日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。
秦酒公を得たり〔得秦酒公〕
外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕
琴の音の あはれなればや 天皇君 飛騨の匠の 罪を赦せる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
幼武天皇、飛騨の匠御田に仰せて、楼閣を作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りて疾く走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭に倒れて、捧げたる饌物を覆しつ。天皇、采女を御田が姧せるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公、琴を弾きて、その音を天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。
冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇、木工闘鶏御田〈一本に猪名部御田と云ふは、蓋し誤なり。〉に命せて、始めて楼閣を起りたまふ。是に、御田、楼に登りて、四面に疾走ること、飛び行くが若きこと有り。時に伊勢の采女有りて、楼の上を仰ぎて観て、彼の疾く行くことを怪びて、庭に顛仆れて、擎げらるる饌〈饌は、御膳之物なり。〉を覆しつ。天皇、便に御田を、其の采女を姧せりと疑ひて、刑さむと自念して、物部に付ふ。時に秦酒公、侍に坐り。琴の声を以て、天皇に悟らしめむと欲ふ。琴を横へて弾きて曰はく、
神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る析きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや(紀78)
是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪を赦したまふ。(雄略紀十二年十月)
雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。
凡そ斐陁国は、庸調俱に免せ。里毎に匠丁十人点せよ。〈四丁毎に、廝丁一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁米を輸して、匠丁の食に充てよ。〈正丁に六斗、次丁に三斗、中男に一斗五升。〉(賦役令)
実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)。
しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。
是歳、百済国より化来る者有り。其の面身、皆斑白なり。若しくは白癩有る者か。其の人に異なることを悪みて、海中の嶋に棄てむとす。然るに其の人の曰はく、「若し臣の斑皮を悪みたまはば、白斑なる牛馬をば、国の中に畜ふべからず。亦臣、小なる才有り。能く山丘の形を構く。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為に利有りなむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其の辞を聴きて棄てず。仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構かしむ。時の人、其の人を号けて、路子工と曰ふ。亦の名は芝耆摩呂。(推古紀二十年是歳)
「芝耆摩呂」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋鯯魚という家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手をして、国の宝器を作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、砌(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之、一訓に之奈と為〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。
辛丑に、須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且盂蘭瓫会を設く。暮に覩貨邏人に饗へたまふ。(斉明紀三年七月)
甲午に、甘檮丘の東の川上に、須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
又、石上池の辺に須弥山を作る。高さ廟塔の如し。以て粛慎四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)
斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張、忽然に悋惜みて、勅使を欺誑きて曰さく、「此の田は、天旱するに漑せ難く、水潦するに浸み易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)。
左:埤湿の田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、中:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)、右:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))
五年の夏六月に、人をして塘の楲に伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すを快とす。(武烈紀五年六月)
水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋である。
又、皇太子、初めて漏刻を造る。民をして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れるぞと、云々。(天智紀十年四月)
漏刻(桜井養仙・漏刻説并附録、九州大学附属図書館・九大コレクションhttps://hdl.handle.net/2324/6632075(6of19)をトリミング)
漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水を注げた時に、確かな時を告げることができている。
ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。言=事であると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。
(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工について次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
左:須弥山石、右:石人像(レプリカ再現、飛鳥資料館展示品)
六十五年に、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を壱にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ。(仁徳紀六十五年)
又詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするに与せれども、朕加法するに忍びず。飛騨国の伽藍に徙せ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆を以て、白き蝙蝠獲たる者飛騨国の荒城郡のひと弟国部弟日に賜ふ。并て絁四匹・綿四屯・布十端を賜ふ。其の戸の課役は、身を限りて悉に免す。(持統紀八年十月)
白真弓 斐太の細江の 菅鳥の 妹に恋ふれか 眠を寝かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
黒き色を嗤笑ふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
ぬばたまの 斐太の大黒 見るごとに 巨勢の小黒し 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
斐太人の 真木流すといふ 丹生の川 言は通へど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄の ただ一道に〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)
語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういう事だからそういう言にし、そういう言だからそういう事として暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。
(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
秦酒公を得たり〔得秦酒公〕
外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕
琴の音の あはれなればや 天皇君 飛騨の匠の 罪を赦せる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
幼武天皇、飛騨の匠御田に仰せて、楼閣を作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りて疾く走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭に倒れて、捧げたる饌物を覆しつ。天皇、采女を御田が姧せるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公、琴を弾きて、その音を天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。
冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇、木工闘鶏御田〈一本に猪名部御田と云ふは、蓋し誤なり。〉に命せて、始めて楼閣を起りたまふ。是に、御田、楼に登りて、四面に疾走ること、飛び行くが若きこと有り。時に伊勢の采女有りて、楼の上を仰ぎて観て、彼の疾く行くことを怪びて、庭に顛仆れて、擎げらるる饌〈饌は、御膳之物なり。〉を覆しつ。天皇、便に御田を、其の采女を姧せりと疑ひて、刑さむと自念して、物部に付ふ。時に秦酒公、侍に坐り。琴の声を以て、天皇に悟らしめむと欲ふ。琴を横へて弾きて曰はく、
神風の 伊勢の 伊勢の野の 栄枝を 五百経る析きて 其が尽くるまでに 大君に 堅く 仕へ奉らむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠はや あたら工匠はや(紀78)
是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪を赦したまふ。(雄略紀十二年十月)
雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。
凡そ斐陁国は、庸調俱に免せ。里毎に匠丁十人点せよ。〈四丁毎に、廝丁一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁米を輸して、匠丁の食に充てよ。〈正丁に六斗、次丁に三斗、中男に一斗五升。〉(賦役令)
実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)。
しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。
是歳、百済国より化来る者有り。其の面身、皆斑白なり。若しくは白癩有る者か。其の人に異なることを悪みて、海中の嶋に棄てむとす。然るに其の人の曰はく、「若し臣の斑皮を悪みたまはば、白斑なる牛馬をば、国の中に畜ふべからず。亦臣、小なる才有り。能く山丘の形を構く。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為に利有りなむ。何ぞ空しく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其の辞を聴きて棄てず。仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構かしむ。時の人、其の人を号けて、路子工と曰ふ。亦の名は芝耆摩呂。(推古紀二十年是歳)
「芝耆摩呂」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋鯯魚という家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手をして、国の宝器を作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、砌(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之、一訓に之奈と為〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。
辛丑に、須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。且盂蘭瓫会を設く。暮に覩貨邏人に饗へたまふ。(斉明紀三年七月)
甲午に、甘檮丘の東の川上に、須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
又、石上池の辺に須弥山を作る。高さ廟塔の如し。以て粛慎四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)
斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張、忽然に悋惜みて、勅使を欺誑きて曰さく、「此の田は、天旱するに漑せ難く、水潦するに浸み易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1d/00/359956a89f4fca5f56da89d9b0e04f61_s.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/7d/ce/35d1b594756c6d5fcbf93f64296f452b_s.jpg)
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五年の夏六月に、人をして塘の楲に伏せ入らしむ。外に流れ出づるを、三刃の矛を持ちて、刺し殺すを快とす。(武烈紀五年六月)
水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋である。
又、皇太子、初めて漏刻を造る。民をして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇の、皇太子に為す時に、始めて親ら製造れるぞと、云々。(天智紀十年四月)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/5e/4b/fca456f0ddf23f32b4cff15ae63b095a_s.jpg)
漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水を注げた時に、確かな時を告げることができている。
ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。言=事であると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。
(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工について次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
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六十五年に、飛騨国に一人有り。宿儺と曰ふ。其れ為人、体を壱にして両の面有り。面各相背けり。頂合ひて項無し。各手足有り。其れ膝有りて膕踵無し。力多にして軽く捷し。左右に剣を佩きて、四の手に並に弓矢を用ふ。是を以て、皇命に随はず。人民を掠略みて楽とす。是に、和珥臣の祖難波根子武振熊を遣して誅さしむ。(仁徳紀六十五年)
又詔して曰はく、「新羅沙門行心、皇子大津謀反けむとするに与せれども、朕加法するに忍びず。飛騨国の伽藍に徙せ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆を以て、白き蝙蝠獲たる者飛騨国の荒城郡のひと弟国部弟日に賜ふ。并て絁四匹・綿四屯・布十端を賜ふ。其の戸の課役は、身を限りて悉に免す。(持統紀八年十月)
白真弓 斐太の細江の 菅鳥の 妹に恋ふれか 眠を寝かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
黒き色を嗤笑ふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
ぬばたまの 斐太の大黒 見るごとに 巨勢の小黒し 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
斐太人の 真木流すといふ 丹生の川 言は通へど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄の ただ一道に〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)
語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういう事だからそういう言にし、そういう言だからそういう事として暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。
(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。