」であって、時間は「過ぎて」いるというのである。同様に、「宇奈比川」というところも、ウ(鵜)+ナヒ(綯)するのがふさわしいところで、鵜飼の縄を綯って使うのが順当である。だから、「鵜川立ち」と続いていくわけである。「鵜川立つ」とは、鵜飼をする場所を決めて鵜飼を行うことをいう。鵜飼は、鵜にまつわるさまざまな漁法のことをいい、魚が鵜を怖がって逃げる習性を活かして行う漁すべてを言った。鵜の羽を竿の先や縄の各所にとりつけて川のなかに入れ、魚を脅かして網へと追い込みをかける漁もその一つである。宇奈比川=ウ(鵜)+ナヒ(綯)+カハ(川)のことだとすれば、「清き瀬ごとに」場所を決めて追い込み漁をしてはあちらこちらへ行ったということを言っていることになる。
このように、渋谿、松田江、宇奈比川という地名をピックアップして駄洒落を言っている。そして、これらでは言辞として満足できないということを、遊覧するのにふさわしくはないと歌に昇華している。言葉遊びをしていることを、あたかも紀行しているかのように歌に取り繕っているものなのである。
後半が歌の主意となる布勢水海遊覧への推奨部に当たる。後半で出てくる地名は、「布勢の海」、「二上山」である。二上山についてはすでに「二上山賦」に詠まれている。赤ん坊が二つカミ(噛)する山に喩えられるチチ(乳)と、伝承されている海幸山幸の鉤易への話で「一千鉤」を作って償おうとしたのに受け取らなかったこととを掛けて歌にしている(注1)。この歌でも題詞の脚注に「此海者有二射水郡舊江村一也」と断られている。水に射ても魚は得られず釣り針(鉤)を失うばかりなのである。海幸山幸の話では、最終的にもとの釣り針を返せと責めたてていた相手を屈服させ、犬(狗)のように従わせたということになっている。犬を躾けて服従させた代表的なポーズに「伏せ」がある(注2)。
「伏せ」のポーズ(埴輪 ひざまずく男子、古墳時代、6世紀、東京国立博物館特別展はにわ展示品、右:群馬県太田市塚廻り4号墳出土、文化庁(群馬県立歴史博物館保管)、左:茨城県桜川市青木出土、大阪歴史博物館保管)
今、大伴家持は越中国に赴任していて、フセという地名のあることに思いを馳せている。すでに二上山賦で記紀の説話にある海幸山幸の鉤易への話で「一千鉤」について歌にしていた彼は、さらに「布勢の水海」という地名を知り、さらに輪をかけて一連の話として歌に歌い込み楽しみとしている。「遊二-覧布勢水海一賦」で家持が歌いたいのはただそれだけである。言い伝えに伝えられていることが越中の地名としてあるから、そこへ行って遊ぼうと歌っている。彼が今しているのは言葉遊びである。
「思ふどち」という言葉が家持長歌に二つ、池主敬和長歌に一つ出てくる。気の合った親しい人同士、の意と考えられており、ここではともに布勢水海に遊覧した越中国の国府に勤める官人のことを指すと思われている(注3)。しかし、「思ふどち」は文字どおり思う者同士の意であろう。布勢水海遊覧の意味を同じように理解する者同士のことである。海幸山幸の伝承の顛末の地として名のあるところ、目的地の布勢水海は鉤を返した時に反抗してきたら溺れさせることのできる水海のことなのだ、と比喩のうちに理解し合えるということである。それがこの歌の主題である。「かくし遊ばむ」とは言葉遊びをすること、ヤマトコトバに戯れて作った歌の言と実際の地名の事とが重合するのを喜ぼうではないか、というのである。布勢水海でアクティビティを楽しもうというのではない。
二
池主の「「敬下-和遊二-覧布勢水海一賦上賦一首」を見ていく。
「真楫櫂貫き」について解釈が定まっていない。筆者は、国府勤務の官人が「海人船」を借りて漕ぎ出していることを考え併せ、何艘かの船を出すなか、操作法がわからずに「楫」として船の左右にオールを出して漕いでいる人もいれば、一人乗りのせいなのか「櫂」として掻いて使っている人もいるということを言いたくて変な言い方をしているものと考える。「櫂」という語は奈良時代からイ音便で使われていた珍しい例として知られている。
「うちくちぶり」は未詳の語である。諸説あるが不明である。「…… 馬並めて うちくちぶりの 白波の ……」と続いている。万葉集長歌の性質として、尻取り式に言葉が数珠つながりになっていることが指摘されている。ただの尻取りであると考えるなら、馬と白波をつなぐことを示すものとして、馬の口の内のことが想起されるだろう。轡を嵌められながら歯を食いしばって息荒く進む時、口のなかは泡だらけになっている。「荒磯に寄する」白波のような状態である。現代語ではあるが、何か言いたげな口ぶり、と言えば、何かを言いたそうにしている様子のことをいう。馬の口ぶりを想像するなら、ただ草を食べたいということだけだろう。よだれが垂れている口の内は、草を喰むことができずに馬銜ばかり喰んでいる。白波が立っている。
「花散りまがひ」の花は具体的に何の花かと特定はできないとされている。ではどうしてこのような句が出てくるか。そこが歌い方のミソである。ヲウノサキ(乎布の崎)と言ったから、サキ(咲)の次はチリ(散)ことになり、「散りまがひ」となるのである。その後でもだらだらと対義語を並べて述べ立てている。「さざれ波」は「立つ」を導いているだけなのであるが、すかさず「立ちても居ても」と人間の姿勢へと話が転じている。論理展開をして行っているのではなく、音楽的に転調の妙とでも言うべき言葉を尻取り式に繰り出して進んでいる。そのことを池主も「敬和……賦」と言っている。だらだらとヤマトコトバの音声が続いているが聞いてゆけばわかる歌を、だらだらと漢字が続いているが読んでゆけばわかるものである「賦」になぞらえてそう呼んだということである(注4)。
大伴家持の言葉遊びは、この布勢遊覧賦において「敬和」する人を得た。ヤマトコトバの「賦」は、駄洒落、地口のオンパレードである。近現代の人にとっては、常日頃の感覚では近づくことのできない言語空間に、家持や池主は「賦」の歌のなかで「遊覧」(注5)していたということになる。言葉遊びの極みであった。
(注)
(注1)ここでは海幸山幸の話を再現させて歌に詠んでいる点しか示さない。詳細は拙稿「大伴家持の「二上山賦」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/70f132f85c9d58b6d26a0ec6f71effbe参照。海幸山幸の話の顛末は、ホヲリノミコトが地上に戻った時、相手のホデリノミコトを完全に屈服させている。そして、ホデリノミコトは隼人の阿多君の祖であると断られている。職員令の定めとして、隼人は、宮門を守護する役を担うこと、溺れた時の様子で歌儛を演じること、竹笠を造作することが定められている。その様子は、狗(犬)のようであると譬えられ、隼人司が演じるべき職掌となっている。犬は「伏せ」と言われたら伏せてじっとしているように躾けられている。服従している。なお、隼人の吠声は犬が遠吠えをするように声を発することである。「本声」、「末声」、「細声」の実態を知りたければ、オオカミの飼育されている動物園を訪れるといい。数頭の飼犬に救急車のサイレンを聞かせても反応して遠吠えすることがある。サイレンが「本声」、応じて一斉に吠え返すのが「末声」、余韻をもって後でも鳴いている一頭のそれが「細声」である。隼人についての史学の議論には不可解な論調が多数見受けられる(補注1)。
(注2)犬の調教用語は文献に残らない。ただし、今日でも「お座り」、「待て」、「おいで」、「お手」と並んで「伏せ」と言って躾けている。往時から番犬、猟犬として利用する場合に確実に行われていただろう。松井1995.は、長屋王の邸宅で鷹犬が米を餌にして飼われていたことを論証している。躾けられているから食べ物が目の前にあっても調理や狩猟の際、人間の邪魔をしない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
(注3)廣川2003.はさらに、官人の結束への願望が表出されて家持の歌に重出して用いられているとしている(151頁)。
(注4)「賦」と名づけた家持の考えについて、中国の詩文との関連を重く受け止める見解が多く見られる。文心彫龍・詮賦編に「賦者鋪也、鋪レ采檎レ文、体レ物写レ志也。」と説明されていることなどをどう捉えるか、真面目くさって議論している。実際に「賦」を目にしたダイレクトな印象から思い及んで名づけていると考えてはどうか。家持の作った「賦」の歌の特徴としては、言葉のつながりばかり重視されている点にある。内容面からまともに受け取ろうとすると空疎さが感じられ、歌としては低い評価が下されることが多い(補注2)。近現代の歌とは違う言葉づかいを実践しているのが万葉集の歌である。それは、長歌という形式が万葉集の終結をもって消滅したこととも関係する。尻取り式に言葉を継いで行って歌にしていることがあり得たのは、それが声に出して歌われたものだったからである。内容面から長歌を評価するなど、はじめからおよそナンセンス、まるで勘違いである。これらの長歌は、頓智話、なぞなぞの問題文として作られて歌われている。
なお、本稿では万3991〜3994番歌の細部には検討を加えていない。家持と池主のやっていることが何なのかを探ることで完結とした。付き合いきれないという気持ちも浮かんでしまった。後考に俟ちたい。
(注5)「遊覧」という語について、中国文学の影響を指摘する説は根強い。例えば、山﨑2024.は、「萬葉集の「遊覧」の全……十例のうち八例までが家持と池主の好尚に関わっていること、それも「遊於松浦河序」に顕著な漢籍志向の「勝景を賛嘆する中に心の解放、遊びを求める」内容をそのまま取り入れたものであった。「遊覧」は、越中における家持の心を捉えていた詩想の一つであったと言えるかもしれない。」(166頁) とまとめている。漢字という形に溺れて按図索驥に陥っていないだろうか。
(補注)
(補注1)中村1993.は諸説をあげ考究している(「隼人の名義をめぐる諸問題」)。この点については拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4で詳述した。ハヤヒトと呼ばれていたことが重要で、「隼人の名に負ふ」(万2497)という発想が生まれている。上代の人はそのことについて疑問を持つことは少なく、否定することはまったくなく、「名に負ふ」状態にあり、その名に値する行動をとるようにと集合意識として求めている。
海幸山幸の話の末尾で屈服した様子を「狗」に喩えている。官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である(「朱云、凡隼人者良人也。」(令集解))。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢は屈服を表し、最たる躾けの姿勢であるが、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする。意のままに動くさまを舞いと見立てたのが隼人舞である。舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名から囃すことが期待されている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、左右に分かれて位置して「吠声」を発している。元日や即位の際の儀礼に参与したのである。そんな掛け合いがなされるのはまるでオオカミの遠吠えのようであり、飼犬もつられて呼応したのを見て取っている。まことにうまい形容であると認められよう。
ハヤという言葉は嘆く時に用いられる助詞である。いちばん嘆くのは身近な人が亡くなった時である。隼人は殯に参列している。また、犬なのだから番犬の役割を果すべく守護人となり、隼人司は衛門府に属している。
これらのことを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことは史実として反乱を経てなのかといったことはあまり問題にならない。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。他との違いをあげるなら、南九州には古墳がない。墓制の問題であり、究極のところ生活誌の違いということになるだろう。だから殯に参列はしても埋葬には呼ばれていない。「山(陵)」を造らない理由として考えられるのは、彼らが「海」の民、海人族だったからということになろう。海人として海に潜って漁をしたとすれば、息継ぎをせずに長時間潜水をしていることになり、長い息をしていたということになる。ナガ(長)+イキ(息)を約してナゲキ(嘆)という言葉はできあがっている。嘆くからハヤという助詞に親和性がある。そんなこんなでハヤヒトという名を持つことになっていて、それに順ずる役回りを担うように要請されたということになる。「名に負ふ」ことの諸相によって語学的証明となっている。今日的な概念、例えば「服属儀礼」、「中華思想」、「呪力」といった術語で考察しようとしても的外れである。関連事項を以下に列挙した。
是を以て火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗にして奉事る者なり。世人、失せたる針を債らざるは、此、其の縁なり。(神代紀第十段一書第二)
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 吾が名は告りつ 妻と恃ませ(万2497)
…… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
垣越しに 犬呼び越して 鳥狩する君 青山の 繁き山辺に 馬休め君(万1289)
……其の大県主、懼ぢ畏みて、稽首きて白さく、「奴にして有れば、奴随ら覚らずして過ち作れるは甚畏し。故、のみの御幣物を献らむ」とまをして、布を白き犬に縶け、鈴を著けて、己が族、名を腰佩と謂ふ人に、犬の縄を取らしめてたてまつる。(雄略記)
凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人二十人・今来の隼人二十人・白丁の隼人一百三十二人を率て、分れて応天門外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めて入らば胡床より起ち、今来の隼人、吠声を発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉せよ。番上已上は、並横刀を帯び馬に騎れ。但し大衣已下は木綿鬘を著けよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路の曲を経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近き幸は吠せざれ。(延喜式・隼人司)
凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。惣て大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初め捍き、後に服ふなりと。諾ふに請ひて云はく、已に犬と為り、人君に奉仕らば、此れ則ち隼人と名くるのみと。(令集解・巻五)
歌儛教習せむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)
(補注2)高評価を与えている論考もある。風景描写として捉え、そこに讃美する精神を読み取って優れているとしている。論評に値しない。
(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『萬葉歌林』塙書房、2003年。)
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
菊池2005. 菊池威雄「遊覧布勢水海賦」『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
清原1994. 清原和義「家持の布勢水海─あぢ鴨の群れと藤波の花─」『高岡市万葉歴史館紀要』第4号、高岡市万葉歴史館、1994年3月。
島田2002. 島田修三「布勢水海遊覧の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1994. 中西進『大伴家持 第三巻 越中国守』角川書店、平成6年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
橋本1985. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院、2003年。
西2001. 西一夫「大伴家持論─大伴池主との贈答・唱和作品を中心に─」(博士論文)、2001年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3187651
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論─訓読・漢語表記・本文批判─』塙書房、2024年。
※隼人に関する参考文献は割愛した。拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4を参照されたい。
布勢の水海に遊覧ぶ賦一首〈并せて短歌 此の海は、射水郡の旧江村に有るぞ〉〔遊覧布勢水海賦一首〈并短歌 此海者有射水郡舊江村也〉〕
物部の 八十伴の緒の 思ふどち 心遣らむと 馬並めて うちくちぶりの 白波の 荒磯に寄する 渋谿の 崎徘徊り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布施の海に 船浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群騒き 島廻には 木末花咲き 許多も 見の清けきか 玉櫛笥 二上山に 延ふ蔦の 行きは別れず あり通ひ いや毎年に 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと〔物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米氐宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇尓与須流之夫多尓能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義氐宇奈比河波伎欲吉勢其等尓宇加波多知可由吉加久遊岐見都礼騰母曽許母安加尓等布勢能宇弥尓布祢宇氣須恵氐於伎敝許藝邊尓己伎見礼婆奈藝左尓波安遅牟良佐和伎之麻末尓波許奴礼波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我弥夜麻尓波布都多能由伎波和可礼受安里我欲比伊夜登之能波尓於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等〕(万3991)
布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや毎年に 見つつ偲はむ〔布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波尓見都追思努播牟〕(万3992)
右は、守大伴宿禰家持作る。 四月二十四日〔右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日〕
布勢の水海に遊覧ぶ賦に敬み和ふる一首〈并せて一絶〉〔敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶〕
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬うち群れて 携はり 出で立ち見れば 射水川 湊の洲鳥 朝凪に 潟にあさりし 潮満てば 妻呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿の 荒磯の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に纏き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人船に 真楫櫂貫き 白栲の 袖振り返し 率ひて 我が漕ぎ行けば 乎布の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや〔布治奈美波佐岐弖知理尓伎宇能波奈波伊麻曽佐可理等安之比奇能夜麻尓毛野尓毛保登等藝須奈伎之等与米婆宇知奈妣久許己呂毛之努尓曽己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟礼弖多豆佐波理伊泥多知美礼婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝尓可多尓安佐里之思保美弖婆都麻欲妣可波須等母之伎尓美都追須疑由伎之夫多尓能安利蘇乃佐伎尓於枳追奈美余勢久流多麻母可多与理尓可都良尓都久理伊毛我多米氐尓麻吉母知弖宇良具波之布施能美豆宇弥尓阿麻夫祢尓麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布里可邊之阿登毛比弖和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐尓波阿之賀毛佐和伎佐射礼奈美多知弖毛為弖母己藝米具利美礼登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎尓波流佐良婆波奈能佐可利尓可毛加久母伎美我麻尓麻等可久之許曽美母安吉良米々多由流比安良米也〕(万3993)
白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜辺を〔之良奈美能与世久流多麻毛余能安比太母都藝弖民仁許武吉欲伎波麻備乎〕(万3994)
右は、掾大伴宿禰池主作る。〈四月二十六日に追ひて和ふ。〉〔右掾大伴宿祢池主作〈四月廿六日追和〉〕
神堀1978.、橋本1985.、伊藤1992.、廣川2003.などに、家持と池主との共同の営為の作品であると捉えられている。そして、池主の「敬和」とは家持の心を汲みつつ対応させながら補足するように歌い、両者が互いに補完しあって一つの作品として完結するとしている。
コタフ(和)という語のダイアローグ性が理解されていない。コタフはコト(言)+アフ(合)の約と考えられ、言われたことに対して言葉で応じることをいう。一つの見方から言われたことに対して、それを十分に認めながら、別の見方からするとこうも言えるだろう、というのが「敬和」であろう。言葉の累積、累乗ではあっても補完し合ってようやく一となるという弁証法ではない。家持の歌だけでも、また、池主の歌だけでもきちんと一つの作として完成していると考える。
一
まず家持の「遊ニ‐覧布勢水海一賦一首」(万3991)を見てみよう。この歌は前半と後半に分かれている。「物部の …… そこも飽かにと」までと、「布施の海に …… 今も見るごと」とである。前半でいろいろと巡り見たが満足できなかった。そこで後半、布勢の海へと進んでいて、そこは遊覧するのにすばらしいところだからこれからも何度も通ってきては遊ぼうと言っている。題詞もそのように成っている。
多数出てくる地名も、前半に「渋谿の崎」、「松田江」、「宇奈比川」、後半に「布勢の海」、「二上山」と分かれている。これらは地誌的知識として歌に交えられているようには思われない。そもそも、紀行歌を歌ったとしても聞いた人の興味にかからなければ場の共有に属すことはない。知らない地方の知らない地名を言われても困惑するばかりである。すなわち、自然詠として情景を歌いたくて入れているのではないのである。
「渋谿」とあれば、そこはシブという言葉の示すところであると言葉解きをしている。船の遅くなることをシブ(渋)といい、後には滞ることをシブク(渋)と言ったようである。万1205番歌の例では、船を沖合まで出せば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地、故郷の方を振り向いて見たいと思ったが、岬の陰になって望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。
沖つ楫 やくやくしぶを 見まく欲り 吾がする里の 隠らく惜しも〔津梶漸々志夫乎欲見吾為里乃隠久惜毛〕(万1205)
蔀のもとに風渋かれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)
つまり、「渋谿の崎」というところは、ヤマトコトバにタモトホル(徘徊)ところ、同じ場所をぐるぐるめぐることになるに違いないところだからそう歌っている。「松田江」という地名も、マツ(待)+タエ(絶)という意味、すなわち、長い時間が経過してもはや誰も待ってはいないことを意味しているはずだから、そこは「長浜」であって、時間は「過ぎて」いるというのである。同様に、「宇奈比川」というところも、ウ(鵜)+ナヒ(綯)するのがふさわしいところで、鵜飼の縄を綯って使うのが順当である。だから、「鵜川立ち」と続いていくわけである。「鵜川立つ」とは、鵜飼をする場所を決めて鵜飼を行うことをいう。鵜飼は、鵜にまつわるさまざまな漁法のことをいい、魚が鵜を怖がって逃げる習性を活かして行う漁すべてを言った。鵜の羽を竿の先や縄の各所にとりつけて川のなかに入れ、魚を脅かして網へと追い込みをかける漁もその一つである。宇奈比川=ウ(鵜)+ナヒ(綯)+カハ(川)のことだとすれば、「清き瀬ごとに」場所を決めて追い込み漁をしてはあちらこちらへ行ったということを言っていることになる。
このように、渋谿、松田江、宇奈比川という地名をピックアップして駄洒落を言っている。そして、これらでは言辞として満足できないということを、遊覧するのにふさわしくはないと歌に昇華している。言葉遊びをしていることを、あたかも紀行しているかのように歌に取り繕っているものなのである。
後半が歌の主意となる布勢水海遊覧への推奨部に当たる。後半で出てくる地名は、「布勢の海」、「二上山」である。二上山についてはすでに「二上山賦」に詠まれている。赤ん坊が二つカミ(噛)する山に喩えられるチチ(乳)と、伝承されている海幸山幸の鉤易への話で「一千鉤」を作って償おうとしたのに受け取らなかったこととを掛けて歌にしている(注1)。この歌でも題詞の脚注に「此海者有二射水郡舊江村一也」と断られている。水に射ても魚は得られず釣り針(鉤)を失うばかりなのである。海幸山幸の話では、最終的にもとの釣り針を返せと責めたてていた相手を屈服させ、犬(狗)のように従わせたということになっている。犬を躾けて服従させた代表的なポーズに「伏せ」がある(注2)。
「伏せ」のポーズ(埴輪 ひざまずく男子、古墳時代、6世紀、東京国立博物館特別展はにわ展示品、右:群馬県太田市塚廻り4号墳出土、文化庁(群馬県立歴史博物館保管)、左:茨城県桜川市青木出土、大阪歴史博物館保管)
今、大伴家持は越中国に赴任していて、フセという地名のあることに思いを馳せている。すでに二上山賦で記紀の説話にある海幸山幸の鉤易への話で「一千鉤」について歌にしていた彼は、さらに「布勢の水海」という地名を知り、さらに輪をかけて一連の話として歌に歌い込み楽しみとしている。「遊二-覧布勢水海一賦」で家持が歌いたいのはただそれだけである。言い伝えに伝えられていることが越中の地名としてあるから、そこへ行って遊ぼうと歌っている。彼が今しているのは言葉遊びである。
「思ふどち」という言葉が家持長歌に二つ、池主敬和長歌に一つ出てくる。気の合った親しい人同士、の意と考えられており、ここではともに布勢水海に遊覧した越中国の国府に勤める官人のことを指すと思われている(注3)。しかし、「思ふどち」は文字どおり思う者同士の意であろう。布勢水海遊覧の意味を同じように理解する者同士のことである。海幸山幸の伝承の顛末の地として名のあるところ、目的地の布勢水海は鉤を返した時に反抗してきたら溺れさせることのできる水海のことなのだ、と比喩のうちに理解し合えるということである。それがこの歌の主題である。「かくし遊ばむ」とは言葉遊びをすること、ヤマトコトバに戯れて作った歌の言と実際の地名の事とが重合するのを喜ぼうではないか、というのである。布勢水海でアクティビティを楽しもうというのではない。
二
池主の「「敬下-和遊二-覧布勢水海一賦上賦一首」を見ていく。
「真楫櫂貫き」について解釈が定まっていない。筆者は、国府勤務の官人が「海人船」を借りて漕ぎ出していることを考え併せ、何艘かの船を出すなか、操作法がわからずに「楫」として船の左右にオールを出して漕いでいる人もいれば、一人乗りのせいなのか「櫂」として掻いて使っている人もいるということを言いたくて変な言い方をしているものと考える。「櫂」という語は奈良時代からイ音便で使われていた珍しい例として知られている。
「うちくちぶり」は未詳の語である。諸説あるが不明である。「…… 馬並めて うちくちぶりの 白波の ……」と続いている。万葉集長歌の性質として、尻取り式に言葉が数珠つながりになっていることが指摘されている。ただの尻取りであると考えるなら、馬と白波をつなぐことを示すものとして、馬の口の内のことが想起されるだろう。轡を嵌められながら歯を食いしばって息荒く進む時、口のなかは泡だらけになっている。「荒磯に寄する」白波のような状態である。現代語ではあるが、何か言いたげな口ぶり、と言えば、何かを言いたそうにしている様子のことをいう。馬の口ぶりを想像するなら、ただ草を食べたいということだけだろう。よだれが垂れている口の内は、草を喰むことができずに馬銜ばかり喰んでいる。白波が立っている。
「花散りまがひ」の花は具体的に何の花かと特定はできないとされている。ではどうしてこのような句が出てくるか。そこが歌い方のミソである。ヲウノサキ(乎布の崎)と言ったから、サキ(咲)の次はチリ(散)ことになり、「散りまがひ」となるのである。その後でもだらだらと対義語を並べて述べ立てている。「さざれ波」は「立つ」を導いているだけなのであるが、すかさず「立ちても居ても」と人間の姿勢へと話が転じている。論理展開をして行っているのではなく、音楽的に転調の妙とでも言うべき言葉を尻取り式に繰り出して進んでいる。そのことを池主も「敬和……賦」と言っている。だらだらとヤマトコトバの音声が続いているが聞いてゆけばわかる歌を、だらだらと漢字が続いているが読んでゆけばわかるものである「賦」になぞらえてそう呼んだということである(注4)。
大伴家持の言葉遊びは、この布勢遊覧賦において「敬和」する人を得た。ヤマトコトバの「賦」は、駄洒落、地口のオンパレードである。近現代の人にとっては、常日頃の感覚では近づくことのできない言語空間に、家持や池主は「賦」の歌のなかで「遊覧」(注5)していたということになる。言葉遊びの極みであった。
(注)
(注1)ここでは海幸山幸の話を再現させて歌に詠んでいる点しか示さない。詳細は拙稿「大伴家持の「二上山賦」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/70f132f85c9d58b6d26a0ec6f71effbe参照。海幸山幸の話の顛末は、ホヲリノミコトが地上に戻った時、相手のホデリノミコトを完全に屈服させている。そして、ホデリノミコトは隼人の阿多君の祖であると断られている。職員令の定めとして、隼人は、宮門を守護する役を担うこと、溺れた時の様子で歌儛を演じること、竹笠を造作することが定められている。その様子は、狗(犬)のようであると譬えられ、隼人司が演じるべき職掌となっている。犬は「伏せ」と言われたら伏せてじっとしているように躾けられている。服従している。なお、隼人の吠声は犬が遠吠えをするように声を発することである。「本声」、「末声」、「細声」の実態を知りたければ、オオカミの飼育されている動物園を訪れるといい。数頭の飼犬に救急車のサイレンを聞かせても反応して遠吠えすることがある。サイレンが「本声」、応じて一斉に吠え返すのが「末声」、余韻をもって後でも鳴いている一頭のそれが「細声」である。隼人についての史学の議論には不可解な論調が多数見受けられる(補注1)。
(注2)犬の調教用語は文献に残らない。ただし、今日でも「お座り」、「待て」、「おいで」、「お手」と並んで「伏せ」と言って躾けている。往時から番犬、猟犬として利用する場合に確実に行われていただろう。松井1995.は、長屋王の邸宅で鷹犬が米を餌にして飼われていたことを論証している。躾けられているから食べ物が目の前にあっても調理や狩猟の際、人間の邪魔をしない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
(注3)廣川2003.はさらに、官人の結束への願望が表出されて家持の歌に重出して用いられているとしている(151頁)。
(注4)「賦」と名づけた家持の考えについて、中国の詩文との関連を重く受け止める見解が多く見られる。文心彫龍・詮賦編に「賦者鋪也、鋪レ采檎レ文、体レ物写レ志也。」と説明されていることなどをどう捉えるか、真面目くさって議論している。実際に「賦」を目にしたダイレクトな印象から思い及んで名づけていると考えてはどうか。家持の作った「賦」の歌の特徴としては、言葉のつながりばかり重視されている点にある。内容面からまともに受け取ろうとすると空疎さが感じられ、歌としては低い評価が下されることが多い(補注2)。近現代の歌とは違う言葉づかいを実践しているのが万葉集の歌である。それは、長歌という形式が万葉集の終結をもって消滅したこととも関係する。尻取り式に言葉を継いで行って歌にしていることがあり得たのは、それが声に出して歌われたものだったからである。内容面から長歌を評価するなど、はじめからおよそナンセンス、まるで勘違いである。これらの長歌は、頓智話、なぞなぞの問題文として作られて歌われている。
なお、本稿では万3991〜3994番歌の細部には検討を加えていない。家持と池主のやっていることが何なのかを探ることで完結とした。付き合いきれないという気持ちも浮かんでしまった。後考に俟ちたい。
(注5)「遊覧」という語について、中国文学の影響を指摘する説は根強い。例えば、山﨑2024.は、「萬葉集の「遊覧」の全……十例のうち八例までが家持と池主の好尚に関わっていること、それも「遊於松浦河序」に顕著な漢籍志向の「勝景を賛嘆する中に心の解放、遊びを求める」内容をそのまま取り入れたものであった。「遊覧」は、越中における家持の心を捉えていた詩想の一つであったと言えるかもしれない。」(166頁) とまとめている。漢字という形に溺れて按図索驥に陥っていないだろうか。
(補注)
(補注1)中村1993.は諸説をあげ考究している(「隼人の名義をめぐる諸問題」)。この点については拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4で詳述した。ハヤヒトと呼ばれていたことが重要で、「隼人の名に負ふ」(万2497)という発想が生まれている。上代の人はそのことについて疑問を持つことは少なく、否定することはまったくなく、「名に負ふ」状態にあり、その名に値する行動をとるようにと集合意識として求めている。
海幸山幸の話の末尾で屈服した様子を「狗」に喩えている。官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である(「朱云、凡隼人者良人也。」(令集解))。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢は屈服を表し、最たる躾けの姿勢であるが、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする。意のままに動くさまを舞いと見立てたのが隼人舞である。舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名から囃すことが期待されている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、左右に分かれて位置して「吠声」を発している。元日や即位の際の儀礼に参与したのである。そんな掛け合いがなされるのはまるでオオカミの遠吠えのようであり、飼犬もつられて呼応したのを見て取っている。まことにうまい形容であると認められよう。
ハヤという言葉は嘆く時に用いられる助詞である。いちばん嘆くのは身近な人が亡くなった時である。隼人は殯に参列している。また、犬なのだから番犬の役割を果すべく守護人となり、隼人司は衛門府に属している。
これらのことを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことは史実として反乱を経てなのかといったことはあまり問題にならない。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。他との違いをあげるなら、南九州には古墳がない。墓制の問題であり、究極のところ生活誌の違いということになるだろう。だから殯に参列はしても埋葬には呼ばれていない。「山(陵)」を造らない理由として考えられるのは、彼らが「海」の民、海人族だったからということになろう。海人として海に潜って漁をしたとすれば、息継ぎをせずに長時間潜水をしていることになり、長い息をしていたということになる。ナガ(長)+イキ(息)を約してナゲキ(嘆)という言葉はできあがっている。嘆くからハヤという助詞に親和性がある。そんなこんなでハヤヒトという名を持つことになっていて、それに順ずる役回りを担うように要請されたということになる。「名に負ふ」ことの諸相によって語学的証明となっている。今日的な概念、例えば「服属儀礼」、「中華思想」、「呪力」といった術語で考察しようとしても的外れである。関連事項を以下に列挙した。
是を以て火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗にして奉事る者なり。世人、失せたる針を債らざるは、此、其の縁なり。(神代紀第十段一書第二)
隼人の 名に負ふ夜声 いちしろく 吾が名は告りつ 妻と恃ませ(万2497)
…… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
垣越しに 犬呼び越して 鳥狩する君 青山の 繁き山辺に 馬休め君(万1289)
……其の大県主、懼ぢ畏みて、稽首きて白さく、「奴にして有れば、奴随ら覚らずして過ち作れるは甚畏し。故、のみの御幣物を献らむ」とまをして、布を白き犬に縶け、鈴を著けて、己が族、名を腰佩と謂ふ人に、犬の縄を取らしめてたてまつる。(雄略記)
凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人二十人・今来の隼人二十人・白丁の隼人一百三十二人を率て、分れて応天門外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めて入らば胡床より起ち、今来の隼人、吠声を発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉せよ。番上已上は、並横刀を帯び馬に騎れ。但し大衣已下は木綿鬘を著けよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路の曲を経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近き幸は吠せざれ。(延喜式・隼人司)
凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。惣て大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初め捍き、後に服ふなりと。諾ふに請ひて云はく、已に犬と為り、人君に奉仕らば、此れ則ち隼人と名くるのみと。(令集解・巻五)
歌儛教習せむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)
(補注2)高評価を与えている論考もある。風景描写として捉え、そこに讃美する精神を読み取って優れているとしている。論評に値しない。
(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『萬葉歌林』塙書房、2003年。)
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
菊池2005. 菊池威雄「遊覧布勢水海賦」『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
清原1994. 清原和義「家持の布勢水海─あぢ鴨の群れと藤波の花─」『高岡市万葉歴史館紀要』第4号、高岡市万葉歴史館、1994年3月。
島田2002. 島田修三「布勢水海遊覧の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1994. 中西進『大伴家持 第三巻 越中国守』角川書店、平成6年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
橋本1985. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院、2003年。
西2001. 西一夫「大伴家持論─大伴池主との贈答・唱和作品を中心に─」(博士論文)、2001年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3187651
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論─訓読・漢語表記・本文批判─』塙書房、2024年。
※隼人に関する参考文献は割愛した。拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4を参照されたい。