古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

2024年11月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒公はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
              外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕

 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
  幼武わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。

 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみ闘鶏つげの御田みた一本あるふみ猪名部いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒公はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の 栄枝さかえを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。

 凡そ斐陁国ひだのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、須弥山すみのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ覩貨邏人とくわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)
左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、中:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)、右:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、三刃みつはほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋ろこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めて漏刻ろこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋ろこくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)
漏刻(桜井養仙・漏刻説并附録、九州大学附属図書館・九大コレクションhttps://hdl.handle.net/2324/6632075(6of19)をトリミング)
 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
左:須弥山石、右:石人像(レプリカ再現、飛鳥資料館展示品)
 六十五年に、飛騨国ひだのくに一人ひとりのひと有り。宿儺すくなと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各手足てあし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。左右ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、和珥臣わにのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆しんだいしを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城郡あらきのこほりのひと弟国部おとくにべの弟日おとひに賜ふ。あはせふとぎぬ四匹よむら・綿四屯よもぢ・布十端とむらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだ細江ほそえの 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ 見るごとに 巨勢こせ小黒をぐろし 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
 斐太ひだひとの 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。

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